渋沢栄一が創立発起人を務めた十勝開墾合資会社の三代目農場長吉田嘉市は、1910(明治43)年に熊牛(クマウシ、現・清水町)に入り、窮地に陥っていた農場を見事軌道に乗せた。
このシリーズの重要なリソースとなっている「吉田嘉市先生小伝」(杉野直次編纂.1924.草野和好改稿覆刻)の序には、十勝開墾(株)の社長植村澄(ちょう)三郎の文章がある。そこには「君就任するや(略)未だ数年ならずして農場の面目忽(たちま)ち一新し、着々として成功の域に達せり」と記され、さらに「意志鞏固(きょうこ)、用意周到、至誠以(もっ)て事に当たる」、とつづく。さらに、賞罰のメリハリを効かせて部下を厳しく導き、一方で温情にもあつかった、という最上級の評価が重ねられている。
吉田がとりわけ力を入れたのは、水田の造成だった。
そもそも彼は、米を作るのだ、という強い気持ちで北海道に渡ってきた。吉田は機会あるごとに、米づくりこそが農家の天職なのだ、と訴えている。就任前に渋沢栄一らに行ったプレゼンテーションでは、米をつくる仕事は我々日本人が本来最も好むもので、それは畑作と同一視できるものではない、と言い切った。
小田信樹前農場長も米の試作を行っていたが、不作や農場のリストラで尻すぼみになっていた。1912(大正元)年、吉田は熊牛(クマウシ)のニトマップ地区に用水路を掘って50ヘクタールあまりの水田を造成。上川から20戸の農家を入れて稲を栽培させる。最初の2年はうまくいかなかったが、3年目からなんとか収穫が始められた。ちなみに収穫できなかった1913(大正2)年は、開拓史に残る全道大冷害の年だ。
1915(大正4)年以後は、熊牛でも石狩地方に劣らない収穫が実現していき、小作人たちの意識も変わっていく。
牧畜の分野でも、イギリスなどから肉牛用の種牡牛を導入。やがて乳牛生産に舵を切ると、ホルスタインの導入を目指して事業を進めることになる。
馬については、耕起馬の改良と増殖に務めて、小作人所有の馬が800頭以上もの規模になった。そこで会社所有の馬を繁殖用と労務のための馬だけにして、多くを売却。会社の牧場は小作人がもつ馬の放牧場として開放した。繁殖のために会社ではペルシュロンやサラブレッド、トロッターの払い下げを積極的に受け、小作人たちへの良質な種馬の貸付けにも力を注いで、農耕馬の改良に取り組んだ。
吉田嘉市農場長のもとで命を吹き返した十勝開墾合資会社は、1915(大正4)年にははじめて出資者への配当を実現させる(年5%)。その翌年、会社は資本金を増額して、株式会社へと組織変更。1917(大正6)年には年10%もの配当を実現させる。吉田は取締役となった。
翌1918年は、開拓使設置半世紀を記念して「開道50年」の催しがさまざまに行われた年だ。札幌の中島公園を主会場に開催された記念の博覧会で吉田は、「農場経営の方法及び成績」がとりわけ優秀であるとして、金牌の栄誉を受けている。
「開道50年」事業は、歴史家河野常吉が率いて道庁で北海道史の編纂が進んでいたことからもうかがえるように、内国植民地としてあった移民の島である北海道が、ようやく自意識を持って郷土を考えようとしたエポックだった(河野編の北海道史は、編集方針をめぐる軋轢があって未完成に終わる)。
1919(大正8)年には、会社の畜舎が竣工した。澁谷農場の畜舎としていまでも立派に機能しているこの施設は北海道帝国大学に設計を委嘱したもので、なるほど、北大キャンパスの一角に残るモデルバーンのデザインを思わせる。
