イザベラ・バードはなぜ平取を目指したのかーその5

イザベラ・バードの平取調査の意義を未来に

この図はバードが既存の図をどこかからもってきたのではない。「旅と旅行記を科学する」観点(前回記事末尾参照)から図を分析しアイヌ語を併記して訳し終えた時、私は、彼女が、ペンリウク家での参与観察調査を通して平取のアイヌとその社会・文化を詳述する中で、チセに関する記述をより明白にするためにこの平面図を描いたと確信し、その特質を注記した(『完訳 日本奥地紀行3』平凡社、2012(pp.312-13)。この図が、60頁 もあり大きく二分される平取調査に関する「報(レター)」のうち、調査の成果を学術的にまとめた第42報(の(続))に掲載されているという前回指摘した事実も傍証になる。しかも、この図は図として重要なだけではなく、バードが書き残したことを今と未来にどう生かしていくのかという連載最終回=本論の狙いとも直結する。
そこで、この図を冒頭に掲げ、本論をここから展開する。図の謎解きから始めよう。
出典:金坂清則訳『新訳 日本奥地紀行』平凡社、2013 *無断複製転載禁止。
注:金坂清則訳注『完訳 日本奥地紀行3』同、2012では間口の数値が抜けているため『新訳』に依った。

本論ではこれまでの連載を踏まえ、バードの142年前の平取調査とその記録の意義を今と未来に生かしていく途について、ペンリウクのチセに光を当てるところから始め、北海道の旅とその記録がもつ意義へと敷衍します。本連載によって彼女の北海道の旅とその記録の真実を知った読者による新たな理解が定着し関心が高まっていってほしいとの思いや、彼女同様、真実を重視する姿勢、信念の旅行家イザベラ・バードへの愛が伝わってきます。
金坂清則・京都大学名誉教授-text&photo

『完訳』『新訳』所収「アイヌの家の平面図」の意義

冒頭の図は、3泊4日にわたってペンリウク家に滞在し、信じがたいまでの記録を書き残したその家自体を縮尺90分の1ないし100分の1を想定して描いたオリジナルな平面図です。ここでは、一間(ひとま)作りの家=チセの規模が大きいことや、記述と図面の記載との一致など、解釈の根拠の列挙は避け、最重要の証だけを示して説明を加えます。
それは、図の中央にある「茣蓙を敷いた木製の台」が、「囲炉裏の…上座」にある可動式の台(『完訳 日本奥地紀行3』p.77)であり、バードの到着時にはシノンディが「敷くべき熊の皮が今ありませんので、と詫びながら飾りのある茣蓙[模様付きの茣蓙、オキタルンペ]を敷い」てくれ(『同3』pp.77-78)、後には熊皮が敷かれた(『同3』p.73)台、つまりバードが観察や聴き取りをして唯一無二の資料を書き残した知の営みの場だったということです。彼女はこれが参与観察調査を行う自分の居場所、つまり特別に設えられた台だったが故に特別に描き込んだのです。
バチェラーが著書に掲げたペンリの家の平面図でも、萱野茂さんの名著『アイヌの民具』収載の図面でも、上(横)座であることが示されているだけであり、この台は描かれていません。この事実は今述べた考えの傍証になります。
こうして家の中でのバードの居所がわかると、同家の中で展開する様々な光景に関する記述がより鮮やかにイメージできます。
持参のベッドで一夜を明かしたバードが翌朝、そばの窓に神が祀られていることに気づかずにこの窓から冷えた茶を捨てようとするのをシノンディが「不安げな表情で押しとどめた」という記述(『同3』p.86)は、この窓が部屋の一番奥まった上(神)座側の特別な窓(ロルンプラ)であり、ベッドがその下に置かれたとわかる平面図のおかげで、その場に居合わせるかのように実感できます。
しかも図には前回紹介した宝壇[イヨイキリ]がその横にあることも明示されています。この図面があるのとないのとでは記述の臨場感が全く違うのです!
それだけではありません。ペンリウク家のチセがどこにあったかという重要問題を考える上での必須情報もまたこの図面から得ることができます。ロルンプラ=上座の窓が「朝日の当たる」窓であるというバードの記述(『同3』p.115)や、バチェラーが、これが東側の窓だったことを図面に記し同書の写真からもケマウペの並ぶ宝壇(イヨイキリ)がチセの東南隅にあったことがわかること、さらには、『アイヌの民具』もこの窓が「ほぼ南東に向いている」と記し、図面でもそう描いていること——これらの事実は、ペンリウク家のチセの棟が西(西北)-東(南東)に走る形になっていたことを教えてくれます。そしてこれを根拠の1つとして家の場所を割り出せます。さらに言えば、膨大な数の旅行記や論文を著したバードではありますが、実は、このような図面を描いたのはこのペンリウクの家が唯一なのです。結果論ながらこの事実も注目に値します。

