
上生菓子「練り切り」の作り方図

上生菓子「練り切り」の作り方図
利尻島鬼脇に渡った高祖父寺嶋四郎平は和菓子屋の準備に取りかかり、実質的に長生堂寺嶋菓子舗を始めたのは1884(明治17) 年で二代目鶴松だという。寺嶋家は富山藩の武家。明治となって武士では生きていけない。どうしていくか悩んでいたとき、すでに富山から利尻に渡っている人たちがいて、利尻は鰊漁で景気がいいということに惹かれたのかもしれない。富山は昆布消費が日本一なので、もしかしたら富山で利尻昆布が出回っていたのかもしれない。鬼脇に浄土真宗本願寺派、お西のお寺があることは、富山から門徒の人たちがすでに鬼脇に渡っていて、その人たちが西の坊さんを招いたので高祖父も一緒に利尻に向かったのかもしれない。その時に、佐渡の和菓子職人も連れてきたと聞いている。私の父の姉、伯母は「利尻にはお金が落ちているから四郎平が来た」と言っていた。富山から利尻に向かう「旅の途中で食べた団子が旨かったことから、利尻に渡って団子で店を始めようと決めたことが長生堂寺嶋菓子舗の始まりだろう」と伯母が話していた。1884年の寺嶋菓子舗の創業は利尻島における和菓子の始まりといってもよいと思われる。

1923年(大正12年)頃建立の寺嶋菓子舗と看板「御菓子調進所寺嶋長生堂」
1923年(大正12年)頃に新しく建てたと思われる店の写真がある。一階の下屋根の下にかかっている横幕には「御菓子餅まんぢう調進所寺嶋菓子舗」と「寺嶋写真屋風景絵はがき」がある。三代目寺嶋豊次郎時代の店の写真だ。横幕から餅と饅頭などの和菓子を作って売ってたんだろう。その横幕に上の部分が隠れているが「御菓子調進所」という看板が見える。「調進所」とは「特定の品物を専門的に調達・製造し、品物を納めている老舗の屋号として使われ、格式高い菓子の店」を意味するようだ。もしかしたら、長生堂寺嶋菓子舗が、村役場や学校、神社やお寺などの年中行事に和菓子を収めていたことや、鰊場の網おろしに使う祝い物として島の年中行事にあわせて和菓子を作っていたのかもしれない。寺嶋菓子舗には和菓子の木型がかなり多く残っているが、三代目の豊次郎の時にたくさん仕入れたようだ。役場や学校、神社、お寺などや島の人たちの生活の仕来りに要する多様な和菓子を作るためだったと思う。例えば祝い事などで使う和菓子の鯛の木型は小さい物で一尺二寸(約30㌢)、大きい物で一尺五寸(約45㌢)などがある。海老の木型がありその後ろ側には「青森市元木商店」と刻まれている。さらにこの時代のものと思われるが、和菓子の「練り切り」図面が残されている(冒頭の写真)。凄く手の込んだ上生菓子「練り切り」を作っていたのだろう。味・形・色に思いのある物を作ろうという気持ちが込められているのかもしれない。


海老の木型 裏面に木型製作社名がある
こうしたことがわかる資料がある。一つは「利尻名物登山力餅」に巻くミニ帯だと思われる。この登山力餅っていうのは、1923(大正12)年5月に小樽新聞社が創刊満30年、累号1万に達することを記念して北海道三景を募集し利尻富士が見事一位となったので、翌年12月に鬼脇にある北見神社境内に「北海道三景之碑」が建てられ、1930(昭和5)年7月にそれを記念する利尻登山が小樽新聞社、北日本汽船株式会社主催で行われた。490名が小樽から船に乗り鬼脇港について、約200名が鬼脇登山道から利尻山に登った。登山する人たちの体力維持のために「力餅」を作ったようだ。もう一つは3月の雛祭りにあわせて作る「桜餅」。これのミニ帯に俳句「かほりよき春魁や櫻餅」を表している。鬼脇は明治時代から俳句が盛んで、鬼脇の日蓮宗妙泰寺や北見神社社務所には明治40年代の句額が奉納されている。ただ、和菓子を作って売るだけでなく、そこに四季の風物をからませて、食べることの楽しさ、面白さに工夫をこらしたのだろう。
さらに島の漁業の根幹である鰊を燻製にしたラベルがある。明治末から大正初期は利尻島で鰊大豊漁が続いたので、獲れた鰊を数の子、身欠き鰊、鰊粕とは全く別な「燻製鰊」を作って売るという。明治末期から大正初期にかけて利尻島の鰊漁獲高は大豊漁だったからか、寺嶋長生堂は「燻製鰊」を作った。宣伝として英語で「厳選された高品質 オーク燻製赤鰊」と書かれている。英語が今ほど身近でない時代においてなぜ英語を使うのか、さらに、鰊の燻製を製造して売ることの発案と実際にどれぐらい売れたのだろうかが気になることだ。