しかしこの年の春、吉田は農場長の職を続けながらも、東の隣村、音更村(現・音更町)の下然別(しもしかりべつ)に居を移すことになる。移住に先がけて彼は自分の農場として、そこに土地を譲り受けていた。地下水位の高い一帯で、明治40年代から人は入ったものの、本格的な開墾はまだ始まっていなかった。周辺をさらに買い足して畑を起こし、牧場を拓き、植樹や造林なども行なった。
開墾が進むにつれて吉田は念願の水田開発に着手。仲間をつのって、インフラ整備を進める土功組合を組織する。灌漑工事は1920(大正10)年11月に竣工した。
さらには神社の造営を助けたり土木工事や教育の環境整備にも力を尽くし、やがて駐在所や集会所を建てるなど、地域づくりにも熱中した。万年地区には、1931(昭和6)年に建てられた吉田嘉市の顕彰碑があり、「嗚呼翁ハ農業ノ先覚トシテ一身ヲ致シ斯業ヲ後世ニ胎ス(農業の先達として自身のすべてをかけて後世を育む開拓の業を起こす)…」という文が読める。
吉田は十勝開墾会社を切り盛りしながら、いま述べた土功組合(萬年土功組合)の組合長を務め、さらに依然として、最初の入植地である近文(チカブミ)土功組合の理事の職にもあった。加えて、熊牛のある人舞村(現・清水町)の農会(戦前にあった地主・農民の団体)会長であり、十勝6郡の農会副会長や十勝農政協会副理事長の職など、たくさんの公職を持った。
名誉職もあっただろうが、地域のリーダーとして十分な収入はあったはずだ。しかし他方で、日本赤十字社や、慈善事業を行う済生会、そしてアジアの医療に貢献する東亜同仁会、さらには十勝管内の神社仏閣や公共団体に熱心に寄付をつづける日々だった。だから暮らしはごく慎ましいものだったという。
1920(大正9)年、十勝開墾合資会社の起業メンバーであり大倉財閥の総帥である大倉喜八郎は、中国で水田事業を興したいと、北方の稲作の第一人者となっていた吉田に、東部の三省(安徴省、江蘇省、浙江省)の調査を依頼する。吉田は大陸に渡って視察を重ねたが、大規模な開発の適地はないことがわかって計画は中止となった。
次に1923(大正12)年、大倉は今度は東蒙古の通遼(つうりょう、現・中国内モンゴル自治区通遼市)で6,000万坪という大水田事業を構想。請われた吉田は再度大陸に渡って広く踏査を続け、今度は条件は十分である、と報告をあげた。勇気づけられた大倉は現地の人々を大量に使役して造田を開始。初年度から上々の収穫を得た。吉田は翌年自ら再度渡って、指導に当たっている。
戊辰戦争から日清日露の戦いと、御用商人としてしたたかに力を蓄えた大倉喜八郎と大陸の関わりは、大胆不敵な冒険商人の名にふさわしいものだ。
日露戦争の講和条約(1905年)によって日本は、南樺太の割譲や韓国における権益をはじめ、旅順や大連の租借権や南満洲の鉄道利権などを得た。これを願ってもない好機として大倉は、陸軍の進展に呼応して次々に鉱業へ投資。日中合弁の鉱山と製鉄の大会社を立ち上げたのをはじめ、木材や紡績、農業と、矢継ぎ早に満洲で新事業を興していく。大陸での人脈を駆使して、80代の老境でなお動かした水田開発もその一環だった。
大倉の評伝は少なくないが、「明治を食いつくした男」(岡田和裕)、「大倉喜八郎の豪快なる生涯」(砂川幸雄)といったタイトルが、その激烈な猛進ぶりを語っているだろう。渋沢栄一が十勝開墾会社に吉田嘉市を必要としたように、大倉もまた、大陸での水田開発に吉田の力を求めたのだった。
十勝開墾会社の創立発起人である渋沢栄一は、吉田が就任する前、1908(明治41)年8月に一度だけ熊牛を訪れている。会社幹部の植村澄三郎をはじめ夫人や息子と娘もまじえた一行は、鉄路で函館、小樽、札幌、旭川と北上して、それぞれの地で関係した事業を視察した。そして旭川を早朝に出発。その前年の秋に開通した狩勝トンネルをくぐり抜け、十勝をめざす。午後に清水駅に着いたが、所要時間は7時間以上だ。清水駅からは人力車に乗った。着いた夜は農場長(先代の小田信樹)の自宅に泊まる。