コタンの長(おさ)ペンリの家の平面図 (Plan of Chief Penri's House)
出典:The Ven. Dr. , John Batchelor, "Ainu Life and Lore: Echoes of a Departing Race",Tokyo, Kyobunkwan, 1927 *無断複製転載禁止


チセの平面図
作図:武蔵野美術大学生活文化研究会
出典:萱野 茂『アイヌの民具』、『アイヌの民具』刊行運動委員会、1978 *無断複製転載禁止

 

ペンリウク家の旧地の比定とその意義

バードの平取調査がもつ意義の大きさだけでなく、ペンリウクが明治初期から中期にかけて北海道アイヌを代表する人物だったことからしますと、ペンリウクのチセについて、それが、義経神社の参道が旧国道237号からの分岐点の沙流川側にあったという推定にとどまっているのは遺憾です。
この思いは、2004年に始まった国の重要文化的景観の選定制度の下で、「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」が07年7月、全国で3ヵ所目の重要文化的景観に選定された慶事を踏まえると、一層募ります。なぜなら、バードだけでなく、デニング、シーボルト、バチェラー、チェンバレン、ランドー、フィッシャーほか数多くの稀人(まれびと)が平取コタンを訪れたのはペンリウクの存在の故であり、その家が異文化が交わる中枢の場となり、アイヌ社会が開拓使による北海道統治と和人の進出によって未曾有の変容を余儀なくされた近代初期におけるアイヌの平取コタンの最重要地点であったからです。
バード来訪の6年後の1884 年には小松宮彰仁親王がまだハヨピラにあった義経社を参拝した折ペンリウク家に立ち寄っています。その3年後の明治20年(1887)に初代北海道庁長官岩村通俊がアイヌの現状を尋ねたのもペンリウクです。さらに1893 年のシカゴ万国博覧会で来館者に配布すべく函館商工会から依頼されてバチェラーが執筆した『日本 北海道案内記』(※)はいっそう看過できません。
この書のいわば本論である「第二章 行程記」でバチェラーは北海道に精通している者ならではの優れた2週間の旅のプランを今風に言えばインバウンドに役立つように提案しているのですが、その旅は函館から室蘭を経て「ピラトリ」に至り、「ピラトリ」から札幌に出る旅なのです。しかも「ピラトリ」では「ペンリ」家を訪問すべきこと、ペンリに頼んで義経社を訪れるべきことを強調しているのです! 平取が「蝦夷地の旅」に不可欠な地であることをバチェラーが強調していることについては後にも記しますが、ペンリウクに会わずして平取を理解し味わえないと思わせる記述をバチェラーが行っている事実は注目に値します。
『平取町文化的景観解説シート』は平取の文化的景観を包括する大変すぐれた資料ですが、ペンリウクの家=チセについてはバチェラーが下宿した家として写真が紹介されている(後述)だけです。それは家が現存しないということが最大の理由なのでしょうが、チセの再生によるコタンの復元整備もされてきていることからしますと、十分でなく、絶対的な理由にはなりません。前段で述べたことからしますと、ピラトリコタンの近代初期の文化景観はペンリウク家抜きでは成り立たないのですから。そこで、バードの平取調査と記録の意義を今と未来に向けて考えていく途の1つとして、ペンリウク家の再生に関わる基礎的情報を考証に基づき提供します。

ピラトリの長(おさ)ペンリの家(Chief Penri's House at Piratori)
出典:The Ven. Dr., John Batchelor, "Ainu Life and Lore: Echoes of a Departing Race",
Tokyo, Kyobunkwan, 1927 *無断複製転載禁止

ペンリウクのチセの構造に関するバードの詳述と私がその平面図について明らかにしたことを、バチェラーの書物に掲げられている「ペンリの家」の良好な写真と突き合わせますと、いわば立面図と平面図が揃い、しかもバードの詳述もあるわけですから、精緻な復元再生が技術的には可能です。そして、復元されれば不特定のチセを復元するのとはレベルのまったく違う意義をもちます。バードの詳述によって、4日間にわたって展開した光景が映像を見るかのごとくに蘇る形で復元できるのですから。
としますと、問題はペンリウク家のチセの上記推定地を資料に基づいて裏づけられないか、ということに絞られます。そして、裏付けは可能です。
「明治中期頃の上平取」(以下、「望遠写真」と記載)と題する『平取町百年史』の口絵写真において集落の真ん中にあるこんもりした森の右にある道沿いの家2軒のうちの手前側の家がペンリウクのチセだと推察できるからです。その理由とは?


