利尻麒麟獅子舞2:民俗芸能が歴史の触媒になる

2022年6月20日。利尻島長浜神社の宵宮祭り。コロナ禍で休止していた麒麟獅子が再び舞う(写真:松井久幸)

利尻島仙法志長浜で、誰からも忘れられていた謎の獅子頭。その発見が起点となって人々は動き出し、麒麟獅子は2004(平成16)年、一世紀近い忘却の淵から復活の舞を遂げた。それは利尻と鳥取にとって、思いがけない出会いと繋がりが広がる、新たな歴史のはじまりとなった。
谷口雅春-text

麒麟獅子がつなげた無数の縁

2004(平成16)年。利尻島仙法志(せんほうし)の長浜神社の宵宮祭り(6月20日)で麒麟獅子がよみがえったというニュースは、島の内外に伝わった。北海道内のメディアはもちろん、麒麟獅子のふるさと鳥取のTV番組でも紹介され、「利尻麒麟獅子舞う会」のひとりだった西谷榮治さん(当時利尻町立博物館学芸員)はいくつもの媒体に報告を寄せた。また秋に北海道開拓記念館(現・北海道博物館)で開かれた特別展「北海道の民俗芸能」には、利尻麒麟獅子の一式が展示された。さらに暮れには、麒麟獅子を舞ってみようと呼びかけて、沓形(くつがた)小学校の児童を対象に麒麟獅子舞体験を行った。舞う会のメンバーにはこの時点ですでに、島の新たな文化として、長浜の外にも積極的に知らせていこうという気持ちが強くあったのだ。

翌年は長浜神社の宵宮祭りのほかに札幌で2回、沓形港に寄港した豪華客船の船内でも2回舞ったのだが、なんといってもハイライトは、麒麟獅子のふるさとである鳥取の秋里を、「舞う会」が訪問したことだ。メイン舞台は、利尻の麒麟獅子の起源であることが解き明かされた、荒木三嶋神社の例大祭。
2005年4月10日。一行は緊張と高揚を胸に、同社の境内で里帰りの舞いを奉じた。本家である秋里の麒麟獅子との共演だ。それは、100年以上前に鳥取東部から利尻に渡り、ふるさとから遠く離れて麒麟獅子を舞った因幡(いなば)衆の子孫が、父祖の地でできる最上級の儀礼であり供養だったろう。

2005年。鳥取市秋里、荒木三嶋神の例大祭で、秋里の麒麟獅子と共に舞う利尻麒麟獅子(右)(写真提供:西谷榮治)

その後も相互訪問を繰り返すなど利尻と秋里との交流は進展して、秋里で利尻の物産の販売も行われるようになった。「利尻麒麟獅子舞う会」の2代目会長畑宮宗聡さんらは、秋里の人々と交流する中で、自分たちが乗り出した海の広さと深さにあらためて気づいたという。
まず因幡の人々が利尻に寄せる期待の大きさに驚いた。そして2008(平成20)年には、利尻ならではの創作の舞を作り上げることになる。
「因幡では地域ごとに140くらいの麒麟獅子があって、それぞれ独自の舞を伝えています。土地ごとの個性がおのずから舞になっているわけです。私たちは秋里の舞を稽古してきましたが、そろそろ利尻ならではの舞を作ろうと、相談を重ねました」
おだやかでゆったりとした動きが基本の麒麟獅子だが、畑宮さんらはこれに、利尻の厳しい風土、とりわけ海と漁業をテーマに豊漁の祈願を加えたいと考えた。そして、刻々とさま変わりする海をイメージさせる動きを頭と後剣(あとけん・尾)で表現して、長浜ならではの舞を完成させる。この年にはこれを、島で行われた、会津藩蝦夷地警備200周年を記念した式典でも舞っている。
2009(平成21)年には、国土交通省が選定した「島の宝100景」のひとつに、「北の島で舞う利尻麒麟獅子」が選ばれた(北海道からはほかにふたつ、「日本最北端の昆布漁」で礼文島、「おんこ原生林と羊とアザラシ」で焼尻島が選ばれる)。

「利尻麒麟獅子舞う会」会長畑宮宗聡さん(写真:松井久幸)

