羊蹄山麓の昭和史-1

有島農場の誕生と終焉

有島記念館(ニセコ町)から見る冬の羊蹄山

後志の魅力は、海と山が近いことだ。つまりまったくちがう生活文化が密接に隣り合っている。そして江戸時代から和人の営みが濃密にあった海に比べて、いまに直結する内陸の歴史はずいぶん浅い。平成の終わりに、羊蹄山麓の昭和をあらためて歩いてみよう。
谷口雅春-text&photo

鉄路が開いた後志の内陸開拓

1907(明治40)年の夏、まだ作家でもなく大学教師でもない29歳の有島武郎は、父の武らに同行して道北の増毛や留萌を訪れた。目的は、留萌港築港計画の視察のために内務大臣原敬を案内する、河島醇(あつし)道庁長官たちを助けることだった。ときの道庁長官河島は、父にとっては同じ薩摩閥で、大蔵省での後輩にも当たる実力者だ。その少しあとには仏教哲学者井上円了も増毛から道北に入って講話の旅を重ねているが、これらのいきさつは以前書いた。(「日本海、1907年の夏」)

前稿では触れられなかったが、このころの日本は、日露戦争後の疲弊感でおおわれていたことを理解しておく必要があるだろう。日露戦では日清戦争とは比較にならない戦費を要したために増税がつづき、個人も地方財政も追い込まれていた。そのうえ日清戦争では得られた膨大な賠償金も入らなかったし、戦死者は6倍以上の8万人を超えている。そんな重苦しい時代の風にあおられて、日露戦の講和条約が不十分だと反対する国民集会をきっかけに東京で起こった暴動が、日比谷焼打事件だ(1905年)。

先行きが見えない暮らしを打開しようと、北海道への移民を決意する単身者や家族も増えていく。北海道のデータでは、1907(明治40)年からの5年間の北海道の人口増加率は25%を超えている(1912年173万9千人)。桂太郎内閣は「地方改良」を掲げ、明治天皇は詔書(しょうしょ)を発した。社会の混乱をおさえて人々に日本国民としての勤勉と道徳への目覚めを説いた、「戊申(ぼしん)詔書」だ。有島父子らを留萌に導いたのは、景気対策の公共事業計画(留萌港建設)だったし、井上円了を動かしたのも、戊申詔書が訴えた、町村の改良と国民精神の成熟を急務とする時代背景だったといえるだろう。詔書には、日露戦争の勝利によっていよいよ世界史の表舞台に乗った日本だが、享楽的な個人主義や共産主義の萌芽もあり、「華を去り、実に就き、荒怠相戒め」、天皇を中心にこの国を成り立たせていかなければならないという、その後の日本の運命を定める国家主義への強権的な意志が満ちていた。
といっても明治末の北海道では、「改良」すべき町村がどれほどあっただろう。函館と小樽、札幌間が直通列車で結ばれたのは1906(明治39)年の秋で、後志の内陸開拓はそのころからようやく本格化していったにすぎない。本州方面で地方改良が叫ばれたころ、後志の内陸では、言葉の本来の意味の地方創生の時代だった。

有島武郎の父の武が、羊蹄山麓に広がるマッカリベツ原野の賃下げを出願したのは1898(明治31)年。紆余曲折があり、まず娘(武郎の妹)の夫の名義(山本直良)で小作人たちを入植させることができたのは19世紀最後の年(明治33年)で、小作料の徴収がはじまったのは1904(明治37)年。そして有島武郎が農場主となったのは、1908(明治41)年だ。このとき、いまも有島という地名として残る農場の名義が、武郎に変更されたのだった。有島は農場の経営安定のために、農場管理人の吉川銀之丞と意見を交わしながら、借り入れを起こして水田づくりなどにも取り組んだ。

北海道の農業と小樽にとって、ヨーロッパでの第一次世界大戦の勃発(1914年)という人類の不幸は、思いがけない幸運をもたらした。豆類の主産地だったルーマニアやハンガリー、オランダなどが戦場になったために穀物の国際相場が暴騰。そこをめがけて、開通まもない狩勝峠の鉄路を使って十勝の雑穀が小樽から輸出されたのだ。十勝に豆成金、小樽に大商人たちが生まれる。羊蹄山麓でもでんぷんの原料として馬鈴薯が大ブームを呼んだ。加工まで自前で行おうと、でんぷんの自家製造に乗り出す地主や有力農家も出た。しかし大戦が終わるとたちまち生産過剰になって価格は暴落。設備はそのまま負債になる。狩太(かりぶと・現ニセコ町)でも小作料が払えない小作たちは土地を離れていった。