明治20年(推定)撮影の8×10写真に見る上平取(上)と参道の取付口および推定ペンリウク家(下)
出典:平取町史編集委員会編『平取町百年史』平取町、2003
注:参道の取付口は赤丸、ペンリウクの家(チセ)は幹道の左側の樹木の下手のチセと推定 *無断複製転載禁止

この写真は、上平取集落が沙流川左岸の山並みと沙流川およびその氾濫原を背に道沿いに細長く続いていく様子と、集落の中央部の道が真っすぐに延びることが、このような地形環境も含めてはっきりとわかるように、畑の広がる緩斜面の最高所ないしその上の高処の末端に三脚を据え、望遠レンズを使って撮影されたと考えられます。間違いなくガラス乾板写真です。しかも乾板は写真の縦横比(アスペクト比)から考えて8X10(エイトバイテン)。つまり最高の表現を行えるカメラを用い、しかも望遠レンズを用いて表現しているのです。
アイヌのチセを手前に配してアイヌコタンの風景をはっきりと表現すると共に、その下手側に和人の家が道の両側に並ぶ状況と、道が2度にわたってカーブし後者のカーブの先へと続いていくであろうことを明瞭に示しているのです。特に、写真の左端から真ん中のこんもりした森を背にするチセ、そしてこの部分で道が緩やかにカーブするすぐ先までチセが続くことを示す構図には、習熟した写真家である撮影者の、アイヌコタンの風景を強調して写す意図が明確に読み取れます。
そして明治29年製版の五万分一地形図における「上ヒラウトリ」集落の家の連なりと道の形状の描写と対比すると、この写真が、アイヌコタンとその下手に形成されつつあった和人地区からなる上ヒラウトリの全貌を写したことと、森より上流側のチセに関して言えば、道の山側にはまだほとんどなかったことが確認できますので、地形図よりも古い時代に撮影されたことがわかります。

明治29年製版五万分の一地形図「二風谷」図幅に見る上平取と下平取
注:『平取町文化的景観解説シート』No.33「義経神社」は、撮影地をピラトゥルコタンを北東側とするが、私の推定撮影地は少し異なり、むしろ北である。
*金坂作成。無断複製転載禁止

*無断複製転載禁止

このことは、アメリカの医師であり、探検家・民族学者でもあったH・ヒラー(1867-1921)が1901(明治34)年5月末に撮影した写真(※※)と比べることによっても裏づけられます。前述の望遠写真の場合と基本的には類似の位置とはいえ、氾濫原や道の写り具合から判断して、同じ緩斜面ながらもっと低い地点(町営住宅の北端付近と推察)に三脚を設置し、広角レンズで撮影されたことがわかるこの5×7インチのガラス乾板写真(※※※)は、畑が整然とし、道沿いの木も緩斜面の木も大きく成長し、望遠写真の中央の森も樹木の成長によって大きくなっていることを明示しているからです。木の成長から類推すると10年以上おそらくは10数年の時間差があると思われます。
他方、望遠写真では沙流川左岸の山裾に山崩れの跡が認められるだけでなく、手前の畑地に土砂が流れ込んで荒れたような形跡も認められますので、撮影年としてはハヨピラにあった義経社を流出させた豪雨があった明治20年(1887)の可能性が浮かび上がります。とすると、バードの平取来訪は1878年でしたから、望遠写真はそのわずか9年後の撮影ということになり、バードが見た風景が彷彿されるというすばらしい意義が加わるのですが、私がこの写真に注目するのは、それと共に、今述べたヒラーの写真を介在させ、この精細画像を分析することによって、ペンリウクのチセが上述の地点に比定できるという証拠を望遠写真から得ることができるからです(※※※※)。その証拠とは?