翌日から丸二日をかけて農場の開墾状況を視察した。会社職員や移住民総代らに訓示を与えたほか、人舞村(現・清水町)には教育費として200円を寄付している。渋沢はこの日の日記に、農場の土地は豊かで、今後灌漑設備ができれば良い水田になるだろう、と書いている。自分に披露するために140、150頭の馬と50、60頭の牛が集められるさまは、「頗(すこぶ)ル壮快ナリキ」(「渋沢栄一傳記資料」)。
2日目の夕刻。小田は一行のために特別の催しを用意した。イオマンテ(アイヌの熊の霊送り)の再現だ。正装したエカシ(長老)たちが率いた、若いアイヌがたくさん集まった。
本来はその場で仔グマを屠(ほふ)って一連のカムイノミ(儀式)と飲食が行われるが、このときは簡略に進められた。渋沢は日記に、「其(その)様(さま)卑野ナレトモ亦(また)古雅ノ趣アリキ」と記し、印象を詠(よ)んでいる。
あふ(会う)ものはみなあたらしき旅の空 布(ふ)るき神代のさまも見るか那(な)
幕末の探検家松浦武四郎は、道内各地の地名の原型となる、おびただしい数のアイヌ語地名を記録した。尊皇論者である松浦はそれらに、日本語の神代の響きを探ったといわれる。尊皇の意識が強かった渋沢もまた同じように、アイヌ文化に日本の先史の面影を見ようとしたのではないだろうか。詠(うた)われているのは、単に異文化との出会いの感慨を、尊大に言葉にしたものではない。この伝記資料には渋沢の三女愛子の日記もあり、愛子は「兄上(三男正雄)アイヌ一同を撮影したまひぬ」とある。
渋沢の歌とともに興味深いのは、明治40年代の熊牛にあった、アイヌと入植者たちとの関わりだ。十勝開拓の源流に位置づけられる晩成社のメンバーだった渡辺勝は、道庁の「土人農業世話係」(ママ)としてアイヌに農業指導を行った。しかし明治20年代初頭の「渡辺勝・カネ日記」などからは、仕事を越えた深い交友が見て取れる。時代を下ったこのころの小田農場長と土地のアイヌの交わりにも、通じるものがあったのかもしれない。
ここで補助線を一本引いてみよう。
「大松沢開拓農民の歩み」と題した記念誌がある。1970(昭和45)年に編纂されたもので、宮城県大松沢村から熊牛に1906(明治34)年に入った20戸を草分けとする、松沢地区の記録だ。水害と冷害に苦しめられたあげくに北海道への集団移住を決断した人々の、過酷な生活がリアルに証言されている。
曰く、「暮らしは人間の生活とはほどとおいものであった」。「主食は馬鈴薯、ソバ、麦、とうもろこし」。「春になると掘り残って凍(しば)れたイモを干して粉にして団子を作る。これはアイヌに教わった食べ方」。
あるいは母から聞いた話として、子どものころ、北海道はどんなに良いところだろうとワクワクしながら、初めて汽車に乗って延々と北をめざした。しかし恐ろしいけもの道をかきわけてようやく熊牛に着いた日、割り当てられた笹ぶきの小屋のまわりには熊笹とトクサが一面に生え茂り、空を吸い取ってしまうような大木が数え切れないほど聳(そび)えていた。両親は自分をどうしてこのようなところに連れてきてしまったのかと泣きたかった。そして、それから始まった開墾の日々の苦しさはさらにそれ以上で、とても言葉では表現できない、などと続く。
編者のひとり飛岡久は総論で、「十勝開墾会社の開拓の歴史は渋沢栄一が偉大だつたのではなくして、日々の生活との斗いの中で苦難な労働の結晶の歴史こそ、農民の斗いの歴史でした」(ママ)、と書いている。