力餅と桜餅のミニ帯と燻製鰊のラベル

大正後半から昭和にかけて作られたと思われる紙絵
三代目豊次郎は和菓子とは別に写真技師でもあった。1910(明治43)年に富山に行って写真技師となり、1912(明治45)年5月24日に北海道本島から鬼脇の石崎海岸に泳ぎ渡ったヒグマ捕獲の写真を撮った。絵はがきも作っていた。

三代目寺嶋豊次郎写真技師が撮ったヒグマ捕獲写真
四代目を継いだ私の父信一は1931(昭和6)年3月に札幌商業学校を卒業し、島に戻ってきた。店には職人がいて饅頭や雛祭りにあわせて桜餅、端午の節句でべこ餅、お盆の仏壇に供える落雁、秋の彼岸のお萩などは三代目豊次郎の時代から続く二人の職人が作っていた。父の思い出として覚えているのは和菓子ではなく野球だ。鬼脇にライオン倶楽部というチームをつくって選手、監督をしていた。島内対抗の試合があると見に行った。思い出すのが応援歌。「北見神社の神主は おみくじ引いて申すには いつも鬼脇 カッチカッチカッチカチ」だ。
三代目豊次郎、四代目信一とも和菓子を売るだけでなく、鬼脇という地域と、そしてそこに生きる人たちと深い繋がりを持つことをいつも考えていたのかもしれない。残されている和菓子の木型に翁媼の夫婦和合や長寿の縁起物がある。