ヒラーがこの写真を広角レンズを用いて撮ったことは、先の望遠写真との構図の違い、特に集落の山側をカバーし、義経社の鳥居が収まるように撮影していることから明らかです。2019 年に沙流川歴史館で開催された特別展のポスタ―を飾ったヒラー写真では右端がトリミングされてしまっている上に鮮明度が落ちますのでわかりませんが、ペン博物館から提供いただいた精細画像によってヒラーが義経社の参道の途中にある鳥居のみならず木柵をきちんと表現しようとしたことは確実です。木柵が鳥居の先にまだ続いていくことがわかるようになっています。ヒラーの平取訪問が、アイヌ文化の可視化の一端であるアイヌの種々の民具の収集にあったわけですから、ピラトリを遠望するに当たって彼らが崇める義経社の鳥居と参道を収めることは不可欠だったと考えられるからです(※※※※※)
この点に着目するなら、参道の取付口が写真の中央に位置することは確実ですから、写っている木柵を左に延長させますと、参道が幹道と合するその取付口が判明するのです。神社の由緒板が写り、またその下手には馬が一頭繋がれていることや、この部分で本道が参道側に広がっていることもわかります。参道の取付口自体は明確ではありませんが、ヒラー写真から半世紀後の『平取村開村五十年史』口絵写真の1つ「義経神社表参道」でも、由緒板が鳥居の左側に設けられ、参道の取付口では広がりをもって幹道に接していますし、この状況は今も変わりませんので、図示した場所、つまり由緒板の手前側に参道の取付口を比定することは可能です。ヒラーは通訳ガイドを務めた小谷全一郎と雑用係だった白井柳治郎と3人で北海道調査を行っており、その際には馬車を用いています(『図録』に写真掲載、※※)が、馬車は専属の御者が操ったであろうことからすればヒラー自身は馬に乗っていた可能性はあり、少なくとも馬が繋がれていたのが参道の取付口だったことは確実です。また参道の取付口の幹道を挟んで反対側にあったと伝えられるペンリウクのチセ自体は見えませんが、それは大きくなった樹木の陰に当っているからです。事実、望遠写真ではその場所に前述の大きなチセがあり、その棟が西から東に走っていることがわかります。
ただ、この家をペンリウクのチセと断定するには問題があります。その1つは先述のペンリウクの家の写真ではまわりに建物がなく、特に南側が空地になっているのに対し、望遠写真では、集落の下手にある和人の家とは明らかに異なるものの、道に向かって庇のようなものが張り出していることから一般的なチセとは異なる家が、ペンリウクのチセの南に接して建っていることです。ですが、この問題は、その家が建物の写真以後に建ったと考えれば必ずしも問題になりません。ペンリウクの家の良質な写真の手前の道状の部分が幹道の一部だとみなし得るからであり、その場合には逆に私見を補強することになるからです。また、ペンリウクのチセの写真によると、チセの入り口に附属するセムと言われる部分が、西端にあったにも拘らず、望遠写真には写っていという問題も、前述の『平取町文化的景観解説シート』の「ジョン・バチェラーと平取聖公会」に収められた「写真4 ペンリウクの家」にはこのセムの部分がありませんし、南側がやはり空地になっていますので、望遠写真よりも古い写真と考えられることもあり、絶対的な問題にはなりません(セムが西端にあるということからペンリウクの家は幹道の沙流川側にあったことは確実であり、かつ沙流川側にこのような条件を満たす家を望遠写真でも広角写真でも他には見出せないことも傍証になります)。
かくして、ペンリウクの家と推定されるチセの場所を、資料によって、従来の伝承地に比定できましたので、その場所を町役場から提供いただいた縮尺1,000分の1の地図(1973年作製)に記入しますと、従来の想定地に一致します。ペンリウクのチセは、奥行が35フィート(約10.6メートル)、間口が25フィート(約7.6メートル)だった(第42報(続))のに対し、この敷地の北半分(地番3-1)は奥行が約15メートル、間口が約10メートル、南半分(地番78-2)は、それぞれ約19メートル、約13メートルですので、規模的にもまったく問題ありません(チセの奥行は冒頭の図では30フィートとなっていますが正しくは35フィートです。『完訳3』p.312)。かくして、国道237号のバイパス完成に伴って移動する2001年まで室蘭石油平取営業所の敷地(平取SS)になっていたその場所の大きな矩形の敷地(間口約24メートル、奥行約18メートル)の形状は、地籍図の類を見慣れた私にはペンリウク家の在りし日の敷地が蘇るように感じられます(※※※※※※)

平村ペンリウク家のチセのあった場所と参道との関係及び旧敷地の形状
出典:(株)シン技術コンサル「本町・荷菜現況平面図 3」平取町(縮尺1:1,000)、1978。方位は上が東。
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昭和27年当時の義経神社参道の景観―ヒラー写真から半世紀
出典:平取村開村五十年史編纂委員会編輯『平取村開村五十年史』平取村役場、1952(筆者所蔵)*無断複製転載禁止

