札幌のまちと喫茶店と

『札幌喫茶界昭和史』をたどって

『札幌喫茶界昭和史』のカバーは、和田義雄氏が趣味で集めていた喫茶店のマッチのレッテルを敷き詰めたデザイン。奥様はこのコレクションを「そのうちお風呂の焚きつけにでもしようと思っていましたのにーー」とおっしゃったとか(株式会社財界さっぽろ 発行)

文化人など進歩的な人々が集う場所として、やがて庶民の憩いの場へ。そんな喫茶店の変遷や店をめぐる人間模様を書き残したのが、自身も喫茶店を経営していた和田義雄さんだ。その著書をたどりながら、昭和の喫茶店に思いを巡らせてみた。
柴田美幸-text

和田義雄さんが綴る札幌喫茶界の歴史

ここに一冊の本がある。
『札幌喫茶界昭和史』は、児童雑誌の発行など、北海道における児童文学を牽引した和田義雄氏によって、1973(昭和48)年に出版された。

『札幌喫茶界昭和史』和田義雄 著。1994年には「にしりん」広川十郎氏の息子・雄一氏によって復刻版がつくられた。写真は1973年のオリジナル版(株式会社財界さっぽろ 発行)

著者の和田氏は児童文学者であるとともに、喫茶店のマスターという顔も持っていた。
あとがきによると、和田氏は軍隊の一員として満州に駐屯していたとき、旧市街にあったロシア人が営む「金と銀」という喫茶店が気に入り通っていた。サービスや店内の雰囲気が良く「いつか生きて日本に帰る日があったら、自分もこんな店を持ちたい」とひそかに思っていたとある。
除隊して日本に戻った和田氏は、小樽・花園で、思い出の店の名を冠した茶房金と銀をオープン。戦後は1953(昭和28)年、札幌の北1条西5丁目にコーヒーショップサボイアをオープンした。札幌中央警察署の目の前にあり、1970(昭和45)年まで営業していたので、店の記憶がある人もいるだろう。
出版社「亜璃西(ありす)社」代表でエッセイスト・和田由美さんの著書『さっぽろ喫茶店グラフィティ』(2006年刊)には、店に行ったことはあるが、氏には「残念ながら一度もお会い出来なかった」と綴られている。「約180人を収容できる2階建ての大きな店だった」そうだ。
和田氏は店を閉めてから、雑誌「月刊さっぽろ」(現在は廃刊)で1年間にわたり札幌の喫茶業界の変遷について連載していた。それを一冊にまとめたのが『札幌喫茶界昭和史』である。内容は、おもに昭和初期から昭和40年代始めまでの、札幌市中心部で営業していた喫茶店一軒一軒の概要だ。たんに店名を羅列するのではなく、一軒一軒の特徴やそこに働く人たちと客、そしてそれぞれの時代が見えてくるような、生き生きとした描写が光る。これも喫茶業界に身を置いていたからこそ、と言えるだろう。また、趣味で集めていたマッチのレッテルも収録されていて、当時を伝える貴重な史料といえる。
今回はこの本の中に入り込んで、ほんの少しではあるが、昭和にあった喫茶店をちょっと逍遥してみよう。

「喫茶店らしい喫茶店」の誕生まで

札幌での喫茶店のはじまりとしてあがっているのが、明治と大正時代に開店した2軒のレストランである。やがて1920(大正9)年、社交場としての「カフェー」がオープン。なかでも北3条西3丁目のカフェー・パウリスターは、社長が北海道大学の昆虫学博士・松村松年、筆頭株主が北大の初代総長・佐藤昌介と、アカデミックな人々が手掛けた店というのが面白い。当時、カフェーというと今のキャバレーにあたるところだったが、ここはコーヒーを飲みながら紳士が交流する場だったようだ。

カフェー・パウリスターの外観。シェフのような人の姿も見える (札幌市公文書館 所蔵)

昭和初期には、ロシア人女性を看板娘においた店が次々にオープンし評判を呼んだ。札幌出身の作家・船山馨(かおる)の小説『北国物語』(1941年刊)は、大通西1丁目のカフェー・モスコーで働いていたニーナという女性をモデルに書かれたとある。
大正〜昭和初期はプロレタリア文化運動が盛んな時代であり、1928(昭和3)年、北2条西3丁目にオープンした喫茶店ネヴォは小樽出身のプロレタリア美術家・佐藤八郎が経営する店だった。美術家や演劇人、音楽家などのたまり場になっていて、小樽出身のプロレタリア作家・小林多喜二も何度か店を訪れたようである。和田氏は喫茶店の”文化人のたまり場”としての役割に注目し、「ネヴォこそ、札幌に生まれた喫茶店らしい喫茶店としての、第一番目の店といえるだろう」と記している。
ちなみに別の資料では、札幌でプロレタリア演劇の上演が禁止されたとき、この本にも名前がある白十字という喫茶店で、劇団への資金カンパのために漫画市場が開かれたとある。喫茶店が文化を牽引する場になっていたことがうかがえるエピソードだ。

