岩本珈琲:どん底期、1本のギターから 「引き寄せの法則」が始まった

ある日、一人のお客さんが持ち込んだギターが「岩本珈琲」の命運を変えた

2001年の『さっぽろ喫茶店さんぽ』制作時、岩本さんにとてもお世話になった。「プロが教える“ワンランク上”のコーヒー講座」というコーナーでは、豆やブレンドの基礎知識、家庭での焙煎方法などを丁寧に教えていただいた。その岩本珈琲が今、「コーヒーと音楽の調和」で盛り上がっている。
伊田行孝-text&photo

札幌のビル地下で見た漢字4文字が人生の指針に

「岩本珈琲」は今年で開業30年を迎える。店主の岩本豊氏が開店以来、ワンオペで店を守ってきた。地下鉄東西線南郷18丁目駅からほど近いとはいえ、南郷通と東北通をつなぐ小さな通りに面し、この道を通らなければ近所に住んでいても存在に気付かないかもしれない。
しかし、岩本珈琲は今、ある界隈では全国区の喫茶店となっている。しかも、店主ですら想像もしなかった形で、だ。

店主の岩本豊氏。コーヒーの世界に飛び込んで40年が経過した

まずは岩本さんと喫茶店のつながりから。
岩本さんは岩手県釜石市の出身。高校まで地元で育った。高校卒業後は「東京の大学へ行きたかったのですが不合格で、第2希望の札幌の大学へ入ったんです」
岩本さんと札幌との縁はその数年前、中学校の修学旅行にあった。自由時間にお土産を求めて歩く友人たちと別行動し、少しディープな札幌を楽しもうと、あるビルの地下へ。そこで見かけた漢字4文字が後の人生を動かしていくことになる。なぜ、その文字に心が動いたのかは本人ですら説明不能。とはいえ中学生のこと、一時的な心の動きは日々の楽しさの中に埋没していく。
その4年後に岩本さんは大学生として札幌で暮らすことになった。当時、実家は釜石市で食堂を営んでいた。そのため、大学卒業後は実家を継ぐことを念頭に1年間、調理師を目指して専門学校へ。その実習研修で行った札幌駅近くの格式あるホテルの料理長から「うちに就職しなさい」と誘われた。
一旦は実家を継ぐまでの修行として一流ホテルへの就職決定に安心もしたが、やがて「あれ、何か違うかも…」という思いがよぎる。何が違うのかを自問自答したときに出てきたのが、中学生の修学旅行で見かけた「自家焙煎」の4文字だったという。
特にコーヒーが好きだったわけではない。なぜ中学生の時に「自家焙煎」に強くひかれたのか、就職の際に「オレは自家焙煎で生きていく」と決意したのかは今も、本人にもわからない。さらに言えば、調理の専門学校に通っていたとはいえ、岩本青年は珈琲豆を焼いた経験はもちろん、知識もなにもなかったという。
だが、自家焙煎を仕事にしようと決めた以上、ホテルへの就職はない。その足で誘ってくれたホテルの料理長に会いに行き就職の辞退を申し出、さらに専門学校へ報告して「激怒された」という。専門学校にすれば、就職先の看板ルートを危機にさらす所業だったのだろう。もちろん「自家焙煎」を学べる就職先紹介を専門学校へお願いすることなどできず、手にした就職情報誌で探すと一つだけ、喫茶店での募集をみつけて、早速応募した。それが、当時南8条西18丁目の古民家を改装した「可否茶館倶楽部」でのスタッフ募集だった。
たった1名の採用枠に選ばれた。1984年のことだった。当時、可否茶館は本店と円山店、そしてこの可否茶館倶楽部の3店で営業されていた。
しかし岩本青年は、まだこの時点でコーヒーをドリップしたこともなかった。勢いと負けん気だけの24歳だった。
こうして可否茶館倶楽部で働き始めて少し経ったころ、先輩から「本店へ挨拶に行こう」と連れていかれた店こそ、中学生の岩本少年が修学旅行で心を動かされた「自家焙煎」の看板を出していた店だった。
「いやあ、衝撃でした。あ、この店知ってるって。記憶が一気によみがえりました。当時は同じビルに紀伊国屋書店が入っていて。自家焙煎で生きていくのがやはり運命だったんだと本気で信じました」
しかし、現実はそんな甘くはない。可否茶館で「焙煎をやりたい」といっても、十年早いと相手にしてもらえない。ならば、認めさせるしかないとコーヒーの勉強にまい進したという。
「生意気な話ですよね。コーヒーのコの字も知らない若造が焙煎をやりたいといきなり言うのですから。そのころの可否茶館倶楽部にはすごいレベルの高い人がたくさんいて、鍛えられました」。喫茶店とコーヒーのイロハを、この可否茶館倶楽部で教えられたそうだ。
もちろん、焙煎を学ぶチャンスもうかがっていた。円山店の1階が焙煎工場だった。仕事の合間や休みの日に焙煎工場に通い、少しずつ知識を吸収していった。やがて、その熱心さにほだされたのか、責任者である焙煎部長が「焼いてみるか?」と声をかけてくれた。
可否茶館では、最初の可否茶館倶楽部に5年、時計台ガーデン倶楽部で5年(途中で店長)と2店舗を経験したが、実は焙煎部にも裏在籍して学ぶ10年を経て、独立を果たすことになる。

