「国稀」からはじまる日本海の記憶 -3

本間キミとその時代

丸一本間の2代目本間泰輔と妻キミ。大正後期、30歳前後のキミ

有島武郎や井上円了が増毛を訪れたのは1907(明治40)年。その3年後、丸一本間(現・国稀酒造)は、道南の茂辺地からとびきりの花嫁を迎える。かつての松前藩の家老の家系に生まれた、キミという気丈な女性だった。
谷口雅春-text

松前藩家老家からの嫁取り物語

「キミのことを考えると、幕末から明治にかけての日本の歴史がまるで自分に関わることのように、少し実感できるんです」。
増毛町(ましけちょう)の国稀酒造(株)の企画室長本間櫻さんは、曾祖母のことをそう言う。姉の林花織取締役も、キミのことをいまもいつも身近に感じているという。明治大正昭和と、激しい時代の潮流のただ中を泳ぎ切って現在の国稀の形を作ったのは、この本間キミ(1891-1968)なのだ。

本間キミは、丸一本間(現・国稀酒造)の二代目、本間泰輔の夫人。キミの実家は道南の茂別(現・北斗市)の下国家で、松前藩の家老として藩政に深く関わった家柄だった。父(濵三郎)は17代目で、その兄貞之丞が16代。キミの祖父となる下国崇教(たかのり・通称「安芸」)は、戊辰戦争の最終局面である箱館戦争の最前線にいて、その後の明治政府による北海道開拓のはじまりまでを見届けた人物だ。崇教は最後の日本式城郭のひとつである福山城(松前城)の築城の責任者(築城総奉行)となり、戊辰戦争では藩内で佐幕派(幕府側)と尊皇派が激しく対立する中で尊皇を軸にした改革を調整。榎本武揚率いる旧幕府軍が箱館戦争の緒戦で圧勝すると藩主徳広らと津軽に逃れた。『北海道史人名彙』(河野常吉)には、「資性温厚人望あり、又和歌を善くす」とある。

下国家のルーツは津軽安東家だ。下国家は15世紀半ばに、南部氏との抗争の末に本拠地である十三湊(現・五所川原市)から蝦夷地に逃れた。その後かれらは渡島半島に沿って12ほどの館(たて・砦)を築いていく。武装商人とも称される、獣や海獣の毛皮、干鮭、昆布、鷹の羽や砂金といった蝦夷地の特産物を本州と独占的に交易した一族だ。渡島半島南端は、茂別館が中心の「下の国」(現・北斗市矢不来)、大館(松前)中心の「松前」、花沢館中心「上の国」(現・上ノ国町)の三つの地域に分けられた。約6800坪もの敷地をもつ茂別館は、茂辺地川左岸の丘陵につくられていた。

下国氏はやがて蠣崎氏(のちに松前氏に改姓)の家臣となったが、蠣崎(松前)氏以外では唯一家老となる家柄となったのだった。蝦夷の中世史では、下国家はコシャマインの戦い(1457年)で重要な働きをしたとされている。箱館近郊の鍛冶屋集落で和人がアイヌの青年を刺殺したことに端を発して、東部アイヌの首長コシャマインに率いられたアイヌ民族が蜂起した事変だ。和人豪族の館はつぎつぎに陥落して、下国家政の茂別館と蠣崎季繁の花沢館(現・上ノ国)の2館を残すのみとなった。しかし蠣崎季繁のもとにあった武田信広が和人軍を指揮して反撃に成功。これを機に武田信広が蠣崎氏の養子となり、のちの松前藩の源流となる。以後和人とアイヌの交易は松前に集約されて、アイヌの自由な交易は制限されていった。蠣崎氏は改姓して松前氏となり、17世紀はじめには徳川家康からアイヌとの交易の独占権を承認される。櫻さんと花織さんの曾祖母下国キミは、こうした歴史の舞台にいた家系の末裔だった。

キミは1891(明治24)年に茂辺地(現・北斗市)に生まれた。上にふたりの兄がいる。キミの叔父である下国家16代貞之氶は、自宅で子どもたちのために寺子屋を開いたが、キミの父で17代となる濵三郎はこれを引き継ぐ形で茂辺地小学校の初代校長となった。新しい時代の学びを強く志向する家庭に育ったキミは、北海道庁立函館高等女学校(現・函館西高校)に一期生として入学する。高等科を卒業すると、自宅で近所の子どもたちに勉強を教えていたという。