2010(平成22)年。ありがたいことに新しい獅子頭の寄贈を受けた。鳥取の職人の手によるものだ。彼の地の期待の大きさが見てとれるだろう。
復活10年目となった2013(平成25)年の宵宮祭りには、いずれも重要無形文化財保持者(人間国宝)であるシテ方観世流能楽師津村禮次郎さん、笛方の寺井宏明さんが初めて来島。麒麟獅子の舞に先立ち、長浜神社境内で白獅子の面と衣装で能を奉納した。その前の年、旭川の上川神社の能楽堂で、同じ舞台に立ったことがきっかけだった。
このように利尻の麒麟獅子は、これを自分たちの手で復活させるか否かを議論していた2003(平成15)年の時点では到底考えられなかった展開を見せていた。
「鳥取から獅子頭をいただいたり、まさか人間国宝の方とおなじ場所で舞うなんて、もちろん誰も想像もしなかったことです」、と畑宮さんは述懐する。

新旧の獅子頭と猩々の面(写真:松井久幸)

獅子の正体

さてそもそも、獅子舞神楽の「獅子」は何に由来するのだろう。鳥取の場合はなぜこれが麒麟なのか。
獅子舞の獅子は、一般にはインドのライオンが中国(唐の時代)を通じて日本に入ったと考えられ、神社仏閣の狛犬も、ライオンが魔除けの霊獣に変容したものとされている。米づくりをめぐる芸能である田楽にも獅子舞神楽が登場するが、その霊力を求めてのことだ。
しかし民俗学者柳田国男はすでに1916(大正5)年の論考「獅子舞考」で、あの堅苦しくかしこまった獅子狛犬をどのようにしてふらふらと舞うものと考えたのか、と訝(いぶか)っている。柳田は、獅子舞の獅子は単純に天竺(インド)の獅子ではなく、鹿や猪(いのしし)などをめぐる日本各地の古くからの言い伝えまでもが習合されたものだと気づいていた。岩手県遠野地方の民話を集めた『遠野物語』の序で柳田はまず、「獅子踊と云ふは鹿の舞なり」、と書いている。宮沢賢治の「鹿(しし)踊りのはじまり」では、主人公に、山の中で栃の団子のまわりを踊る鹿たちの言葉が突然聞こえることで物語が動き出す。
柳田は「獅子舞考」で、江戸時代の国学者・旅行家菅江真澄のテキストを使って、興味深い考察をしている。「獅子が沢のしし石」の話だ(『真澄遊覧記・巻13』)。

真澄は寛政10(1798)年、津軽の山中(現在の青森県黒石市上十川地区)に伝わる、鹿の頭が彫られた不思議な石を見にいった。「あやしう鹿の頭を彫(り)てける石」、だという。いつ誰が鹿の頭を石に彫ったのかはわからず、「たゞ神のわざにて」毎年7月7日には必ず新たにふたつの鹿の頭が彫り添えられる。さらには、近くの村で舞われる獅子舞の獅子頭が古くなると、この岩のまわりに埋めるのがしきたりになっていた。この石に刻まれた鹿の頭はまさしく写生で、天竺の獅子とはまるで違う。
そして柳田はこう考えた。「石面に鹿の頭を彫り始めた今一つ前には、本物の鹿を屠(ほふ)ってこの地で神を祭ることあたかもアイヌの熊祭のようではなかったか」。そして「鹿を牲(にえ)にしてその首を供えることは諏訪などに例もある」、と。
人間と動物の境界がずっとゆるやかだった時代。人の営みは、まわりの動植物や風や水や鉱物と今よりもはるかに濃密に重なり合っていた。

「獅子が沢のしし石」(『真澄遊覧記・巻13』より・国立国会図書館デジタルコレクション)

麒麟獅子誕生

さてそして、麒麟獅子の「麒麟」が登場する。
この麒麟はアフリカ大陸にいるキリンではなく、中国由来の霊獣だ。すぐれた政治が行われると、その君主の徳を慕って現れるという。若き日の谷崎潤一郎が書いた短篇「麒麟」では、聖人である孔子と、美しく魔性の力をもった衛の国の君主夫人である南子を対比させながら、妻が体現する悪の前にひざまずく君主が描かれる。したたかな南子は孔子に、では聖人の生まれる時に現れるという麒麟を見せてはくれまいか、と問うている。