以上、バードの平取調査の成果を出発点とし、他の資料を援用しての考証によって、バードの調査の今と未来に向かっての意義をペンリウクの家に焦点をおいて提示しましたが、近代初期にペンリウクのチセで展開した豊かな史実を思う時、現在は空地になっているガソリンスタンドの跡地利用に際しては、種々の問題はあるでしょうが、この史実を生かすことが大切だと思われます。少なくともこの場所が世界にその名を知られ、バチェラーが「往昔『アイヌ』人ノ首府」(後述)と記したピラトリの最重要場所いわば心臓だったこと、そしてその故にバードのすぐれた記録が誕生した場となったということが広く知られることは意義深いことだと言えます。何しろ希代の旅行家バードの数多い旅行記の中で最も重要だったのが日本の旅行記であり、その旅と旅行記にあって最も重要だった場所の1つが平取だったと言って間違いないのですから。バードの旅の世界を広く訪れて研究し、その副産物である写真を生かした写真展を縁の地で開催し、講演し、その成果を『写真集』として出版し、風景の持続と変化を知る面白さを多くの人々に知ってもらってきた経験からしますと、ペンリウクの旧宅があった場所には、ここしか持ちえない独自にして固有の価値があるのですから。

したがって、ツイン・タイム・トラベルが、臨場感に満ちヴィヴィッドで正確な記述に特徴のあるバードの旅行記の意義を生かす最も基本的なことであるということや、近代における平取コタンの重要性、およびそれが平取町の中心集落として今日に続いている事実、そして平取町で重視される歴史的文化景観に関しては何よりも場所性が重視されねばならないことからしますと、一層、平取コタンの地上平取で歴史的文化景観の整備が進められる一環として、上平取でペンリウクのチセの再生復元が進められるなら、バードの平取調査の意義を今と未来に向かって示すことにもなるように考えられるのです。
例えば、8月14~16日は義経神社の例大祭ですがその折や、バードが平取に滞在した8月24~27日、あるいはハヨピラに案内された26日に、Bird Festival in Biratoriのような催しが、世界に情報発進されるBird Festival in Hokkaidoの一部として上平取を中心に催され定着していくならば、大きな意味が生まれるように思われます。様々なものの連携こそは新たな意義を生むのです。二風谷におけるアイヌの歴史的文化景観整備の充実はすばらしいことではありますが、アイヌの文化と社会が世界に向けて発進されたその場が上平取であったという事実の様々な形での可視化は考えてみるべきことであり、ペンリウクのチセにはその象徴としての意味があります。
全国に名を馳せる「びらとりトマト」を始めとする農畜産物も加わって一層多様性を増している平取の魅力が、日本国内のみならず世界の人々を引き付けるには新旧の文化的景観が歴史の中で形成されてきたことへの地域住民の認識が不可欠であり、この点でもチセの再生は意義あることだと考えます。昭和48年には字名改正によって平取から本町ほ(ほんちょう)に改称されましたが、両崖の間を意味するピラウトリに由来するアイヌ語地名に上・下という日本語をミックスした旧地名もまた文化景観に関わるものとして大切にせねばならず、それ以上にこのような区別のなかったピラウトリというより古いアイヌ地名は重要で、その可視化が求められます。

 

バードの平取調査の意義の数々

以上の他にも、バードの平取調査の意義を考える上で『完訳』や『新訳』を生かす途はいくつもあります。読者の中には参加した方やその後のFM放送を聞いた方もあるかも知れませんが、昨年3月21日にアイヌ文化への関心の高まりに伴い北海道を舞台にした作品の朗読イベント(NHK室蘭放送局主催)がだて歴史の杜カルチャーセンターで開かれた際、6つの作品の1つとしてバードの旅行記が、唯一の外国人の著作として、また唯一の明治時代の作品として取り上げられました。そして『完訳 日本奥地紀行3』の第40報から「室蘭の風景」、第41報から「アイヌとの生活」、第41報(続)から「アイヌのもてなし」の部分が計11分にわたりNHKアナウンス室の高橋美鈴アナウンサーによって朗読され、聴衆を魅了しました。朗読の舞台となったのはもちろんペンリウクのチセです! そして30日には「朗読で旅する北海道」と題する胆振日高むけFM放送でそのうちの平取調査に関わる2つが朗読されました。
1月末にこの企画への協力を依頼された私は、わが意を得たりという気持ちになりました。と言いますのは本連載の3回目で触れた朗読番組記念CD『イザベラ・バードが見た明治の新潟』の完成目前だったからだけではありません。同名の朗読番組が新潟放送ラジオで2018年4月から半年間放送されるや新潟県においてバードとその新潟の旅への関心が一気に高まり広がったのを受けてCDを制作したのを踏まえ、CDと同様、小野沢裕子さんのすばらしい朗読によって、簡略本の訳書『新訳 日本奥地紀行』のすべてを耳で聴けるオーディオブックの制作に着手していたからです。このオーディオブックは8月に無事完成しました。
全19時間にも及びますので通巻版とは別に2時間を基準に10分割した版を制作しました。目の不自由な人や寝たきりの人や本を読む時間的ゆとりのない人にもバードの旅を味わえるようにしたことによって『新訳』の意義は今と未来に拓くものになったと自負しています。北海道の旅の部分に関しては省略が少なく、特に平取滞在の部分は一切省略がありませんので、朗読番組によってバードとその旅への関心の一気の高まりが実現した新潟県・新潟市と同様の状況が、北海道と平取で実現するよう願っている次第です。