一方で明治30年代の丸一本間は、呉服や雑貨など幅広い商いをしながら、ニシンの網元であり酒造りにも取り組んでいた。加えて海運業が絶好調で、不動産の分野にも進出していく。佐渡から小樽に渡り1875(明治8)年に増毛で起業した創業者本間泰蔵は、1902(明治35)年に商法が施行されてほどなく、自らの事業群を近代的な合名会社として束ねた。泰蔵は同郷の妻チエとのあいだに3人の子をもうけたが、このころ長男泰輔のために、とっておきの嫁取りを計画して実現させる。それがキミだった。
嫁取りのために動いたのは、丸一本間合名会社汽船部の函館支配人だ。跡取りに添わせたいと支配人が目をつけた令嬢がたまたま下国家の娘であったのか、最初から下国家と知っていたゆえに縁結びに奮闘したのかはわからない。増毛に根ざして功を成した商人にとって、下国家から嫁を取ることには格別の意味があった。江戸時代、増毛一帯は下国家の知行地であったからだ。世が世であれば一介の商人が知行主である武家から嫁を取るなど到底想像できなかったことだろう。泰蔵にとって、これ以上の成功の証があっただろうか。

1910(明治43)年、泰輔は会社の持ち船「太刀丸」を満艦飾にして、七重浜まで新婦を迎えに行った。キミは19歳。浜にはおおぜいの見物人が幾重にも人垣をつくっていた。もちろん増毛でも、わがまちの大店本間家が迎える嫁に好奇と期待が高まる。「太刀丸」が港に入ると、すぐさま婚礼の儀と披露宴が行われた。宴は親族と店の顧客それぞれ別にもたれ、さらには使用人、出入りの手伝人、女中ごとにも席が設けられた。盛大な披露宴が4日間で5回も開かれたのだった。

他方で明治の世は、松前藩の威光をすでに過去のものにしていた。かつての御家老家からの嫁入り道具ははたしてどれほどけた違いのものかと想像していた本間家の人々は、キミの持参品の、豪華ではあるがあっけないほどの少なさに驚いた。そのうちのひとつをいま、増毛の総合交流促進施設「元陣屋」の郷土資料室の展示で見ることができる。ひと振りの薙刀(なぎなた)だ。薙刀は、武家の女性の嫁入り道具に欠かせないもの。鞘(さや)には下国家の家紋、「丸に違い鷹の羽」が刻印されている。武士が矢羽根に使う蝦夷地東部や千島産のワシ・タカの尾羽は、本州の武家にとってきわめて価値の高いもので、松前藩はこれをアイヌとの交易で手にしていた。下国家の家紋は、まさに内地に向けた蝦夷地の稀少な特産品をかたどっているのだった。本間家によると、刀身の根元に「平安城住源直之」という名が刻まれている。直之は越前下坂出身で京都に住んだ刀鍛冶で、幕府ご用達の仕事を手がけて17世紀後半に活躍した人物。この薙刀は、松前家を通して下国家にもたらされたものなのだろう。こうして本間家に嫁いだキミはやがて、丸一ののれんを守る原動力になっていく。

下国家の家紋「違い鷹の羽」

 

さながら酒蔵への退却戦を指揮した本間キミ

創業者泰蔵の娘で泰輔の妹千代は、大正初めに結婚して一男をもうけたが、ほどなく亡くなってしまう。千代は泰蔵が溺愛した娘で、小樽から婿を取っていた。この子どもが、後年になって日本で最初の点字図書館を東京に開くことになる本間一夫だ。千代亡きあと一夫の父は本間家との縁が切れてしまったので、一夫は両親を知らずに育つことになってしまう。泰輔とキミは子宝には恵まれなかったので、一夫をわが子として迎え入れた。しかし一夫は5歳のとき、脳膜炎がもとで視力を失ってしまう。キミのショックと悲しみは深かった。キミは一夫に光を取り戻すために、名医と聞けば手間と費用をいとわず東京にも出かけたが、願いはかなわない。息子が視力を完全に失ってしまったことを受け入れるには、発症から8年以上の歳月が必要だった。