木型「翁媼の夫婦和合」
それと大晦日の夜に食べる年取り膳にあがる鯛や海老、松・竹・梅などの縁起物の生菓子「口取り」の木型もある。鯛は桃色、海老は橙、松は緑などに表面が鮮やかに色付けされ、中にはこし餡が入っている。島の人たちが一年の節目にあわせて要する和菓子を作ることで寺嶋菓子舗に買いに来る。寺嶋菓子穂は和菓子はもちろんのこと写真や野球などでつながっていたんだろうと感じている。
自分が寺嶋菓子を受け継いだのは1957(昭和32)年に中学校を卒業してからだ。8人兄弟の三男だけど、上の2人は札幌に出ていて、下には幼い5人がいたことから自分が店を継がなければならないと思った。絵を描くのが好きだったからその道に行きたいと思ったこともあったけど、店のため島に残ることにした。でも、このときには和菓子作りの職人がいなかったから父と職人たちの中華饅頭や桜餅、お萩などの作り方を見ていたことを思い出しながら必死に作ってみた。先ずは饅頭と煎餅を店に並ばせることができた。さらに、四季の節目ごとの和菓子にも挑戦した。まず苦戦したのが色づけだった。人を惹きつける色合いは多少でも絵心があったから季節にあう色づけができた。家にはすごい数の木型があるから、法事やお盆飾り、大晦日の口取り、四季の節目の和菓子などを作るのにどの木型を使うかなどわからないことだらけだった。それでも慣れてくると作り方の材料の加減がわかったけど、難しかったのは焼くことだった。今はガスで火の加減は調整しやすいが、始めた頃は炭だったから火をつけてどこで勢いよくするのか、どのあたりで弱くするのかなど常に和菓子の焼き具合を見て火を調整しなければならなかった。和菓子作りを始めた頃は島の人口が今よりも多かったから、大晦日の口取りだと12月26日頃の朝早くから作り始めるが、多かったときで一日に180個ほど作った。今は人口が減ったから作る数は少なくなってきたけど、島じゅうのひとたちが買いにきてくれるから、これからもなんとか頑張り続けたいと思っている。
寺嶋菓子舗を継ぐ六代目信宏さん。父宏平さんと同じ和菓子作りだと独学で作っている父と専門学校と菓子工房で和菓子作りを学んだ自分とは衝突するかもしれないと思って洋菓子に向かったという。結婚を機に島に戻って寺嶋菓子舗の六代目となった信宏さんも洋菓子作りの思いを語ってくれた。
利尻高校を卒業してから札幌の製菓の専門学校に1年行き、そこから千歳にある菓子工房に9年半勤めました。いずれ我が家の寺嶋菓子舗で洋菓子をつくりたいと思っていたので、結婚を機に島に戻ったのが30歳前でした。寺嶋菓子舗洋菓子部門でイチゴのショートケーキなど5種類を作ったけど、なかなか売れない。店の近所の人たちだけが買いに来てくれただけでした。それでも積み重ねて作り続けていくと、だんだんと島内から人が店に来てくれるようになって種類を増やし、今では24種類の洋菓子となりました。あわせて観光で来る人たちも店に来ていただけるようになったので、何か島のお菓子屋として特徴あるものを作らなければと思って考えた一つが「利尻プリン」です。プリンは早くから作っていたのですが、観光で来る人たちが増えたことで蓋に利尻島と文字をデザインして、種類もプレーン、熊笹などと増やしました。もう一つは利尻富士の形をした「利尻島マカロン」。マカロン生地で利尻山のような形で、雪化粧の冬(プレーン)と、茶色(チョコレート)の2種類を作りました。
島の人や観光で来た人たちに人気があって売れるのはプリンとパイシュウですね。コロナ感染で観光客が激減したときでも島の人たちが店に来てくれたことが、一番の喜びとなっています。だからこそ、まずは島の人たちを大事にし、島の人たちに食べてもらいたい。観光で利尻に来るということは一時的だけどその間は島の人になっているわけです。寺嶋菓子舗に来る人たちはすべて島の人たちなので、その繋がりを絶やさないようにこれからも洋菓子を作り続けたいですね。

寺嶋菓子舗の洋菓子で一番売れるパイシュウと利尻プリン
明治時代から140年以上も続いている長生堂寺嶋菓子舗。屋号「長生堂」とは「長く生きる」こととのこと。寺嶋菓子舗を訪れ、五代目宏平と六代目信宏さんと話す中で、寺嶋菓子舗が「長く生きる」ために、島の人たちの一年の生活の節目に添う和菓子を作ってきた歴史を大事にしながらも、自分たちもまた新たに「菓子」を作っていく挑戦への心意気を感じた。五代目宏平さんは今夏で86歳になる。来店した人たちと、とくに店や島の歴史については長い時間をかけて交流するのは日常茶飯事で、大いに盛り上がっているという。利尻島の人口減が続くなかでも寺嶋菓子舗は島の人たちに愛され親しまれている。これからも“長く生きる”店であるためにを常に考えていることが二人のお話から静かに伝わってきた。
五代目寺嶋宏平さんは最近、母親マサさんの系譜で1810(文化7)年にリイシリ場所を請負った藤野四郎兵衛、明治になってから藤野家と親戚にあたり利尻島の漁場経営をした松村幸右衛門に繋がることから、寺嶋家に残されている近世から近代にかけての文書や物品のなどが利尻島の漁場開拓と島の経済や歴史文化を物語るものとしての調査に直向きに取り組んでいる。

五代目宏平さんが作る金曜ドーナツを買うお客さん

五代目宏平さんご夫婦と六代目信宏さんとでつくるパイシュウ