*無断複製転載禁止


 
 
バードとその旅への関心の高まりは、平取の歴史の一大転換期だったこの時代への関心を育み、それを現在に連なる形で捉え、今と未来に生かす様々な活動を生むことにも繋がるでしょう。私は小中学校の社会科の郷土学習で取り上げたり(※※※※※※※)、社会教育や文化活動の中で『完訳』や『新訳』をグループで読む活動にも展開していくようになることを期待しています。
バードの書き残したことの中には、今日的には偏見や差別などの問題のあることもあるわけですから、それらにも目を向けつつ、希代の旅行家が信じがたいほどに詳細な記録を残したことと、ここが日本のみならず世界の人々をも引き付け得る希有な場所だということを知ることは、過去-歴史を、批判の目ももって今と未来に生かす上で意味のあることだと考えるからです。
以上本連載の眼目がバードの旅の目的地平取にあったことや、平取では文化的景観がまちづくりの重要な柱になっていること、またこの連載を掲載した『カイ』の運営会社が「まちづくり」に関わる活動を展開していることにも思いを寄せ、これにも少し踏み込んで記しました。バード研究者であると共に、地域整備や地域振興、まちづくり、文化景観、風景論、などに関心を寄せてきた地理学者としての上平取への思いの高まりを連載を通して感じてきたということもあります。ですが、一番大切なことは、地元の人々の考えであり、行動です。その意味もあって私は平取において、若い人々も含めて、バードとその旅と記録の本当の姿に関心を持ち、正確に知り、批判すべき点があることを知る一方で、その偉業に対する関心が、この連載が契機になって生まれ、高まっていってくれることを願っています。他にも私の訳書を今と未来に生かす途として記したいことはありますが、これまでとし、最後に平取から北海道に転じて連載を締めくくります。

 

北海道の旅のツイン・タイム・トラベルとその効用

「北海道の旅のツイン・タイム・トラベルとその効用」という小見出しを掲げたのは、何よりも、バードの辿った道が北海道の新しい旅のルートになり、様々な形で展開すると期待されるからです。これに関して最初に紹介しておきたいのは、先にも述べたバチェラーの提案する北海道の旅です。バチェラーは、何よりも平取の当時における重要性、平取が「蝦夷地の旅」に不可欠な地であることを前提にして、函館から室蘭を経て「ピラトリ」に至り、「ピラトリ」から札幌に出る旅を提案したのですから。
「時日ヲ費シテ日高国『ピラトル』ニ到リテ詳細ニ観察スヘシ該地ハ往昔『アイヌ人』ノ首府ニシテ最モ其形跡ヲ表スルニ足ルヘキ一村落ナリ又其周囲近傍ハ景色最モ美ナリ」(p.28)と記したのち、「三 室蘭ヨリ『ピラトル』ニ到ル事」においても、先に紹介したようにその意義を再論し、「四 『ピラトル』ヨリ札幌ニ到ル事」においては、「但シ『ピラトル』ト唱フ処ハ二ヶ処アリト雖モ『ペンリ』ノ居住スル処ハ他ノ『ピラトル』ヲ距ル大約半里ニ在ルカ故注意シテ此処ニ巡視スヘシ」(p.42)とまで述べて、上平取と下平取の別までも明記している(※)ことは、今から127年前のこと、バードの旅からわずか15年後のことであるだけに興味深いことです。ヒラーが平取を重視しバードの23年後に北海道にやってきたのもまたバードの旅行記を読んでいたためだと考えられます(※※※※※※※※)。平取の調査を終えて浦河に至り海路函館に出た後、翌日再び函館を出て森に至り、ここから方向は逆ながら、噴火湾沿いのコースをとって室蘭に出ているからです。

小見出しの標題は、バードの旅とその記録の本当の姿を社会に伝え、21世紀に生きる私たちの人生を少しでも豊かにするには、バードの旅の舞台をたどる中でその記録を味わうツイン・タイム・トラベル=Twin Time Travel(以下、TTT)が最適であると考えであるからでもあります。言い方を変えますと、バードが書き残したことを、遠い過去のこととして現在と切り離して読むのではなく、今と結びつけて読むのが望ましいということ、これが142年前の旅や調査とその記録の意義を今と未来に生かしていく際の大前提であるということです。これは、同時代に生き、そこに旅できない読者に旅の世界を伝えることが長く旅行記の役割だったという史実に照らしても、実は尤もなことなのです。旅人と読者が旅の世界を共有することがTTTの本質ですから、その意味で、同じ旅の世界を訪れることが可能である私たちにとっては、TTTが過去の旅行記を味読する究極の形になるのです(※※※※※※※※※)。バードの北海道の旅のTTTは、彼女の142年前の 北海道の旅とその記録の意義を今と未来に生かしていく最も一般的ことなのです。