因幡(鳥取県東部)の麒麟獅子は、鳥取藩の初代藩主池田光仲が日光東照宮(栃木県日光市)の御神霊の分霊を請うために、鳥取に東照宮(旧樗谿神社・おうちだにじんじゃ)を建立したことが始まりとされている。承応元(1652)年のことだ。日光東照宮は徳川家康の霊廟(れいびょう)であり、光仲は家康のひ孫(光仲の父の母は、家康の次女督姫)。 幼くして江戸で藩主となった光仲は、18歳でようやくお国入りをかなえたのだった。
『新鳥取県史』(鳥取県)では、この東照宮の「祭礼行列で先払いとして登場する神楽獅子の頭を麒麟に変えたのは、光仲が曾祖父徳川家康のような立派な政治を行うことの決意表明であり、また自身が家康のひ孫であることをしらしめるためだったと思われる」、とある。さらに、真っ赤な装束をまとって棒を持つあやし役の猩々(しょうじょう)は、「能の『猩々』に登場する中国の想像上の生きもので、能を愛好した光仲が、能からヒントを得て取り入れたものと考えられる」。

鳥取藩初代藩主池田光仲によって造営された鳥取東照宮(旧・樗谿神社)

いよいよ踏み出した統治のためにこの青年藩主は、ほかのどの城下ともちがう獅子舞神楽を自らの出自に結んで着想して、土地の人々の営みに接いで見せた。なんと卓抜な発想とプロデュース力だろうか。
以後、鳥取東照宮から因幡一円に麒麟獅子舞が広がっていく。明治の廃藩置県で鳥取藩が失われても、因幡国の一宮である宇倍(うべ)神社を中心に受け継がれた。東北での鹿はつねに人間の近くにいた存在だけれど、麒麟という新たなキャラクターもまた、往時の人々の抽象的な精神世界では無理なく受け入れられていったのだろう。

2015年5月。とっとり伝統芸能まつりで舞う利尻麒麟獅子(写真提供:西谷榮治)

鳥取から見た利尻麒麟獅子

鳥取の秋里にとって、利尻島で麒麟獅子が復活したことにはどんな意味があっただろうか。『「因幡の麒麟獅子舞」調査報告書』(鳥取県教育委員会・2018)によれば、利尻との交流は秋里にとってもとても意義深かったことがわかる。
利尻麒麟獅子の源流である荒木三嶋神社の春の大祭は、戦時中に中断されたものが戦後復活したが、まちの大火などで再び足踏みを強いられるようになる。高度成長期には青年会も自然消滅。麒麟獅子舞はいっとき、門付け(地域の家庭の門まわりで舞う)を行うだけのものとなってしまった。
関係者の取り組みで大祭がようやく復活したのは1990年代後半のこと。報告書で民俗学の喜多村理子さんは、この大祭と麒麟獅子が秋里にあらためてしっかりと根づくことに、利尻の取り組みは大きな影響を与えた、と論じている。古くからの住民が減り新しい住宅地も隣接している秋里は、全国の中小都市同様にサラリーマン家庭が増えて地域のつながりが薄れつつあった。しかし1996(平成8)年には財源も確保できて、かつての大祭りを復活させることができた。総指揮者、榊(さかき)や子ども神輿(みこし)、猿田彦や猩々、獅子をはじめ、神輿、御弓、御鉄砲、毛槍、馬、氏子総代や役員などが勢揃いしてまちを練り歩くものだ。1999(平成11)年には「荒木三嶋伝統文化保存会」が立ち上がっている。秋里の関係者に、はるか北方の利尻島に麒麟獅子が伝わっていたことが知られたのはちょうど、大祭りがこうして復活した年のことだった。それは、さぞや心が震えるようなうれしいニュースであっただろう。
利尻との交流によって秋里の住民は、麒麟獅子という重要な文化がわがまちにある、ということをより深く自覚することになった。また喜多村さんは保存会や神社の人々から、利尻とのつながりができて、祭りを執りおこなうにしても気持ちの入り方がちがう、という思いを聞いている。秋里と利尻で同時に、それぞれの復活をめぐるいくつもの網の目が結ばれはじめた。不思議な機縁だ。

