「カフェ・ノエル」店主に聞いた宮越家のこと、喫茶店のこと

このプレートは1987年、月寒に開店したときに作られたもの

羊ヶ丘展望台から少しだけ札幌ドーム方面に下った道沿いに「カフェ・ノエル」はある。夜はライトアップされ、近隣のランドマーク的な存在だが、素人目には喫茶店が成り立つ場所とも思えない。店主の宮越精一さんに喫茶店のこと、昭和初期から続く宮越家の接客業の歴史を聞いた。
伊田行孝-text&photo

宮越家の接客業のルーツ

祖父と祖母が旅館をやっていました。中央区北2条西3丁目にあった宮越屋旅館です。今は法華クラブのホテルになっている場所です。
祖父は秋田の能代の出身で、函館に渡ってから札幌に来て、旅館の番頭をしてたんですね。祖母は泊村の網元の娘だったんですけど、父親が早くに亡くなったようで、母親や兄弟を連れて札幌に出て、旅館の女中さんとして勤め、そこで祖父と出会ったようです。そして、その旅館を昭和3年に譲り受けて始めたのが宮越屋旅館です。私は小学校に上がる前まで旅館の中で育ちました。
昭和24年に旅館を建て替え、そして45年にホテルへ建て替えます。

昭和24年に建て替えられた「宮越屋旅館」の外観、玄関、客間。宮越さんはここで小学生に上がる前まで暮らした。当時は北2条西3丁目に6~7軒の旅館があったという(提供:宮越精一氏)

うちの父は、母が一人娘だったので養子なんですが、昭和41年の市会議員に立候補しました。青年会議所から最初に市議になったのは父です。祖父は反対したようですが、「若い者がやりたがってるからお父さん許してやってくれ」って周りの説得もあって、1期だけ市議を務めることになったのです。その間に札幌オリンピックの開催が決まりました。
しかし、そのとき札幌には政府登録の国際観光ホテルというのは3軒しかないんです。グランドホテル、パークホテル、ロイヤルホテルの3軒です。それでオリンピックをやるのは無理があると、父は考えていたのでしょう。グランドホテルで開かれた開催決定を祝うパーティーには大手企業の経営者や銀行の頭取の方々が参加されたようで、そこで知り合った企業の社長さんにホテルをやりたいと、うちは旅館をやっているが、これを国際観光ホテルの基準を満たすホテルに建て替えたいという話をしたらしいんです。すると1週間後にその企業の秘書課から電話が来て、社長が会いたがってますよと。それで父が上京して面談に行くんですね。
そしたら社長室に入るなり「宮越君、ホテルやりなさい」と。うちの会社で融資の保証もしてあげるから、と。札幌に帰ってきてJC仲間に、こういう話になったといっても誰一人として信用してくれなかったそうです。その会社は札幌市で大きな仕事をいくつもしていたから、何か札幌に恩返ししたいっていうことだったらしいのですが、それで旅館は、地下2階、地上10階の「ホテルニューミヤコシ」というホテルになりました。そのとき同時にできたのはプリンスホテルと、伊藤組さんがやられた駅前の札幌国際ホテルです。札幌国際ホテルは平成元年に閉鎖して、今はオフィスビルになっています。
グランドホテル、パークホテル、ロイヤルホテルの3軒に加えて、この3軒、計6軒の国際観光ホテルで札幌オリンピックやったんです。その後にワシントンホテルができ、東急ホテルができ、全日空ホテルができました。
私には姉、兄、弟がいます。ホテル建築時、私と兄は高校生でした。「オヤジはすごいものを作ろうとしているから手伝わないと」と考えたような記憶があります。兄も私もその後はホテルの専門学校へ行き、兄は1年間グランドホテルに勤め、その後に東京で2年間の修業へ行ったりもしました。
そのころ、今は「宮越屋珈琲」をやっている弟は音楽をやっていました。高校生の時だったと思うのですが、フォーク音楽祭札幌予選で優勝もしました。音楽の才能があったのでしょうね。
全国大会でグランプリは獲れなかったのですが作詞賞で、谷川俊太郎先生からお褒めの言葉をいただいて、「音楽をやりたい」と東京へ行くわけです。
東京の原宿にある老舗のコーヒー専門店にお世話になって、アルバイトをしながら音楽の勉強ということです。やがて、コーヒーの奥深さや経営の面白さを感じて、本格的な珈琲店を札幌でも、と戻ってきました。