先にふれた三女愛子の日記には、小田農場長の案内で一軒の小屋を訪れた一節がある。そこには、「柱はまがり屋根はかたむき実に安達ヶ原の一ツ家もかくやと思ふばかりのあばら屋なり」、とある。この一ツ家とは、阿武隈川のほとりにあって泊めた旅人を喰らうという、歌舞伎や能の題材にもなった恐ろしい鬼婆の説話の舞台だ。
しかし小田は、ここは開墾会社の最初の事務所だった家で、大切な記念の建物なのです、と説いた。小田夫人から小作人たちが常食している稲きびをふるまわれると、「赤き大いなる豆(金時豆か?)と共に炊けるなり。(中略)これのみを食する人の身にては、いかばかり不味にして飽くべきなど(どんなに不味いことか、すぐに飽きてしまうだろうと)思へば気の毒に堪へず」、と深い同情を寄せている。
農場長吉田嘉市にもどろう。
吉田は1924(大正13)年には十勝農政協会の要請を受けて道議会選挙に立つことになった。ほかの候補者とちがって売名的野心は持たないと言い張って自ら動くことはなかったのだが、農場小作人の有志がいわば勝手連方式で奔走。当選となった。61歳の夏のことだった。
この年に会社は、日本甜菜製糖清水工場(1921年創業)を吸収して進出した明治製糖(株)に株式を委譲して、経営権は同社に移される。製糖会社がオーナーとなって、事業のフレームが大きく換わった。しかし十勝開墾(株)の社名はそのまま残り、農地の管理もそれまで同様に開墾会社が担う。
最盛期には550戸もの小作農家を持った開墾会社だが、新たに経営を担った明治製糖(株)は吉田に感謝状と金1万円を贈って慰労した。吉田は1925(大正14)年の夏まで農場長の職にあった。
十勝開墾(株)はその後小作人たちの農地解放の運動が粘り強く進められた。難航の末に道庁の協力も得て融資が整えられ、1935(昭和10)年春にはすべての農地が解放されて、243戸の自作農が生まれる。二代農場長小田信樹が「不良移民」に手を焼いた時代から30余年で、世代ひとつ分の時代が力強く替わっていた。
第一次世界大戦(1914-18)では、戦火で食糧難となったヨーロッパへ十勝の雑穀類が小樽港から輸出されて、豆農家や小樽商人たちに空前の好況をもたらした。この時期に欧州の砂糖価格も暴騰したので、明治期には成長できなかった北海道の製糖業が、ビートの栽培適地であった十勝で息を吹き返し、日本甜菜製糖のような大工場が進出する。帯広には北海道製糖も進出していた。
開墾会社の経営が替わる前に吉田が音更に移っていたことをめぐって、ひ孫に当たる吉田幸彦さんは、「豆類やビートと製糖工場が主力になっていく熊牛では、この先自分が活躍する場はないだろうと考えたのでしょう」、と言う。事実「清水町百年史」は、水田に力を入れていた十勝開墾会社は第一次大戦下の豆ブームに乗り遅れた、と書く。嘉市はあくまで米づくりの人であったのだ。
その後音更で、念願の米づくり三昧の暮らしをしたかったであろう吉田嘉市だが、病がそれを許さなかった。万年の自宅で病没したのは、1927(昭和2)年の5月だ。享年64。
かなりの回り道をしたけれど、「喫茶店という場と空間」と題したこの特集に戻れば、地域史こそがまちを語りふるさとを考える、「もうひとつの場と空間」にほかならないだろう。そこでは、偉人を顕彰することから、埋もれていた小さな挿話を掬(すく)い出すことまでが自由に共存している。さらには、現代の出来事と過去が交わることで生まれる、新たな語りが光を放つかもしれない。
自分が暮らすまちの場と空間を主語にしてその多様な断面を重ねていけば、北海道はさらに複雑で力のある物語を自ら語り出すはずだ。