函館の各界で活躍する函館人の心には、郷土の大先輩たちが生きている。
函館人が語る函館人の物語から、このまちならではの成り立ちやぶ厚い歴史が聞こえてくる。
1836(天保7)年ロシア・スモレンスク省ベリョーザ村生まれ。ペテルブルグ神学大学卒業後、1861(文久元)年、公募により24歳でハリストス正教会修道司祭として函館へ。ロシア領事館付属としてあった初代聖堂の、ワシリイ・マホフ司祭の後任となる。日本へ関心を持つきっかけは、1811(文化8)年に国後島で松前藩に囚えられたロシア海軍士官ゴローウニン著『日本幽閉記』とされる。1872(明治5)年東京へ本拠地を移し、1891(明治24)年東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立。1906(明治39)年大主教となり、1912(明治45)年永眠。享年75歳。1970(昭和45)年「亜使徒・日本の大主教聖ニコライ」として聖人に列聖される。
※以下、本文では「ニコライ」と表記しています
日曜の朝10時前、元町に教会の鐘の音が響き始めた。大三坂を登り切ったあたり、ハリストス正教会からだ。通称「ガンガン寺」と呼ばれるように、大小6つの鐘を祈祷前の5分間にわたり複雑に鳴らすスタイルで、荘厳というよりとてもリズミカル。光がきらきら降り注ぐような、高く明るい音色があたりを包む。教会は1860(万延元)年から同じ場所にある。幕末の函館では、どんなふうに響いていたのだろう。
その開港間もない函館に、新任の司祭としてやってきたのがニコライだった。後年、大主教聖ニコライとして日本中の尊敬を集めるようになるのだが、このときはまだ神学大学を卒業したばかりの、20代の若者である。
函館へ渡るにあたっては、人を雇わず自ら馬車を駆って大陸を横断し、舟を操り、アムール川の河口までたどり着いたという逸話が残る。若さゆえの冒険心だったのか、経費削減のためか、それとも信仰に基づいた自らを律する行為だったのか。理由はわからないが、冒険めいた旅は、どこか豪胆な人物を想像させる。
こんなエピソードがある。
国内で最初にニコライが洗礼を行った日本人3人のうち、澤邊琢磨(さわべ・たくま)と初めて相対したときのことだ。元土佐藩士で尊皇攘夷の志士だった澤邊は、外国人が日本を侵略するのではと警戒していた。澤邊は腰に刀を持ってニコライのもとへ乗り込み、キリスト教を邪教として激しく罵る。しかし、反対に「キリスト教を知らないで邪教と決めつけるのか」と諭され、教理を教えられるうちにもっとも熱心な信徒となる。そして1875(明治8)年、日本人初の正教会の司祭になった。
澤邊は地元の神明神社の宮司でもあったため、この転身は当時の人でなくても衝撃的だ。澤邊自身の生真面目な性格もあっただろう。しかし来函4年目でまだ若く、日本語も達者ではなかったはずのニコライが、相容れないような人物をどうして信徒として導くことができたのか、不思議でならない。人間として大きな魅力があった、ということだろうか。
当時の正教は、他のキリスト教派に比べて、外国人宣教師の数がかなり少なかった。ニコライの伝道活動は、後ろ盾がないなかほぼ独力で、函館を最初の拠点に行われた点が独特である。
1901(明治34)年に書かれた『日本正教傳道誌』には、「函館は北海道と本州との咽喉の地」という表現がある。北海道内と本州へ人が拡散するように動く函館を、正教会は日本での伝道の要所と考えていた。
ニコライは、日本人の伝教者の育成に力を入れ、東京・神田にも拠点を置き、全国で大きな成果をあげていく。
現代の函館に、ニコライと深いつながりを持つ人がいる。「曽祖父母の時代から、ニコライ神父と直接関わりがあったと聞いています」と話すのは陶芸家・高井秀樹さんだ。高井さんは教会の鐘打者でもある。6つの鐘は、両手と右足を使う特殊な方法で鳴らす。誰でもできるものではなく、もちろん信徒しか鳴らせない。長く鐘を鳴らし続けて、2015年に亡くなった中居真行氏から技術を継承するひとりである。
