なんと愛嬌のある表情、甘えたようなポーズ。資料館に入ってすぐ、あの「鮭をくわえた熊」のイメージが吹っ飛んだ。「熊の音楽隊」や「熊の授業」など、八雲で作られた昭和初期の作品には擬人化されたものが多く、思わず頬がゆるんでしまう。
八雲は明治維新後、尾張徳川家の旧藩士らが開拓したまちだ。19代当主・徳川義親(よしちか)は頻繁に八雲を訪れ、熊狩りに興じながらも、貧困な農民の姿に心を痛めていたのだろう。1922(大正11)年、旅先のスイスで見つけた民芸品を見本として持ち帰り、農民たちの副業、生活向上のために木彫りを推奨したのが、そもそもの始まりだ。
当時、スイスの農民たちが観光客のために作っていたペザントアート(農民美術)を日本にも取り入れ、生活の中に文化を広める意識もあったのだろう。1924(大正13)年、八雲で第1回農村美術工芸品評会を開くと1097点もの作品が集まった。道外からの出品もあり、趣旨を理解できずに形のよいカボチャや切り干し大根もあったとか。そんな中、酪農家の伊藤政雄がスイスの民芸品を手本に作ったのが、北海道の木彫り熊第1号だ。やがて徳川農場に農民美術研究会ができ、一定のレベルの作品には焼印が押され、商標登録したブランド品として販売されるようになった。
八雲の熊の彫り方は、大きく分けて「毛彫り」と「面彫り」がある。特に「毛彫り」は、本物の毛並みを思わせる繊細さと美しさが特徴的だ。義親がスイスから持ち帰った民芸品の単純な彫り方を見ると、どこから影響を受けたのか不思議だ。資料館の大谷茂之学芸員は「研究会の指導者に画家の十倉金之がいたことは大きい。日本画を描くような表現方法で毛並みを彫る。肩の盛り上がりから放射状に毛が流れる“菊型毛”は八雲産の証し」という。
農家である家業を手伝いながら彫刻を始め、「毛彫り」の作品で道展に入選するほどの腕前を持っていた柴崎重行(号:志)。やがて自分の彫り方を追求するようになり、「面彫り」の一種、柴崎独自の「ハツリ彫り」の作品を極めた。旭川でも始まっていた木彫り熊作りがさらに盛んになったのは、アイヌの率直な意見を聞くために、柴崎が作品を旭川に持ち込んだのがきっかけともいわれている。
熊狩りの殿様はアイヌとも親交を深めた。熊狩りの季節はまだ雪深い3月。義親は熊の習性や冬眠する穴の場所、冬山での狩猟方法などをアイヌから学び、一緒にイヨマンテ(熊祭り)を行うほど、彼らの文化習慣を尊重した。アイヌ研究家のジョン・バチェラー博士とも意気投合し、アイヌ語辞書の出版やアイヌ保護活動も援助した。
徳川農場では山で捕らえた2匹の子熊を飼育し、木彫り熊のモデルにしていた。だから、八雲で生産される作品は、鮭をくわえた野性の姿より、親しみのある作風が多い。町民にこよなく愛されていたが、第二次世界大戦が始まると檻の鉄を供出しなければならず、銃殺されてしまった。研究会も解散し、木彫り熊の制作は下火になった。
義親が木彫り熊の生みの親ならば、育ての親は茂木多喜治だろう。戦時中、多くの作者が木彫り熊の制作を断念する中、茂木は非国民と呼ばれながらも、写実的な毛彫り熊を作り続けた。「この人がいなければ、おそらく八雲の木彫り熊は消えていた。十倉から始まる菊型毛にこだわり、加藤貞夫や上村信光、引間二郎などの後進も育てた」と大谷学芸員。
人々の生活や意識の中で文化が力強く育っていくのを殿様が見守っている気がした。
北海道第1号の木彫り熊をはじめ、八雲町内外の木彫り熊など約300点が展示されている国内唯一の資料館。八雲と尾張徳川家との関わり、木彫り熊のルーツ、スイスのペザントアートについて紹介しながら、世界・全国各地から収集した民芸品も展示。資料館で見学した後、まちの飲食店には、まねき猫のように木彫り熊が飾られているので、誰の作品か当てながら食べ歩くのも楽しい。
北海道二海郡八雲町末広町154番地 TEL:0137-63-3131
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