「炭鉄港」が日本遺産に~1

炭鉱遺産に観る、近代北海道の姿

夕張市石炭博物館の地下展示のリアルなジオラマ。その先にある模擬坑道は、2019年4月の火災により現在は見学不可となっている

2019年5月、文化庁が認定する日本遺産となった「炭鉄港(たんてつこう)」は、全国のリストのなかで少々異彩を放っている。何百年も積み重なった歴史や偉人の功績といったものではなく、一瞬の繁栄を極めて衰退した炭鉱遺産が中心となっているからだ。
柴田美幸-text 黒瀬ミチオ-photo

近代日本の一大プロジェクト

「炭鉄港」とは、石炭の一大産地である空知地方の炭鉱、石炭をエネルギー源とした室蘭の製鉄、石炭を積み出した小樽港と、それらをつなぐ鉄道のことで、日本の近代産業を支えた石炭をめぐるストーリーを表している。
幕末からロシアの南下や欧米の来航に対する守りの要所だった北海道では、明治に入ると、多くの人を移住させて開拓を進めるとともに、国力増強や殖産興業の舞台として開発が行われ、近代化の実践の地となった。
炭鉱は、国がもっとも重要視した開発プロジェクトだった。お雇い外国人・ライマンによる空知地方の地質調査に基づき、1879(明治12)年に開山した幌内炭鉱(現三笠市)を皮切りに、開拓使によって大規模な炭鉱開発が始まる。石炭は、乏しかった国内の産業に力を与える新たな資源であり、エネルギーとして欠かせなかった。その後の戦争の時代、そして戦後復興の際にも、鉄鋼業の原料や動力の燃料として、空知の石炭は日本の産業を支え続けた。

夕張市石炭博物館の、夕張炭鉱黎明期の展示

空知の数ある炭鉱の中でも、中心的な供給地だったのが夕張である。
最大の夕張炭鉱は、ライマンの調査隊の一員だった北海道庁の技師・坂市太郎(ばん・いちたろう)が、1888(明治21)年に夕張で炭層の大露頭を発見したことに始まる。翌年、北海道炭礦鉄道(北炭。のち北海道炭礦汽船)に払い下げられ、1890(明治23)年に開発が始まるとともにまちが発展する。最盛期には人口12万人というまさに炭都だった。その繁栄ぶりは「西の三池、東の夕張」と、九州の三池炭鉱と並び称されていたことからもうかがえる。

現在、夕張市石炭博物館を管理・運営するNPO法人「炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団」理事長の吉岡宏高さんによると、夕張からは高品質な原料炭が採れたという。「石炭は大きく一般炭と原料炭の2種類に分けられます。一般炭はボイラーなどの燃料に使われますが、原料炭は熱量や粘結性が高く製鉄やガス製造に不可欠なコークスとして利用されます。夕張の石炭は、国内最高品質の原料炭でした。値段は一般炭の1.4倍だそうですから、夕張は空知の稼ぎ頭だったわけです」

NPO法人「炭鉱の記憶推進事業団」理事長、夕張市石炭博物館館長の吉岡宏高さん。自身も幌内炭鉱(三笠市)出身だ

時代に翻弄された証言者

炭鉱の記憶推進事業団は、夕張市のほか三笠市や赤平市など、空知の炭鉱遺産の情報発信や活用に取り組むNPO組織として2007年に設立。岩見沢市に設置した「そらち炭鉱の記憶マネジメントセンター」を拠点に、空知内外へ炭鉱遺産の記憶と価値を伝える活動を行っている。ちなみに岩見沢は、鉄道による石炭輸送の要となったまちである。
同センターは、吉岡さんいわく「外からの情報や人材といった光を取り入れ、中の動きを外へ伝えるレンズのような“点”の役割」を担ってきた。さらに、2018年からNPOが指定管理者を務める「夕張市石炭博物館」と、同年NPOが関わる「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」がオープンしたことで、空知の産炭地一帯をカバーする“面”の活動ができるようになったという。そして、10年前から構想してきた「炭鉄港」のストーリーがより明確になり、このたびの日本遺産認定へとつながった。

2019年5月20日、東京国立博物館で日本遺産認証式が行われた(写真提供:NPO法人炭鉱の記憶推進事業団)

