境界域の地域力。

道都の中心部。創成川の東一帯を、「創成東」と呼ぶ。
札幌都心の外部の内側であり、内部の外側だ。都心と郊外が交わるこの境界域で、地域の複雑な歴史が織られてきた。

開拓使の時代(1869~1882年)。札幌のまちづくりの基盤を担ったのが、「創成東」に作られた器械場だ。お雇い外国人たちが、欧米の最先端の機械群をフル稼動させて建築資材や農工具などを作り出した。そのさまは、まるで日本とちがう風景が突然に現れたものだっただろう。札幌神社(北海道神宮)の遥拝所(頓宮)が建てられたころ(1878年)、ここはまだ市街の東端だった。

界隈はその後、札幌の急膨張にやや取り残されていく。都心に隣接しているために、貧しい人々が富の縁(ふち)に貼りはりつくように暮らした時代。母校札幌農学校に教授としてもどった新渡戸稲造は同僚や学生たちと、この地にあった札幌独立教会の日曜学校のとなり(南4条東4丁目)で、貧困のせいで学校に行けない子どもたちのために無料の夜学を開いた。名高い遠友夜学校(1894〜1944年)だ。

戦後の復興から高度成長期へ。そして札幌オリンピックを経て、のちにバブルとも名指された80年代後半からの好況期。道都の人口はふくれあがり、都心の表情も一新したが、地域の空気はさほど変わらなかった。
しかし21世紀になって、郊外に拡散していた市民の志向が都心に戻ってくる。「創成東」には高層マンションが続々と建ち上がり、オープンしたてのカフェやブーランジェリーを、街歩きをする人々が発見していく。いくつもの空白や光と影の移ろいがあったからこそ、このまちにはいま独特のたたずまいがあるのだろう。
新しい出来事が湧き上がっている札幌の下町「創成東」を、カイが歩いてみた。

谷口雅春─text

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