大正後期の本間家。真ん中に本間泰蔵、その左に一夫とキミ、キミの後ろに泰輔

一夫は、函館の元町にある函館盲唖院(現・田家町の「函館盲学校」)で学ぶことになる。キミは下国家が元町に持っていた屋敷を建て替えて(1928年)、道庁に勤めていたすぐ上の兄の家族に移り住んでもらって息子の世話を頼んだ。一夫が盲唖院に通ったこの古い建物はいま、函館観光の人気の喫茶店になっている。元町公園の東側、日和(ひより)坂をのぼったところにある「茶房無垢里(むくり)」だ。
一夫は盲唖院で点字をおぼえ、大きな喜びを覚えた。幼いころから本を読んでもらうのが好きだった一夫は、増毛時代は、キミが買ってくれた本をもっぱら店の奉公人などにせがんで読んでもらっていた。しかし好きなときに相手にしてもらえるわけではない。でも点字があれば、ひとりで好きなときに本が読める。一方で、点字化された本はまだとても少ない。古今の名作の点字本をたくさん作って、いつかそれを集めた図書館を開きたい。ロンドンにはそんなすばらしい図書館があるというではないか! 一夫少年の胸に、しだいにそんな思いが湧き上がった。またこの増毛時代、一夫の遊び相手になっていたのが、8つ下の従兄弟で、本間櫻さんと林花織さんの父である泰次だった。
一夫はその後、関西学院大学専門部英文科に進んだ。当時、視覚障害者に門戸が開かれていた数少ない高等教育の場だ。意欲に燃えて入学した一夫は、講義を聞きながらタイプを打ってノートをつくるのだが、大きな音が出るのでまわりに迷惑がかかってしまう。一夫の苦境を知ったキミは、一夫のためにノートを作ってくれる学友を見つけて、彼の学資は本間家で世話する、という解決策を見つけた。卒業後、一夫は東京の視覚障害者施設に勤める。1940(昭和15)年には、本家の支援を受けながら自身の蔵書をもとに日本初の点字図書館「日本盲人図書館」(現・日本点字図書館)を東京に開設(豊島区雑司ヶ谷)。翌年には本間家が東京に持っていた土地(現・新宿区高田馬場)に移転させた。
太平洋戦争がはじまると一夫は図書を茨城、そして増毛に疎開。終戦後しばらくは、増毛から貸し出し事業を継続した。

一夫がこのような道を歩んだので、事業の未来のために泰輔は、甥(弟泰一の次男)を養子にした。本間櫻さん、林花織さんの父で、のちに増毛町長を6期近く務めた本間泰次だ。創業者泰蔵の娘千代は小樽から婿を迎えたし、この連載でふれてきたように増毛と小樽の縁は強く、泰次は小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進み、2年のときには学徒出陣をしている。盛岡の戦車隊に入って満州へ向かったが、同じ隊にいたのちの作家司馬遼太郎との長い交友は、本間家の歴史を魅力的に彩っている。
さてキミの伴侶泰輔は1925(大正14)年に2代目を継いだのだが、創業者泰蔵が亡くなってすぐの翌年、1928(昭和3)年に逝ってしまった。泰輔はもともと病弱で、気丈なキミとはずいぶん性格が異なる人だったようだ。花織さんはキミから、泰輔が東京の病院に入院していたとき、病室から見える庭の一角でヘビが鳥の巣に侵入して卵を丸呑みするのを目の当たりにした話を聞いたことがある。「あの人は怖くなって、もうこんなところにいたくないと泣き言を言ったのよ」、とキミは笑った。
キミは夫の泰輔が亡くなってから、櫻さんと花織さんの父である泰次が代表につく1968(昭和43)年までの40年ものあいだ、丸一本間の舵取りを担った。その間、集中と選択の経営を果敢に実践する。泰輔が亡くなるといち早く呉服業と海運業から手を引き、ニシンの漁獲が激減した昭和30年代初頭には漁業から撤退。結果として、今日に直結する酒造業一本に絞る壮大な退却戦を指揮したのだ。その意味で現在の国稀酒造を築いたのはキミであったことは、国稀酒造(株)の誰もが実感するところだ。猫や馬など動物が大好きで、つねに世の中の新しい動きに敏感だったキミは、代表を泰次に引き継いだ年(1968年)、すべてを見届けたように76歳の生涯を閉じた。それは、明治以降に北海道に渡ってきた和人たちがちょうど開拓百年(開拓使設置から百年)の節目をうたった年だ。名門の武家から奥地の新興の商家に嫁ぎ、新たな時代に立ち向かうように歩みつづけた、強さとたおやかさを合わせ持ったキミの人となりは、現在の国稀の一杯にも溶けているのかもしれない。

松前から小樽、そして増毛以北につながっていた海の道は、大きく俯瞰すれば、古来列島の南北を太く結んでいた日本海の舟運(しゅううん)の一部だった。松前や江差の人々はそうした歴史を通して関西と深く関わっていたし、本間櫻さんも、子どものころ家にはいつも京都や大阪のお菓子などがあったと語る。日本海を北上しながら蝦夷地から北海道へ向かう時間と空間の旅は、国稀酒造を入り口にすることで僕たちの前にいきいきと立ち上がってくる。

曾祖母キミの思い出を語る本間櫻さん(左)と林花織さん

※古写真提供/国稀酒造(株)

増毛町・総合交流促進施設元陣屋
北海道増毛郡増毛町永寿町4丁目49番地
TEL:0164-53-3522
開館/9:00〜17:00
休館/毎週水曜日

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