40年前も今も、修行で身につけたポットの持ち方と差しの角度は変わらない(提供:岩本珈琲)

住宅街の喫茶店に生まれた「引き寄せの法則」

独立のための店舗探しは可否茶館をやめてから。いくつかの条件のもとで探したが、思ったような物件がでてこない。そんな中で、不動産屋さんの情報には載っていない物件にたどりつく。「これだ!」と気に入ったが、その建物はある企業の会長の所有で、それまでも多くの案件が持ち込まれたが、オーナーの首がタテに動くことはなかったという。
だが、どうしてもあきらめきれずに、伝手を頼ってオーナーに直談判し、どんな喫茶店にしたいのか、そのためにはあの建物でなければならないのだと思いをぶつけると、なぜか気に入られて借りられることになった。
こうして、岩本さんの「城」が完成した。1994年6月28日開店。岩本さんが34歳のときのことだ。
常連も順調についたが、開店からおよそ10年が経過したころから原因不明の凋落が始まった。売り上げ減少はもちろん、私生活にも及ぶ「負のスパイラル」に陥ったという。
運転資金はままならず、仕入れも希望通りにいかず、毎日のようにお金のことで電話がなった。それでも、意地でも店は閉めないと、閉店後は運送会社やコンビニで働き、3時間程度の睡眠後にまた店を開ける日々を数年続けた。
「人がダメになって死んでいくって、こういうことなのかと随分と考えました」
そんな中ですがるように励みにしたのが美空ひばりさんの『人生一路』。その歌詞が自らに重なり、気が付けば口ずさんでいた。
そして今から10年ほど前、どん底期が8年ほど経過したころ、一人の客が「マスターも大変だろうけど、ギターを弾いて歌えば気も紛れるから」と1本のギターを店に持ってきてくれた。
「ギターにはふれたこともないので、お気持ちだけ」と断ったが、「ディスプレイ代わりでもいいから」と置いていった。
それからしばらくして別の客がギターに目を留め、「マスター、弾けるの?」「いや、いただきもので、少しだけ練習もしたけど無理」と経緯を話すと、趣味で音楽を楽しむその客から「そういえば、今まで考えたこともなかったけど、ここをオープンマイクの会場に貸してくれない」と打診された。オープンマイクとは、一組の持ち時間を決めて、順に演奏を楽しむライブのこと。
店を開けておいてもどうせ客は来ないので「いいですよ」と二つ返事で引き受けた。
そのオープンマイクのことが、札幌の音楽関係者の間で「ほんの少しだけ」話題となり、いくつかの「私たちも使いたい」という流れが生まれた。
そして、道内から道外への口コミで、ライブができる喫茶店が札幌にあるらしいと広がり、音楽関係者が札幌に来た時には店に寄ってくれることも増えた。やがて、アマチュアだけでなく、プロからも「使いたい」という話が少しずつではあるが出てくるようになった。しかし、まだまだそれは微々たる動きであった。
「不思議なんです。アマチュアの方が、ほかに場所がないから使いたい、というのはわかるんです。でも、プロがライブをやるには条件が悪すぎる。だって、ここは喫茶店ですよ。キャパだってつめて30人くらい。音響機器一つとっても、ライブハウスのほうがはるかにいいと思うんですよね」
そう感じながらも音楽の話がさらに舞い込むようになる。やがてプロの中でも高い知名度を持つミュージシャンからも直接ライブを開きたいという連絡が入るようになってきた。「メモリーグラス」の堀江淳氏、「ペガサスの朝」の五十嵐浩晃氏といった北海道出身のシンガーソングライターからの依頼だった。

ライブの風景。最近はウクレレや民族楽器の演奏会も増えている。音楽以外では朗読会も開催している(提供:岩本珈琲)