有島農場の創業者で有島武郎の父、有島武(写真提供:有島記念館)

有島武郎が敢行した農場解放

有島農場の歩みをめぐる顛末は、観光の時代のはるか以前に多くの人々が後志とニセコに注目する要因となった。概略を整理しておこう。
狩太村の有島農場は、薩摩藩の一支族である北郷(ほんごう)氏に仕える下級武士だった有島武(たけし)が、当初は娘婿の名義で広大な土地の貸し下げを受けて拓いたものだ(第1農場・第2農場合わせて約450ヘクタール)。維新の激流を渡り切って明治政府に出仕した武は、大蔵省で関税の制度づくりなどに取り組み、欧米へも派遣された。その後横浜税関長や国債局長を歴任したが、ときの大蔵大臣と衝突して、野に下る。そこからは、北海道の開拓期に絶大な権勢をふるった薩摩閥の推薦もあって島津家の役職を形式的に与えられ、日本鉄道(株)や日本郵船(株)などの役員として実業界で活躍した。戊辰戦争の負け組の子孫ともいえる道産子から見れば、まばゆい勝ち組人生だ。
有島武郎が東京の学習院中等科を卒業して札幌農学校に入学したのは、月寒に陸軍第七師団が置かれた1896(明治29)年(師団はほどなく旭川に移転)。武は長男の武郎が北海道にいることを動機のひとつに、彼らにはやがて鉄道の開通が近いことがわかっていた羊蹄山麓に、農場を開いたのだった。

しかし1922(大正11)年の7月、有島武郎は、農場を全小作人たち(約70戸)になんと無償で解放してしまう。土地を全員で共有して農業を続けることを条件に、自分は農場を手放す。君たちは「相互扶助」の精神で力を合わせて生きていってほしい—。彼は農場内の弥照(いやてる)神社で、小作人たちを前にそう呼びかけた。「小作人への告別」と題した文章で有島は、解放の主旨をこう書いている。

生産の大本となる自然物、すなわち空気、水、土のごとき類のものは、人間全体で使用すべきもので、あるいはその使用の結果が人間全体に役立つよう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によって私有さるべきものではありません。しかるに今の世の中では、土地は役に立つようなところは大部分個人によって私有されているありさまです。そこから人類に大害をなすような事柄が数えきれないほど生まれています。それゆえこの農場も、諸君全体の共有にして、諸君全体がこの土地に責任を感じ、助け合って、その生産を計るよう仕向けていってもらいたいと願うのです。

留学時代にロシアの思想家クロポトキンの書物などにふれながら有島は、小作制度の矛盾を自覚していた。地主の利益至上で小作を苦しめるばかりの農場の存在が心の負担となっていったのだが、地主と小作を問わず農地を個人の所有にしないというこの驚くべき宣言を可能にしたのは、それまでつねに自分を強権的に左右してきた父、武の死だった。『或る女』、『カインの末裔』、『生れ出づる悩み』などの名作で作家として名を成し、そのうえ父の絶対的な存在から逃れたことが、農場の解放を実現させた。
しかしこの宣言の翌年6月、武郎は婦人公論の記者で既婚者である波多野秋子と軽井沢の別荘で心中。各界にただならぬ衝撃を与えることになる。心中への批判は強く、教科書にも採用されていた有島の作品群は、版が替わるとことごとく消えていった。

有島は、自分がいなくなったあとの農場をどのように考えていたのだろう。自ら死を選ぶ前に、農場の将来への協力を求めていたのは、農学校以来の親友、北海道帝国大学農学部教授の森本厚吉だった。有島と森本は、相互扶助の精神で小作人たちが農場を末長く共有していける仕組みを志向した。そして1924年(大正13年)の夏、当時の産業組合法の枠組で、有限責任狩太共生農団信用利用組合(狩太共生農団)の設立が認可される。有島は当初「共産農団」と名づけたかったが、共産主義を非合法とする当局の動向を懸念した森本らに説得されたという。
土地や建物、水車などは農団の共有資産であり、組合がこれを経営する。農耕馬の共同放牧なども行われ、各農家は平等な立場で出資金と、利用に応じた経営費を公平に拠出する—。後志支庁の指導を受けながらこうした内容が定款とされた。
しかし世界恐慌の大波を受けた昭和初期は、天候不順などによる凶作も重なり、各地の農村にとっても苦しい年がつづいた。共生農団では造田などに借り入れた日本勧業銀行への返済もあった。

有島農場事務所前(1916年)。右端は管理人吉川銀之丞、その左に有島武郎。中央は曽我農場の曽我祐光(写真提供:有島記念館)