バードが北海道の旅の一瞬一瞬を鮮やかに描いた珠玉の文章の例は、3回目に紹介した勇払原野の植物群落に限りません。北海道の美しい自然や風景を臨場感あふれる筆致で描くことがバードの旅の目的の一つだったからです。『完訳3』や『新訳』を読めば、珠玉の文章の例を数多く見つけ出せます。連載の3回目と4回目に挿入した、バードの文章とその訳を私の写真および寸言と対比して2つの旅の時空を重ねる写真は、TTTの面白さを皆さんに伝えてくれたと思います。
もちろん写真を撮ることがTTTにとって不可欠というわけではありませんが、読者の目に浮かぶような描写を心がけたバードが、表現手段として第二期の旅から銅版画を用い、第五期の旅では写真に代え、かつ旅を記録することを重視したことに思いを致すなら、写真はバードの旅のTTTに相応しいものといえるのです。
バードの旅の世界を、TTTをコンセプトとする写真展をバードとその旅に縁の地で開催し、大きな関心をもって迎えられた経験からしますと、バードの北海道の旅をTTTする人々が撮った写真を展示する写真展が、バードの旅に縁の地にある博物館や美術館などで開催され、それが会場を替えながら毎年開催され、新しいスタイルの写真展として定着していくならば、写真や旅や歴史の愛好家に、希代の旅行家イザベラ・バードとその旅、旅行記への関心を生み、そこから、北海道を、バードへの関心やバードの旅に関わる活動・研究の磁場にしていく動きも生まれていくことになるでしょう。バードの歩いた道筋を、フィールドワークや文献調査なども踏まえて最も古い5万分1地形図に復原する作業も行ないつつ翻訳し、その重要性のみならず面白さを知る私は、地元の人々によって北海道のいくつかの地域で行われている道の復原を試みる活動に期待し、北海道の地で、そのようないわば学術的成果を生かしたTTTや、老若男女が参加できるもっと気楽なTTT、あるいはよい写真の撮影にこだわったTTTなど多様なTTTが北海道の地で展開していくこと、そしてそこから地域交流・国際交流が様々な形で生まれていくことを願っております(※※※※※※※※※※)
彼女の幾多の旅と旅行記の中での日本の旅と旅行記の重要性からしますと、先に記したBird Festival in Hokkaidoと結びつく形でBird Summit in Japanのような会議も催されるならばすばらしいことだと思う私は、同時に、バードとその旅・旅行記の真実への関心の高まりが地元の一般の人々にあることが大切だと痛感していますので、新潟や北海道からこのような新しい動きが実現していくことを夢見て本連載を閉じることとします。

(※)ジョン・バチェラー『日本 北海道案内記』明治26年、河野本道選『アイヌ史資料集』第7巻 雑編 所収、1980。原文のタイトルは"An Itinerary of Hokkaido, Japan". 発行年は翻訳と同じ1883。

(※※)エイドリア・カッツ「情熱にあふれた冒険:1901年、北海道にて  ハイラム・ヒラーと小谷全一郎」(原文を含む)、小谷凱宣「ハイラム・M・ヒラーのアイヌ資料の背景」、財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構編『アイヌの工芸―ペンシルバニア大学考古学人類学博物館ヒラーコレクション―』、同発行、2008

(※※※) 前掲のカッツ論考はこの写真が8×10のガラス乾板で撮ったとしていますが、この場合だと縦横比が1:1.25になるのに対し、入手できた精細画像によると1:1.47もありますので、この指摘は間違いで、値が1:1.4になる5×7インチのカメラで撮影したのでないかと推定され、同博物館のペザッチ氏に問い合わせた結果、この推定は裏づけられました。氏は、ヒラーが、初期の旅では8×10インチの大型カメラを用いたものの、1901年の北海道の旅では5×7のガラス乾板を用いたと考えられると回答くださった。手前の畑地の部分は重要ですので空の部分をカットしたと考えられます。なお2つの写真の撮影地点がほとんど一致するのは、ヒラーが8×10写真の存在を知っていた可能性を窺わせます。