宮越3兄弟とコーヒー

祖父が昭和42年に亡くなったあと、旅館の一部を両親が喫茶店にしてるんです。「純喫茶 みやこし」という名前だったと思います。ホテルに建て替えるまで営業をしていました。そのころ、札幌では昭和41年に開店した「イレブン」さんの人気が高まっていっていたころでしょうかね。
兄と私は「ホテルニューミヤコシ」で働いていましたが、当時は金利が高く、父はそれで大変苦労しました。オリンピックはほんの数週間です。初めの2~3年はよかったんですけど、昭和48年からのオイルショックもあって。でも、ホテルをやったこと自体は素晴らしいことだったと思っています。
それで、法華クラブの社長さんと父が昔からの知り合いだったご縁もあって、ホテルを買ってくださったんですよ。タイミングもよかったんでしょうね。うちとしては買っていただいて整理ができました。

「ホテルニューミヤコシ」は売却されたが、その建物は今もビジネスホテルとして営業されている

そのあと、不思議なもので兄、私、弟の男兄弟はみんな珈琲を生業にしていくことになります。小さなころから接客業を見てきたこと、「純喫茶 みやこし」を見ていたことの影響はあったでしょうね。
まず、弟が東京の店の名前を使わせていただき札幌にコーヒー専門店を開きました。それとは別に、うちの実家が南19条にあったんですけど、そこで兄と弟が焙煎工場を小さくスタートさせました。兄は「インフィニコーヒー」という名前で焙煎専門にやったんですよ。弟は自分の店もあるし、私が一時、兄の豆を営業して歩いたこともあるんです。
それから2年後の6月に弟が「ホールステアーズカフェ」をまちなかで、7月に私が「カフェ・ノエル」を月寒で開きました。
やがて兄も日劇ビルの下で「カフェ・ド・ノール」を開き、3人がそれぞれの喫茶店を経営することになりました。
兄の店は日劇ビルの建て替えで北海道ビルヂングに移転して、そこも数年前にビルが取り壊しになって。兄は昨年、病気で亡くなりました。

「カフェ・ノエル」は月寒から福住へ

私は33歳のときに、月寒で喫茶店を始めました。そのころから今もずっと、コーヒーはネルドリップで淹れています。
店名の「カフェ・ノエル」は月寒で始めたときからです。外の看板はその店が開業したときのプレートです。向こうで10年やって、そこの建物を壊すことになってこっちに移ったんです。
この店のカウンターやテーブルも月寒のときから使っているので、もう40年弱の年季が入っています。この建物はその時に新築で作ったんです。まちなかで開こうかとも悩みましたが、やめました。都心部で喫茶店をやっている人にも相談しましたが、郊外のほうがいいよと。まちなかでやったら、ずっと家賃だろうって。何十万の家賃をずっと払い続けなくちゃいけない。
それに、この場所で喫茶店をゼロからやる人っていないなとも考えました。私だからできたんです。なぜかというと、月寒のときのお客さんに福住や西岡にお住まいの方がすごく多かった。札幌大学の先生がたくさん月寒の店に来ていただいていたんです。それでここならみんな車で来れるかなと思って。

1990年代、高倉健さんは映画の撮影などで北海道に来た際には必ず月寒の店に来店した(提供:宮越精一氏)

子どものときから、いろんな方の話を聞いて育ってきました。祖父母や両親はもちろん、時にはお客さんの話も聞いて、いま思うと、もう中学生ぐらいのときにはサービス業の仕事をやりたいという方向が決まってたのかなと思います。
今も祖父母の話で鮮明に覚えているのは、終戦になって戦地から帰ってきた兵隊さんたちが札幌で泊まって次の朝また汽車に乗って道内の各地に帰っていくわけです。でも数が多いので、札幌駅の駅長さんから、兵隊さんが泊まるとこなくて困ってると。うちの旅館もいっぱいなんだけど、どこでもいいからということで玄関に茣蓙をひいて、自分たちが使う布団を出して兵隊さんたちに休んでもらって、次の朝おにぎりを持たせて汽車に乗せる。すると、少し落ち着いて生活できるようになったら、お礼に来たっていうんです。当時の時代背景もあったでしょうが、そういう話を聞いて人とのつながりを生む接客業に惹かれたんじゃないかと思います。お手本は祖父母で、原点は宮越屋旅館ですね。
この店にずっと来てくださるお客さんがいます。だからこそ店をやっているんです。うちは8割ぐらいが固定客です。お客さんも少しずつ年をとりましたが、それは私も同じです。そうした長年のお客さんがここでゆっくりコーヒーを飲んでくれればうれしいし、それが私の幸せです。

