ウラジオストクからもたらされたアイヌ史。

永寧寺記拓本

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

中国の明王朝(1368-1644年)がアムール川下流域、奴児干(ヌルガン)地方(現ティル村)に15世紀に築いた役所「奴児干都司(ヌルガンとし)」と「永寧寺」に建立された、二つの石碑のうちのひとつの拓本。もうひとつの碑の拓本も、市立函館博物館に収蔵されている。

1924(大正13)年に岡田健蔵が運営する私立函館図書館(函館市中央図書館の前身)に寄贈されたもので、陽の目を見ていなかったものが2007年に中央図書館の書庫から発見された。まだ解読は終わっていないが、2つの碑には役所と寺の設置経緯や明による在地経営のようすが刻まれていて、北東アジア史を解き明かす重要な資料とされる。

石碑自体は19世紀にウラジオストクの博物館に収められていることから、ウラジオストクで拓本が取られたのだろう。
姉妹都市提携を結んでいることからもわかるように、ウラジオストクと函館は明治期から文化・経済で深い関わりをもっていたのだ。

永寧寺の碑にはアイヌ民族の記述も見えるという。アイヌ史の上でも重要な資料であるゆえんだ。近世以降の歴史からは想像しづらいが、元の時代、アイヌ民族は交易のために大陸にも盛んに進出し、元王朝とも果敢に戦っている。九州へ蒙古軍が襲来する(文永弘安の役)少し前のことだ。時代が下って彼らは明王朝とは平和に共存していたとされるが、碑の研究が進めばそうしたいきさつに新たな光があたるかもしれない。

拓本の背景には、蝦夷地をふくめた沿海州の壮大な歴史と、港湾都市函館の成り立ちがいきいきと息づいている。

谷口雅春-text