役割を終える狩太共生農団

さてその後のいきさつはどう進んだろうか。
『新訂有島武郎研究—農場解放の理想と現実—』(高山亮二)や『ニセコ町史』などをもとにまとめてみよう。
1931(昭和6)年の満州事変から翌年の盧溝橋事件へ、日本の強引な大陸進出が日中戦争の端緒を開き、国民は以後、欧米を相手に南洋までを戦場にした15年にも及ぶ戦争を強いられることになる。国策として農村に課せられたのは、食糧増産だ。一方で肥料や衣料や石炭をはじめ生活に必要なものは切符制の配給となり、入手が困難になっていく。肥料が不足して、頼みの地力も落ちていって、さらには働き手がつぎつぎに戦地に送られた。小学生や女学校の生徒たちの援農を受けて、生産はかろうじて維持されていったのだ。

戦争がようやく終わる1945(昭和20)年。この年の狩太は例年にも増す豪雪のために春が遅く、夏になっても気候はすぐれなかった。そして8月15日、日本の無条件降伏が国民に告げられる。人々はおびただしい犠牲と引き換えに15年に及ぶ戦争の重荷から解放されたが、空襲で焼かれた都市と食糧不足の国土に、兵士と外地からの引揚者が帰ってくる。食糧を求める人々も都市部から農村に押し寄せて、大きな混乱がつづいた。
本州の空襲被災者や、外地からの引き上げ者たちを北海道が大量に迎えたこの時代。日露戦争のあとのように、本道の人口は急増している。国勢調査では1945(昭和20)年11月の北海道人口はなんと東京都を超えて全国1位になっている(東京都348万8千人、北海道351万8千人)。1945年からの5年間で、北海道の人口は約351万8千人から429万5千人へ、22%以上も増えた。

そしてこの年の暮れ、戦勝側として日本の民主化を進めるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から、農地の所有の形を根本的に改める農地改革の指令が下る。農地の所有権が不在地主から小作者へ移され、地主と小作からなる、これまでの日本の農業の仕組みが解体されるのだ。GHQは、欧米から見れば悪習でしかなかった日本の封建制度の基盤に、こうした農業の仕組みがあると考えた。本州在住の不在地主も多かった北海道では、小作人の比率も都府県より高かったので、社会的なインパクトは大きかった。以後日本の農業は、自作農をベースに行われることになる。

共生農団はどうなったのだろう。
高山亮二は前掲書で、農地改革の主旨と内容を知らされた団員たちは、それが有島の主張と響き合っていると感じ、「旧場主有島氏の理想が、いまや〈天皇〉の上に立つ、マッカーサー司令部の言う所と〈理〉を一にしていたことを知って、驚嘆と自負を禁じ得なかったことであろう」と書いている。心中という大事件を起こして教科書からも削除されていた、かつての人気作家の復権と再評価が、この戦後からはじまる。

狩太村にも農地改革の激変が起こったのだが、共生農団の場合は、すでに自作農化が完了したものと見なされ、当初は解放の対象にならなかった。しかしGHQの指令を受けた農林省(当時)と北海道庁が調査に入り、農地全体を個人ではなく農団が所有する形態が疑問視され、農団は解体へと舵を切られていく。
管理人の吉川銀之丞は武郎の弟の生馬(いくま)や長男の俳優森雅之(有島行光)の意向を何度も書簡で求めたが、返信はなかった。しかし村の農民たちが土地を次々に自分のものにしていく中で、団員たちもまた、農地を自分で所有したいという思いが強まっていった。総会で長い議論が交わされ、ほどなくして農団は使命を終えることになった。
高山はこうした路線変更のいきさつについて、農地は水や空気同様に個人の持ち物にすべきではないという、農場の根本理念にあった共産主義的な志向が、GHQや日本の当局に誤解されて危険視されたことが影響したと書いている。
第1農場63戸、第2農場11戸、計74戸が売り渡しを受け、最終的に1949(昭和24)年1月に清算総会が開かれ、有限責任狩太共生農団信用利用組合は解散した。農団の歩みを各人の心に留めようと有島謝恩会が結成され、旧事務所のうち、かつて有島父子が来場したときに宿泊した部分(通称「高座敷」)は、記念館として資料などを保存・公開することになった。現在の有島記念館の源流だ。

(写真提供:有島記念館)

有島記念館
北海道虻田郡ニセコ町字有島57番地
TEL:0136-44-3245
WEBサイト
開館/9:00~17:00
休館/月曜、年末年始
入館料/大人 500円・高校生 100円・中学生以下と65歳以上のニセコ町民無料

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