ニコライは明治の初めごろ、信州松代(現在の長野県松代町)を伝道のため訪れた。そのとき元松代藩士の高井栄司という人が、一家で洗礼を受けている。栄司には、義喜久(よしきく)と萬亀尾(まきお)という2人の息子がいた。兄弟は東京・神田に設置された正教神学校へ入学する。
高井さんの祖父・義喜久は、伝教者から転身し、サハリンでロシア語通訳者として「薩哈嗹(サガレン)島漁業組合事務所」に勤める(サガレンはサハリンの古い呼び方)。流暢なロシア語を話し、ロシア人からの信頼も厚かった義喜久は、日露戦争開戦時にコルサコフ州長官から特別に許可を与えられ、350人あまりを無事日本へ連れ帰ったという。高井さんによると、義喜久は馬で漁場を駆けまわってコルサコフ港へ集まるよう知らせたそうだ。
また、義喜久の妻で高井さんの祖母・利可(りか)の父親は、元仙台藩士の沼辺愛之輔という、ニコライから東京で最初に洗礼を受けた10人のうちの一人だ。利可も、幼児洗礼を受けた中ではかなり早いほうだったらしい。沼辺は伝教者として各地を巡ったほか、函館では神学校の校長、東京ではニコライの側近として書記を務めた。のちに義喜久と、東京の女子神学校教師となった娘の利可を取り持ったのもニコライだった。
高井さんが、利可が自宅の祭壇に飾っていたイコンを見せてくれた。後年、義喜久が日魯(にちろ)漁業に勤めたときモスクワから持ち帰ったイコンで、相当古い時代のものだという。「晩年の祖母は、出歩くこともなく教会へも行けなくなっていました。小さくて物静かな人だったことを覚えています」。利可は、娘のいる苫小牧で生涯を終えるが、イコンは函館の高井さんの手元に残された。
ニコライによって導かれた人たちが、巡りめぐって函館へたどり着いた。その先で自身がなにを継承していくのかを、最近高井さんは考えるようになったと言う。
陶芸制作に意義を見出だせなくなっていたあるとき、有田焼の人間国宝の技を学ぶ機会があった。その人は華やかな絵付が特徴の柿右衛門を再解釈し、白磁の作品を作っていた。「自分なりの解釈を加えて継承していく、その姿勢にすごく影響を受けましたね。陶芸家としての自分の人生を生き直そうと思いました」
現在、高井さんは陶器だけでなく磁器の制作にも意欲的に取り組み、大きな公募展で磁器作品での入賞を目指している。
「不思議なことに、磁器の研修に行った時期と、教会の鐘打者を引き継いだ時期が重なっているんです。陶芸家として、また信者として継承するという点では同じことだと感じています」
ニコライは晩年、日本人自らが伝道や司祭をつとめた結果、今の正教会がある、と述べている。「即ち、是こそは我等の教会に日本固有の教会と名づけられるべき疑ひなき権利を得て居ります」
自分がロシアから伝えたものが「日本固有」のものになったことへの、喜びと誇りの言葉にも聞こえる。ここから本当の後世への継承が始まることを、ニコライは知っていたのだ。
長い時を経た今、ニコライのメッセージは高井さんのなかに息づいている。
*参考文献
『函館ハリストス正教会史』函館ハリストス正教会史編集委員会
『函館ガンガン寺物語』厨川勇(北海道新聞社)
『明治の日本ハリストス正教会』ニコライ/中村健之介訳編(教文館)
『ニコライ堂の女性たち』中村健之介・中村悦子(教文館)
『函館・ロシア その交流の軌跡』清水恵(函館日ロ交流史研究会)
1957年函館市生まれ。陶芸との関わりは、横浜の大倉陶園に入社してから。その後備前などで修行を重ね、1985年北海道大野町(現北斗市)に築窯。「キリール陶房」と名付ける。キリールは洗礼名。日本伝統工芸展、道展などで入選を繰り返す。2002年函館市元町の現在地へ工房を移転。2011年から函館ハリストス正教会の鐘打者を継承する。同年、有田焼の人間国宝・井上萬二氏と出会い、磁器作品の制作を開始。現在に至る。
※高井秀樹さんのお名前の「高」の字は、正式には「はしご高」です。
●キリール陶房
北海道函館市元町13-17
http://ameblo.jp/gonta10kg/(ブログ)
●函館ハリストス正教会
北海道函館市元町3-13
http://orthodox-hakodate.jp