(※※※※)この望遠写真が和人ないし外国人の写真家が何らかの事情で目的をもって撮ったことはわかるものの、具体的なことは定かでありません。ですが、明治20年に北海道庁長官岩村がペンリウクからアイヌの現状を聞いたことや、流出した義経社の最初の遷座地から上平取の全貌を写そうとした可能性は憶測できます。撮ったのは当時の北海道を代表する写真家である田本研造かその弟子武林盛一の可能性が高いと考えます。共に開拓使に関わる仕事もしています。他日検討したく思っています。

(※※※※※)義経社の祠が現在地に移動したのは公式記録ではこの1901年の11月ということです(長田佳宏「沙流川流域におけるアイヌ伝承地の再検討」、『2010年度 平取町立二風谷アイヌ文化博物館年報』)が、鳥居と参道が鎮座後のものと同じだと判断される(『平取町文化的景観解説シート』「義経神社」写真2)ことからしますと、基本的には現在地にすでに遷座してきていた可能性も皆無ではないと思われます。ヒラーはバードの旅行記を読んでいますので、義経社がバードが訪れた旧地から移動していたことを知っていたと判断され、だとすると、少なくともこの写真に収めなかったのは、祠自体が木陰で見えない以上、その場所を収めることは「ピラトリ遠景」と題するこの写真の狙いに合致しないと判断し、鳥居と参道を表示するにとどめたと考えられます。

(※※※※※※)先述の庇状のものが付いた変則的なチセは、この敷地の形状からすると敷地内の南側にあったように見えますが、アイヌの首長の多くが日本式の家屋に住んでいたという、ヒラーが内浦(噴火)湾沿いの森の近くで見たこと(カッツ論文、※※)からしますと、ペンリウクは弁開のような「日本人になってしまった」のような人物ではないとはいえ、興味をひきます。なお、森の近くの村とは落部のことであり、弁開とは弁開凧次郎のことです。

(※※※※※※※)東京都ではかつて道徳教育の教材にバードの記述の一節が採用されました(『中学校版東京都道徳教育教材集』東京都教育庁、2016)。日本人の礼儀正しさについての記述です。

(※※※※※※※※)青柳信克「ハイラム・H・ヒラーとコレクション」、前掲図録『アイヌの工芸』所収論文。なお、この論文中に収められているヒラーが撮影した写真中の「少女たちの踊り(平取または鵡川)」と題する写真の撮影地は平取である可能性が高いと考えます。少女たちが踊る背後の森が本論で指摘した平取コタン中央の森に比定される上に、少女たちのにこやかな表情は、ヒラーがコタンで一定の時間を過ごし、人々と交流し、緊張がなくなった後でなければ現れないからです。この2つの理由で鵡川ではないと判断されるのです。としますと、平取については”Distant Landscape of Piratori”, ”Piratori, Piragua”, ”River ferry in Piratori” に ”Dance of The Ainu girls”を加えた計4点のヒラー撮影写真があることになり、しかも『図録』に入っていない写真も所蔵されている可能性がありますので、その資料的価値はより一層高まります。

(※※※※※※※※※)翻訳が正確であることに私が拘るのはこのためです。昔とは違い、翻訳はTTTに応え得るものでなければならないのです。TTTする人にとって、誤訳や適切な注記のない訳では現地を訪れた時にその訪問-旅が無意味になってしまいます。その一方正確でわかりやすい訳文は読者をTTTに誘い、単なる読書を超える喜びを生みます。

(※※※※※※※※※※)バードの日本の旅と旅行記の真実を世界の人々に知ってもらいたいと考えて刊行した2冊の英語の書物、とりわけ、これまでの簡略本原著の復刻本では得られない情報を加えた "Unbeaten Tracks in Japan Revisiting Isabella Bird", Folkestone, Renaissance Books, 2020を手にしたインバウンドの北海道と日本への来訪を期待しています。なお他の一冊は、 "Isabella Bird and Japan A Reassessment", Folkestone, Renaissance Books, 2017です。これは本連載の2回目で紹介した新書『イザベラ・バードと日本の旅』平凡社、2014に索引や訳注を加え、図版も充実させたものです。

©Kai Fusayoshi
金坂清則(かなさか・きよのり)
1947年生まれ。地理学者、京都大学名誉教授。イザベラ・バード研究および写真展等の活動により王立地理学協会特別会員、王立スコットランド地理学協会特別会員、日英協会賞受賞。訳書・論文に『完訳 日本奥地紀行』(日本翻訳出版文化賞受賞)、『新訳 日本奥地紀行』、『イザベラ・バードと日本の旅』、写真集『ツイン・タイム・トラベル イザベラ・バードの旅の世界 In the Footsteps of Isabella Bird: Adventures in Twin Time Travel』(日本地理学会賞受賞)ほか多数。(上記書籍はいずれも平凡社)

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