クラークがいた時代を訪ねよう。

この島が、太古からのぶ厚い歴史を経て北海道と名づけられた時代のことを考えてみよう。列強の東アジア進出やペリー艦隊の箱館来航(1854年)などが導線になって日米和親条約が結ばれ、海外に向けてまず下田と箱館が開港された。「中央」から見れば最も遅れた土地であった「辺境」の蝦夷地は、一転して西洋近代文明の受け口となっていく。和人にとっては最後進の土地が、とつぜん時代の最先端の地に躍り出たのだ。迫り来るロシアへの備えと近代国家の体幹をつくる富国強兵のために、一刻も早くこの島に人を移し、すみずみを開拓しなければならない。

本州以南の農業技術が通用しない北方の風土に新しい技術を入れ、これを普及させるために最も有効な方法のひとつが、リーダーとなる人材を育てる学校だった。その代表が、北海道大学の源流に位置づけられる札幌農学校だ。封建制の前史をもたない自由な新天地で、W.S.クラークを筆頭にしたお雇い外国人たちが、新時代への希望と学問への意欲に燃え盛る青年たちを熱く指導した。講義はもちろんすべて英語だ。
亭々(ていてい)とそびえるポプラの並木と、青空の下に広がる広大な牧草地。乳牛がのんびり草を食(は)み、羊が群をなして遊ぶ牧場には、エキゾチックな畜舎が風趣を添える——。そんな北海道イメージを作ったのは、札幌農学校だった。

構図をさらに広げてみる。
札幌出身の作家島木健作(1903〜45)は随筆集『地方生活』(1941)で、開拓使が招いたアメリカ人には、ワシントンやリンカーンに通じる、アメリカ建国の精神が生き残っていたと指摘している。お雇い外国人のトップであるホーレス・ケプロンも札幌農学校のクラークも、南北戦争で戦った経歴をもっていたのだ。
「彼等はみな厳格で剛毅な清教徒の精神を持ってゐた。さういふ精神が、単なる説教のなかにあるのではなくて、学者であり、技師であり、実際家である彼等の実際の行動の中に脈々として生きてゐるのであった。それ故にこそ彼等は、彼等に接触した日本の若い青年たちに、ものを教へるだけではなく、偉大な人格的感化までも興へたのである。」

札幌農学校初代教頭クラークは有名だけれど、彼が指導してつくった「札幌農学校第2農場」を知る人は少ないかもしれない。しかし北海道遺産にも選ばれて現存するこの農場施設をめぐって、いま新しい動きが起こっていることをぜひ知ってほしい。第2農場をはじめとした札幌農学校付属の農場群を、カイの目線でとらえ直しながら、北海道の開拓史に新たな光を当ててみよう。

谷口雅春─text 伊田行孝─photo
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