秋里の荒木三嶋神社例大祭で、荒木三嶋神社麒麟獅子と利尻の猩々が舞う。2005年(写真提供:西谷榮治)

地域にもたらされた新たな力

2019(令和元)年の長浜神社宵宮祭り(6月20日)では、明治の獅子頭と2010年に鳥取から贈られた新しい獅子頭を使って、はじめて2体による麒麟獅子舞が奉納された。秋里から蚊帳(胴体の布)を借りて、利尻の舞人だけで実現させたのだ。さらに宵宮には麒麟獅子に先駆けて、2009年から交流を続けてきた、人間国宝のシテ方観世流能楽師、津村禮次郎さんも特別出演した。

利尻島仙法志(せんほうし)長浜で明治の終わりから大正初めに舞われていた麒麟獅子は、百年近く誰からも忘れられた歴史を経て、21世紀によみがえった。それは単なる復活という物語以上に、長浜に多くの価値をもたらすことになる。たとえば長浜の人々は、地域の失われた歩みをふりかえることが習慣になり、その上で宵宮祭りの準備が終わると集まって宴をもよおす。この小さな集落でもそれ以前にはなかったことで、いまでは多くの人が楽しみにしているという。
そして麒麟獅子のふるさと鳥取市秋里とのつながりは何ものにも代えがたく、島の外との強い縁が生まれた。利尻と秋里をめぐって、島の記憶を掘り起こしながら、地域の学びや創造力が新たに立ち上がった。
さらに麒麟獅子の復活は、その母村だった鳥取市秋里の人々にも新鮮で力強い刺激をもたらし、麒麟獅子の価値をさらに分厚く多様なものに変容させていった。

長浜神社の宵宮祭りで、子ども噛む麒麟獅子。2017年(写真提供:西谷榮治)

民俗芸能がもつ意味は、それがかつて、土地の単調な日々の中に現れて、人々に胸を躍らせるような時間をもたらしたことだ。たとえば民俗学者宮本常一は、昭和の初期の旅芸人のことにふれながら、毎年のように村に伊勢の太神楽(だいかぐら)がやってきたことを書いている(『空からの民俗学』)。4、5人の一行がお宮の境内で、笛を吹き太鼓を鳴らして獅子舞を奉じて曲芸を見せる。村の者はみな集まり、獅子に頭を噛んでもらうと夏病みをしないといって女も子供も噛んでもらった。太神楽の前には家々を回って竈祓い(かまばらい・かまどの清め)をして、お札が配られた。
現代社会で、伝統文化は何のために存在するのか—。古いものを単に守り伝えることに価値があるのではないはずだ。民俗芸能に代表される伝統文化は、いつ破られるかもわからない平和な日常を、地域が自らの手で維持していくための方法としてあるのではないだろうか。初代鳥取藩主池田光仲が17世紀半ばに創作した麒麟獅子も、当初は伝統の枠を大きく越えた、アヴァンギャルドな獅子舞神楽として登場したはずだ。そして光仲の視界には、北緯45度に位置する利尻島などあったはずはない。
文化の営みは、つねに生成のプロセスにほかならない。370年以上の歴史をくぐり抜けた現在の麒麟獅子は、時代や地理空間を超えてさまざまなものを対等に結びつけ、そのつどあらためて関係の目を新しく編み出していく。それはあたかも、人間の記憶や思考の作られ方を思わせる。地域文化の成り立ちが、記憶や思考をニューロンと呼ばれる脳の神経細胞が複雑につながっていく運動ととらえる、まるで認知神経科学の変奏にも見えてくる。

前回の稿で利尻町立博物館の学芸員(当時)西谷榮治さんは、麒麟獅子復活に際して、歴史を守り伝えるばかりでなく、新たな文化の創造に参画することも博物館の仕事だと考えた、と言っている。利尻麒麟獅子の舞の現在は、北海道開拓と母村の関わりをベースに、人々の記憶や地域の記録を糧にしながら、新たな文化創造の海原を指し示している。
次回最終回では、さらにそのことを考えてみたい。

麒麟獅子をあやす猩々。2022年の長浜神社宵宮祭り(写真:松井久幸)

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