地名にもなっていたロシア人実業家。

デンビー関係資料

写真提供/市立函館博物館

左/アルフレッド・デンビー 右/アルフレッド・デンビー夫人マリア

写真提供/市立函館博物館
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北洋漁業の先駆者といわれるアルフレッド・デンビー一族のアルバムなど。アルフレッド・デンビー(1879-1953)は函館を本拠地に、父が起こしたデンビー商会を、明治から大正にかけて北海道有数の企業に成長させた大実業家だ。

スコットランドで生まれロシアに帰化したアルフレッドの父は、船乗りとして中国にわたり、やがて樺太西海岸の昆布を中国に輸出して成功した。長崎に居を構えてユダヤ人の出資者セミヨノフと共同でセミヨノフ・デンビー商会を起業。長崎で日本人の妻も得た。函館にも出先と邸宅を置き、チェーホフの「サハリン紀行」にも登場するやり手だった。

長男で2代目のアルフレッド・デンビーは、1879(明治12)年に樺太西海岸の真岡(現ホルムスク)に生まれたといわれ、ロンドン大学に学び函館にやって来た。父がセミヨノフから独立してデンビー商会を立ち上げると、英語、ロシア語、日本語、中国語を自在にあやつりながら日露戦争後の難しい時代を乗り切り、代替わりを成功させる。拠点は、函館とウラジオストクだった。

19世紀のウラジオストクはロシア海軍が極東に確保した貴重な不凍軍港で、アムール川水運の河口拠点であったニコラエフスカヤや、カムチャツカ半島の漁港ペトロパブロフスクなどとともに発展をとげていた。鉄道や道路もない時代にこれらの港を結ぶのは、海路のみ。ロシア船にとって、沿海州に近い函館は、物資の供給をまかなうきわめて重要な中継地となった。

デンビー商会は1908(明治41)年にはカムチャツカに進出。カムチャツカ半島東海岸、カムチャツカ川河口のウス・カムの漁業権を取得した。現地に倉庫や冷蔵庫、缶詰工場、さらには労働者のための商店や病院、農園などを整えていく。大正はじめにはドイツやアメリカの最先端の紅鮭・銀鮭の缶詰製造ラインを稼働させて、2つの工場で年間18万缶以上の生産を誇った。工場ではノルウェー人技術者のもとに、ロシア人、帰化朝鮮人、日本人からなる職工労働者が760名あまりもいた。缶詰生産と出荷に関わる業務にはじまり、これらの人々の食糧や生活物資の流通、さらには毛皮貿易、ロシア義勇艦隊(民間からの義援金による海軍の補助部隊)の代理店、保険代理業など、デンビー商会が動かす資本と物資は、同時代の多くの函館商人のスケールを大きく超えたものとなった。

デンビー商会に代表されるロシアと函館の関わりについて、函館市史には、こんな一節がある。

明治末から大正年間において、実際に市民がロシア人を身近に感じるのは、春から秋にかけロシア義勇艦隊所属の船が入港することであった。ウラジオストクとオホーツク沿岸やカムチャツカ半島沿岸の港湾を結んで、定期的に就航していたこれらのロシア船は、その途中に函館に寄港するのである。その度に函館には乗組員のロシア人や朝鮮人が降り立ち、様々な経済的効果がもたらされるのであった。商店の看板にはロシア語が書かれ、店員も多少はロシア語をあやつった。ロシア貨幣の両替店も幾つかでき、西川町に軒をならべた古着屋は大繁盛であった。
 

漁業や貿易のために日本からもブームタウンであるウラジオストクやニコラエフスクに移住する者が多くいて、1917(大正6)年の数字ではウラジオストクの在留日本人は3千人を超えている。
しかしこの1917年、ロシア革命が勃発。民間資本は没収されデンビーは危機を迎える。デンビーは日本への亡命を選んだ。不動産や証券などは没収されたが漁場の経営権は保持できたので、三菱会社の資金を得て、新たに北洋漁業株式会社を設立。漁場経営にあたった。しかし経営はうまくいかず、やがてデンビーは会社を去った。会社はやがて日魯漁業(株)に発展していく。

函館のデンビー商会は貿易業務が主体となり、水産物缶詰などを海外に輸出した。ビジネスは堅調で、1930(昭和5)年には、彼は函館市から産業功労者として表彰されている。

デンビー家のアルバムや絵画は、アルフレッド・デンビーの夫人マリアの妹の夫、コンスタンティン・プレーゾから寄贈された。ウラジオストクに生まれ、函館や東京で貿易ビジネスに携わった人物だ。

デンビーの函館の邸宅は、初代の時代から谷地頭電停からの坂道の突き当たり右側にあり、古老たちは戦後になってもその坂をデンビーの坂と呼んでいたという。

谷口雅春-text

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