学芸員の「根室海峡エピソード」コラム~5

開拓使別海缶詰所物語

別海缶詰所開所式の様子(1878年)(北海道大学附属図書館所蔵)

戸田博史(別海町教育委員会生涯学習課)-text

1878(明治11)年、開拓使は別海村の西別川河口(現別海町本別海)に缶詰所を設置しました。ほとんどの日本人が、缶詰が一体何なのかわからない時代のことです。別海の缶詰所は、前年の石狩缶詰所に次いで作られましたが、開拓使の本命は別海でした。江戸時代から将軍家に献上され、味が抜群な西別川産の鮭を缶詰にすれば、外貨をかせぐことができ、北海道の定住者も増えると考えたのです。
工場に掲げられた星印の旗は開拓使の記章で、北極星を表すこの星印は、民営化後も長く、ブランドデザインとして缶詰ラベルに使われました。この星印は、同じく開拓使の事業に起源をもつサッポロビールの商標として使われています。

別海缶詰所缶詰ラベル(1883年頃)(北海道立文書館所蔵)

トリートとスウェットというふたりのアメリカ人が招かれ、缶詰製造の指導に当たりました。缶詰所には生徒舎が併設され、全国から集められた缶詰生徒が、缶詰の製造を学びました。
缶詰はひとつひとつ手作りで作られました。缶に木製の定規で切りそろえた鮭を入れてフタをハンダ付けし、お湯で1時間半煮て缶に穴をあけて空気を出し、穴をハンダ付けした後、さらに2時間煮て出来上がりです。
ところが当初缶詰は全然売れませんでした。高価だったのと、宣伝不足が原因でした。別海缶詰所は廃業の危機を迎えます。しかしフランスから大量の注文が突然舞い込み、一気に息を吹き返し、廃止されていた択捉島の缶詰所を再開するほどでした。
1987(明治20)年に、官設缶詰所は民営化され、藤野缶詰所となりました。日清・日露戦争後、兵士たちを通じて缶詰のよさが国民に広まっていきました。標津や根室にも次々と缶詰工場が作られ、缶詰業は根室地方繁栄の屋台骨となっていきました。
戦後、別海缶詰所の建物は中学校に転用され、現在も別海漁協の倉庫として使われています。

旧別海缶詰所(現別海漁協倉庫)

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