40年、磨き続けるカウンターでコーヒーを淹れる宮越さん

三男の康介氏と。今も年中無休で10時から22時まで開店している

開店してからも豆はしばらく、兄の焙煎した豆と弟の宮越屋の豆を使ってきたのですが、途中からは自分で焙煎も始めました。20年前に三男が大学を出て帰ってきて店に入ってくれたのを機に、焙煎を始めました。それまでは朝の10時から夜12時まで年中無休でカウンターに立っていましたから、とても焙煎する時間はなかったんです。
焙煎した豆は、ここで使うのはもちろん、そんなに件数は多くないんですけど、10数店舗に卸しています。いま、焙煎は息子に任せています。
一杯のコーヒーを飲んでもらって美味しければ豆を買ってもらう。それでいいと思っています。
三男のお嫁さんも手伝ってくれています。私たち夫婦と息子夫婦の4人体制です。息子は息子で、長く愛してくださるお客さんを少しずつ広げていけばいい。
飲食業は足し算の仕事です。1+1は2の仕事をきちんとやることが大切ですよね。何年も何十年もやって信用を得るような仕事ですからね。
祖父母も父も決してかけ算の商売をやろうとはしなかったですね。祖父は、旅館がある程度成功して、頑固な一面、それがゆえに信用もあったようです。だからか、いろいろなところから不動産の話も来たらしいんですよ。そこを買わないかと。聞くと、今の都心の一等地ばかりです。でも、じいさんは買わない、俺は山師じゃないんだと。そのうちの一つでも買っておいてくれればと、兄と笑ったこともあります。
結局、ずっと旅館のオヤジで通した。父も札幌オリンピックを機にホテルにするわけですが、再開発も進んで札幌の街がダイナミックに変わっていく中で、そこから手を広げなかった。だから私も喫茶店のオヤジを続けていこうと思います。

宮越康介(やすゆき)さん

この店に入ってもう20年になります。特に深い思いがあったわけではなく、こういう仕事が向いていそうだなと思ったからですね。一生の仕事だとか、そこまで大きくは当時、考えてはいなかったです。コーヒーは好きでした。
父母もそんなに重たい気持ちでここをやってきたつもりはないと思います。気持ちの軽重よりも、どこを向いているのかとか、お客さんのためになることってどういうことなのかを考えてたんでしょう。そこだけは同じ気持ちでやっていけるのかなと思っています。
建物は古くなりますし、お客様も変わっていくだろうし、コーヒー自体も変化していく部分あるでしょうから、変わらない部分は少ないかもしれないですけど、多分確かにあるんでしょうから。
そういったものはどちらかというと、心構えとか姿勢の問題なのかなと思うんで、そういうところだけ自分の中で大切にしていければいいのかなと。なので割とリラックスしてやっています。
何かを前向きに変えていきたい気持ちもありますが、そのうえで変わらないねって言われるようになりたいなという感覚ですかね。
焙煎は基本的に私が1人でやり、父にチェックしてもらっています。でも難しいですね。焙煎の最適解はあるのかないのか、本当に奥が深いというよりも、見えない。まだまだ現在進行形です。
豆も値上がりしています。豆を焼いて売る商売は私たちのような規模だと利益を出すのは難しくなりますので、コーヒーを店で飲んでいただき、気に入ってもらえば豆も買ってもらえるように頑張るって感じですね。
月寒の店に学生時代に通い始めていただき、いま60になったよというお客さんがいます。もう定年だって。そういうお客様がいるということが父のやってきた道を物語っているのかと考えることがありますね。


カフェ・ノエル
北海道札幌市豊平区福住3条8丁目22-10
TEL:011-852-6868
営業:10時~22時、年中無休

協力:高倉プロモーション

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