炭鉄港は、ひとつの場所や地域で完結しているものではなく、それぞれの遺構が近代という歴史的背景で繋がり合っている。
遡れば、最初に薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)が幕末に描いた北海道開拓の構想があり、明治期に国策として実行したのが、開拓使トップの黒田清隆ら薩摩が輩出した人材だった。夕張などの炭鉱や鉄道を有した巨大企業・北炭を興した堀基(もとい)も薩摩人だ。
南端の薩摩で始まった近代化への道が、北端の北海道で炭鉱を楔(くさび)に実践され、日本の近代産業を動かしていたというダイナミックな歴史が、炭鉄港のストーリーから読み取れる。

地下展示では、実際に使っていた採炭機械「ドラムカッター」の実演運転が行われている。動力も昔のままだ

以前はさまざまな場所に展示されていた道具や機械などは、整理して1カ所にまとめられ見やすくなった

しかし、1960年代の高度経済成長期以降、石炭をとりまく状況は急激に変化した。近代とともに始まった産業は石炭から石油へのエネルギー政策の転換によって終焉へと向かい始め、北海道の役割も大きく変わった。もはや国の産業を支える地ではなくなったのである。そのことをもっとも体現しているのが炭鉱だ。相次ぐ閉山とともに産炭地のまちは光を失い、空知地方の人口は最盛期の5分の1まで減少した。かつて10万人以上いたこともある夕張市は、現在8千人を下回っている。
吉岡さんは、消費社会を謳歌し、人口減少と高齢化によって衰退していく日本の状況は、今後これとよく似たものになるのではないかと言う。炭鉱は「すでに起きた未来」としてあるのだと。
「明治から100年たらずの間に絶頂から没落までを経験した地は、ほかにはないでしょう。炭鉱遺産や付随する遺構などを実際に見ることで、日本の近代、北海道の近代とはどういうものだったのかを知ってほしい。そして、この100年が何だったのか、これからの時代をどう生きたらよいのか、一度考えてほしいのです」
炭鉄港のサブタイトル「本邦国策を北海道に観よ!」は、空知そして北海道が、国策に翻弄された地であることを暗に示している。炭鉄港を鑑(かがみ)に“今”を観ることで、たんに過去をたどるのではなく、未来の北海道の姿を考える問題提起の場にしていくこと。これも、炭鉄港のストーリーが示す課題である。

石炭博物館展示室の入り口では、夕張炭鉱がたどった繁栄から衰退、そして未来への過程を視覚的に表している

展示室の出口にはメッセージボードが設置され、来館者は感じたことを付箋紙に書いて残していく

炭鉱遺産の新たな価値と可能性

炭鉱遺産というと、どうしても朽ち果てていく廃墟のイメージが強いが、人のエネルギーが渦巻く場所だったことを忘れてはならない。最盛期の炭鉱マンの数は約7万人、暮らしていた人々の数は50万人。その記憶は、形を持たないが今も地域に残されていて、それをアートの力で形にしようとする動きがある。たとえば、三笠市や赤平市では、炭鉱施設を利用したアートプロジェクトを定期的に開催してきた。
ほかにも、NPOのメンバーがガイドするまち歩きを実施。炭鉱遺産を取り入れた新しい観光ツアーに取り組み、価値の共有を図っている。
日本遺産としての今後の展開は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つである鹿児島県の「集成館事業」(薩摩藩の近代工場群)をはじめとして、日本遺産である兵庫県の生野銀山や広島県の呉(室蘭の鉄鋼を使っていた旧海軍工廠[こうしょう])との連携が模索されようとしている。炭鉄港が、時代や地域を超えた広がりの中に位置づけられることがよくわかる。

元炭鉱マンや有識者など炭鉱に関わりを持つメンバーが、炭鉄港に認定されたまちを案内する「ぷらぷらまち歩き」(2019年)。写真は10月6日に行われた三笠市の新幌内炭鉱を巡ったときのようす

近代は50年ほど前までそこにあったと、炭鉄港は語っている。その声を、今後私たちはどう聞くのだろうか。


夕張市石炭博物館
北海道夕張市高松7番地
TEL: 0123-52-5500
開館日:〜2019年11月4日
※11月5日以降の見学は団体(20名以上)に限り受付。希望日の1カ月前までに要問い合わせ
開館時間 (4~9月)10:00~17:00、(10月~)10:00~16:00
※最終入場は閉館の30分前
休館日 火曜(祝日の場合は開館)、冬期(11月上旬〜4月下旬)
入館料 一般700円、小学生以下420円(夕張市民は無料)
※1階の企画展示室は無料
WEBサイト

そらち炭鉱の記憶マネジメントセンター
北海道岩見沢市1条西4丁目3
TEL: 0126-24-9901
開館時間 10:30~17:30
休館日 月・火曜(祝日は開館、翌日休館)
入場料 無料
WEBサイト

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