実在の喫茶店が文学作品に登場

1929(昭和4)年ごろ、和田氏が「喫茶戦国時代の幕開け」と表現するように、新たな喫茶店が続々とオープンした。コーヒーが一般家庭で飲まれ始めた時期で、デパートでもコーヒーを提供するようになり、コーヒー豆を売る店も出てきた。
そんな中、後世に長く名を残すことになる名店がいくつか誕生する。
箱根・富士屋ホテルのお抱え運転手だった下山純護という人が、4丁目十字街の仲小路入り口あたりにうらら(麗)をオープン。その後白百合、さらに、1932(昭和7)年に紫烟荘(しえんそう)と名を変えた。この店のコーヒーは独特で、布漉し(ネルドリップ)で淹れたコーヒーを、一度抽出したところに再び注いで淹れるというもの。下山氏はミックスコーヒーと名付けて研究していたらしい。和田氏によると「不思議にとろけるような味であった」とか。紫烟荘は1969(昭和44)年まで営業を続け、文学作品などに店名が現れるようになる。
ある資料に、三浦綾子の『ひつじが丘』(1966年刊)に紫烟荘が登場するとあり、ページを繰ってみた。
物語は昭和24年の札幌から始まる。牧師の娘でミッション系の女子高校に通う主人公・奈緒美が、やがて夫となる良一と訪れるのが紫烟荘だ。良一は「コーヒーはどこがいい? 紫烟荘がいいかな」と奈緒美を誘う。「落ち着いた小さな店である。若い男女が幾組も、ひっそりと、すわっていた」という店の描写からは、当時の人気デートスポットだったことがわかる。
この作品には、ほかにも奈緒美が重要な人と会うシーンでさまざまな喫茶店が登場する。「戦前から洋生(ようなま)で名高い店で、喫茶と食事の部も経営している」と紹介されているのがニシムラだ。創業者の西村久蔵はクリスチャンで、三浦綾子と親交があった。札幌の洋菓子専門店の先駆けの一軒となったのには、久蔵の弟・西村真吉の存在がある。真吉は東京で文学者や演劇人と付き合いがあり、帰郷した札幌でも三岸好太郎などの画家と関わり芸術活動を支える中心的な人物だった。
和田氏の本には「その西村がふとある日駅前にコーヒーと洋菓子の店をひらいた」とある。現在の札幌グランドホテルの位置に開店した昭和4年当時、まだ珍しかったドーナツやシュークリームなど、東京で流行していた洋菓子を兄とともに取り入れて、若い人に人気の店となった。そして平成の世まで「洋菓子のニシムラ」として市民に愛され続けた。

狸小路がスズラン街と呼ばれていたころ

和田氏の足は、北海道最古の商店街・狸小路へ向かう。
1927(昭和2)年、集客を目的として狸小路5丁目に鈴蘭灯が設置されると、ほかの丁も追随する。それが名物となり、狸小路ではなく「スズラン街」と呼ぶ人もあったという。ほかの資料を見ると、狸小路という古めかしい名を廃止して鈴蘭小路にしよう、という意見があったようである。

「其の名もゆかしき鈴蘭街(狸小路)」とある札幌名勝の絵葉書 (札幌市公文書館 所蔵)

喫茶店にとっても、スズラン街という名はおしゃれで魅力的だったに違いない。「四丁目の喫茶店五番、五丁目のヤスノあたりがいち早くマッチに鈴蘭小路の名を刷りこんで、伝統派の顰蹙(ひんしゅく)をかったものだ」(さっぽろ文庫「狸小路」)。和田氏が集めたマッチのレッテルを見ると、たとえばハッピーの住所は「サッポロ スズラン6」と書かれている。同じくスズラン6のマドカの広告について、和田氏は「……もの柔らかな感覚! うるとら・もだんな・テー・ハウス……なるほど、一度はドアを押して見ようという気になる」と記している。

夜の狸小路(4丁目・昭和12年)。和田氏は「エルム葉がくれ大学の鐘が鳴りますコン・カララ…エルムの森の上に、あかね雲が燃えだすと、名物鈴蘭燈に灯がともる」と詩的に表現している (足立伊佐武氏 提供・札幌市公文書館 所蔵)

また、5丁目と6丁目のあいだには南北に新川という川が流れていて「新川通り」と呼ばれていた。明治時代に作られた下水溝だが小川のように見えて、両岸にしだれ柳が並ぶ情緒ある通りだったとか。その新川通りの南4条西5丁目に、紫烟荘と同じ昭和7年に銀の壺がオープンした。この店を、1936(昭和11)年に広川十郎という人が譲り受ける。