さらに輪は拡大し、道外の大物からの話も相次ぐようになる。
「大澤誉志幸さんから使いたいというお話があったときにはひっくり返りそうになりました。曲名通り、“そして僕は途方に暮れる”です。さらにはギタリストの吉川忠英さんや元classの日浦孝則さん、元古時計のジェームス西田さん、元H2Oのなかざわけんじさんまで。初めてのミュージシャンから電話が来て、札幌にこういう喫茶店があると聞いたのだけど、どういう方がライブをやってますか、と聞かれたときに、大澤さんや吉川さんにも使っていただいたというと、電話の向こうで絶句して、吉川さんが来たんですか!! って。それなら間違いない、私も使わせてほしい、と。ありがたいのですが、実際に来られて、なんじゃここは、と思われるのではないかとヒヤヒヤですがね」と笑う。
ビッグネームは一度ではなく何度もリピートして会場として使うようになる。たしかに不思議だ。わざわざ東京から費用と時間をかけてやってきても、せいぜい30名の聴衆だ。決して売上面で、この会場を使いたいわけではないだろう。
こうした音楽や朗読のライブ会場としての役割は、1カ月に1回から1週間に1回、3日に1回、2日に1回となって今では年間300回ほどになった。こうなると立派な札幌のライブ会場の一つだ。
「音楽に救われた」という日々の中で、いつしか借金は完済されていた。それでも、岩本さんの律儀な性格からか、しばらくはコンビニの工場で全道の店舗で使用する麺をほぐすアルバイトを続けたという。「いま、辞められると困るといわれると、つい…体はしんどかったですけどね」。ある時、手の指を骨折してしまい、物理的に続けられなくなるまで深夜の作業は続いた。
どんなにビッグネームが集まってきても、基本は「音楽をやりたい人に使ってもらう」こと。むしろ、初心者にこそ使ってほしいと願う。「それが音楽への恩返しかなと考えている」からだ。

店内には「こなき神社」まで建立されている。ご夫婦のミュージシャンが、自作した“こなきじじい”の被り物でオープンマイクに登場した。フォルムのできのよさから飾っておいたらいつの間にやら「こなき神社」となり、賽銭箱まで設置されている。さらに神社を守るように仮面ライダー(これも常連客の手づくり)まで置かれ、ミュージシャンたちからも評判のスポットとなっている。壁にはライブなどのチラシが一面に貼られている

それでも岩本さんはあくまで自身は喫茶店のマスターであることを第一義としている。
「音楽に救われたのは、どんなに苦しくても毎日喫茶店を開け続けていたからなんです。だから基本は喫茶店のオヤジだし、なんといっても焙煎することが大好きなんです。その豆を組み合わせてブレンドを創造していくのも本当に楽しい」
岩本珈琲のメニューには、そうした研究の成果であり店の看板である3種のブレンド珈琲の横に『ミュージシャン・オリジナル・ブレンド』なるメニューが並ぶ。ここでライブを開催したミュージシャンに許可を取り、彼らの曲のイメージに合わせたブレンドを創った。また、『名のない珈琲』は、客がこんなイメージのコーヒーを飲みたい、あるいは今の気分を伝えてそれに合ったコーヒーを、その場でブレンドして淹れてくれるものだ。こうしたブレンドの創作は、確かな知識と技術、経験がなければできるものではない。

メニューに記載された『ミュージシャン・オリジナル・ブレンド』(上)と『名のない珈琲』

たった1本のギターから始まった岩本珈琲の第2章。先日はミュージシャンの方々が岩本さんの誕生日に合わせて岩本珈琲のサイトを立ち上げてくれた。それだけのつながりの深さになったということなのだろう。
「本当に、なんでこんなに音楽との関わりができたのか、理屈では説明できないんです。1本のギターから始まり、人のつながりから生まれた引き寄せの法則としか言いようがない。でも、コーヒーと音楽との調和が、この場所から生まれていくなら、こんなにうれしいことはない。それを目指すことができるのも、もう半世紀近く前に札幌の街で見かけた『自家焙煎』の4文字が原点なんです。つらい時期もあったけど、コーヒーが音楽と引き合わせてくれた。これもまた、私にとっての引き寄せの法則なのかもしれません」
コーヒー業界で働き始めて今年で40年、そして独立して30年。いささか髪の毛は薄くなった分、喫茶店の空間の密度と珈琲の味わいは深さを増している。ライブにきたことはないが、開店時からコーヒーを飲みに通ってくれる常連客も多い。

音楽に関わるようになってからウクレレの演奏を始め、「ウクレレ戦隊ウクレンジャー」を結成。2022年にはウクレレ音楽院賞も受賞している(演奏風景の映像は下から閲覧可能)。上の写真は横浜にて。赤のレンジャーが岩本さん(提供:岩本珈琲)



岩本珈琲
 
北海道札幌市白石区栄通18丁目4-1 アン・ロワイヤル1F
TEL:011-836-2017
不定休
通常営業:12時~20時
※ライブ等開催時は店舗に確認
※駐車場有
WEBサイト
Facebookページ

■YouTube映像
【Ukulele4ALL】蒼い星くず by 岩本珈琲・四弦の若大将(岩本さんが歌っている!)

珈琲と音楽の調和Vol.29 岩本珈琲からメリークリスマス マルシェ

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