ブラキストンから寄贈された考古学資料。

ブラキストンの磨製石斧

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

トーマス・ライト・ブラキストン(1832~1891)が谷地頭(やちがしら・函館市)で採取した大型の石斧(39.5センチ)。

ブラキストンは、北東アジアでは津軽海峡に動物地理学上の境界があるとするブラキストン・ラインに名を残す、イギリス人貿易商で博物学者。このラインは、ニホンザルやイノシシは北東北が北限で、ヒグマやエゾシカは道南が南限となる境界線だ。

ブラキストンはもともとは陸軍軍人だが、子どものころから博物学、とりわけ鳥が好きで、カナダのノバスコシア、アイルランド、イングランドなど、勤務した土地の鳥や植物を調べては標本を作った。1854(安政元)年にはクリミヤ戦争に出征。1857~60年には西部カナダを探検して、61年には揚子江上流を踏査。帰国するや現役を退いて、日本近海での貿易と製材事業を起こす計画を立てていた西太平洋商会と雇用契約を結んだ。箱館との縁がここからはじまる。

1863(文久3)年。シベリア鉄道が敷かれるずっと前の時代に、犬ぞりを使い、さらにはアムール川を下りながらで大陸を横断して、新婦とともに箱館に移住。やがて製材業と材木をはじめとした貿易業を自ら立ち上げ、箱館戦争の争乱もたくみにくぐり抜けた。
夫人は明治を迎える前に帰ってしまったが、彼は20年あまり函館で暮らし、自社船による貿易など幅広い事業を展開するかたわら、数千点の野鳥の剥製標本を作った。あるときそれらは大英博物館に送られたが、インド洋上で台風にあって多くが失われてしまった。以後彼は標本類を日本に残すことに決め、1300点以上がいま、北海道大学の植物園博物館に収蔵されている。

厳格な性格ゆえに敵対する人々も少なくなかったが、ブラキストンは信頼に足るとみた人間とは深く交遊した。北海道の酪農の父エドウィン・ダンや地震学のジョン・ミルン、彼の教えで日本の気象技術の先駆者となった福士成豊、英国のラッコ猟船長スノーなどだ。北千島でのラッコ猟への開拓使の支援が受けられなかったスノーに、ブラキストンは自ら船大工に帆船を造らせ、出漁させた。スノーが著した『千島列島誌』は世界初の千島風土誌だ。

この特大の石斧は、1879(明治12)年に開拓使函館仮博物場が開場するのに合わせて本人から寄贈されたもの。出土や入手のいきさつはわかっていないが、素材は日高の青虎石だといわれている。考古学資料としても貴重だが、同時に、博物館の立ち上げとともに納められた、館の歴史上もきわめて価値の高い資料だ。

谷口雅春-text