かつて人工の小川が流れていた新川通りの、大通西5から南を見たようす。大正11年以前と思われ、しだれ柳はないように見える。昭和9〜10年にかけて川は埋め立てられ暗渠となった (札幌市公文書館 所蔵)

戦後の喫茶店と若者たち

広川氏は戦後の1947(昭和22)年、南1条西4丁目ににしりんをオープン。2022年に閉館した若者向けファッションビル「4丁目プラザ」内にあったコーヒープラザ西林の前身の店だ。かつてこの場所には西野林産という家具店があり、その一角に開店したことから名付けられた。広川氏はのちに洋食店コックドールを開業。さらに経営難の仲間の店を引き受けてブラジルレイロをオープンするなど、情に厚い人であるとともにやり手でもあったようだ。
もう一店、忘れてはならないのが1949(昭和24)年、南3条西4丁目にオープンしたミレットである。開業時は1階が喫茶、2階がレストランだったが、翌年には尾崎日出男というマスターを迎え、コーヒー専門店にリニューアル。当時は珍しかったサイフォン式のコーヒーと、ひんぱんに絵柄が変わる、彫刻家・本田明二が描くマッチのレッテルが評判だった。
実在した天才少女画家・加清純子がモデルの小説、渡辺淳一『阿寒に果つ』(1973年刊)では、ミレットが「画家や新聞記者といった文化人たちが多く屯(たむろ)する喫茶店」として登場する。高校生ながら一日に一度は店を訪れる早熟な純子は「ここのコーヒーは札幌で一番おいしいのよ」と言う。設定は昭和25、6年と思われるので、『ひつじが丘』の奈緒美とほぼ同年代だ。文化人だけでなく、都会の高校生にとっても、喫茶店は身近な場所になりつつあったことがうかがえる。
ミレットは1960(昭和35)年に閉店するが、その3年後、北2条東2丁目にみれっととして再オープンした。若いころ足繁く通った、という方もいるのではないだろうか。

現在につながる喫茶店の歩んだ道のり

昭和30年代になると、大手メーカーの参入もありながら、いわく「雨後のタケノコの開店」、喫茶界の戦国時代を迎える。和田氏の筆も、場所と店名を列挙するだけで手一杯のように見える。
1956(昭和31)年には、有志で結成されたという札幌喫茶店組合によって初の「コーヒー祭」が開催された。丸井今井デパート7階をメイン会場に、試飲会やコーヒーの飲み当て・豆当て、加盟店をまわるスタンプラリーなど、現在も行われているようなイベントが盛りだくさん。市民会館で行われた前夜祭では、和田氏発行のPR誌「窓」に寄稿していた弟子屈町出身の詩人・更科源蔵の講演会や、人気歌手のコンサートなどが大々的に行われ、コーヒー祭は大成功を収めた。
かくして1967(昭和42)年に「札幌喫茶店同業組合」が発足、翌年「北海道喫茶環境衛生同業組合」が設立される。このとき札幌支部の組合員は200名。札幌の喫茶店のはじまり、そして戦時中の整理統合で廃業した店が多かったことを考えると、隔世の感があったに違いない。本の「はじめに」には、次のような言葉がしたためられている。

この激動の昭和年代を逞しくある日はかぼそく生き抜いてきた業界と業界人の姿は、時代の庶民の哀歓とともに、札幌がアカシヤの花咲く詩の街から、きょう百万都市と呼ばれるまでに至った遥かなる道の風物詩とは言えないだろうか。

現在、札幌の人口は約200万人。そして喫茶店よりもカフェと呼ぶ店が多くなったが、本質はなにも変わっていないのだろう。いつか懐かしく思い出す場所になって、自身の人生とこのまちが歩んできた日々へ思いを馳せる時がくるのかもしれない。そういう店と巡り会えることは幸せだ、と思いながら、本を閉じた。

〈参考文献〉
『札幌喫茶界昭和史』和田義雄(1973年・財界さっぽろ)
『一杯の珈琲を飲むためだけに行きたくなる札幌・小樽カフェ喫茶店案内』沼田元氣 著/小樽文学館 北国喫茶店研究所 編(2002年・ギャップ出版)
『さっぽろ喫茶店グラフィティー』和田由美(2006年・亜璃西社)
『さっぽろ文庫25 札幌の演劇』(1983年・札幌市教育委員会文化資料室 編)
『さっぽろ文庫36 狸小路』(1986年・札幌市教育委員会文化資料室 編)
『西村食品株式会社 創業六十年記念誌 愛・夢・そして未来へ おかげさまで六十年』(1989年)
「ごまそば八雲」(にしりん)HP
※その他、個人のブログなど参照

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