
馬追丘陵の一角。辻村もと子「馬追原野」の碑が立つ、マオイ文学台

馬追丘陵の一角。辻村もと子「馬追原野」の碑が立つ、マオイ文学台
岩見沢志文の焼き菓子工房、グランマ・ヨシエの辻村淑恵さんの義理の祖父辻村直四郎(1870-1941)は、志文に最初期に入った開拓者だった。それは1893(明治25)年春のこと。郷里小田原の縁者の支援も受けながら数知れない困難を乗り越え、明治30年代末にはおよそ120町歩(約120ヘクタール)の開墾に成功して、30戸ほどの小作人を抱える辻村農場を作り上げた。直四郎は一女三男に恵まれたが、長女が、作家となった辻村もと子だ。1906(明治39)年の紀元節(2月11日)に生まれたので元子と名づけられた(筆名は「もと子」)。
もと子は、北海道の文学史ではもっぱら「馬追原野」を書いた作家、と紹介される。これは明治20年代に、現在の長沼町の一角で開墾に挑んだ青年の物語で、若き日の父直四郎の取り組みを正確になぞるような小説だ。
もと子は志文尋常高等小学校を卒業すると、父母の郷里である神奈川県の小田原高等女学校に入学したが、ほどなく函館遺愛女学校に転校。1級下には石川啄木の娘京子がいて、親しく文学を語り合ったという。そして1924(大正13)年、東京の日本女子大学校へ進学する。日本で最初の組織的な女子高等教育機関だ(戦後の学制改革で日本女子大学に)。
前年の秋に関東一円を大震災が襲い、同校のレンガ造りの建物も大破を免れなかったので、大学生活のスタートは夢と希望だけではなかっただろう。事実、直四郎の本家筋で箱根で暮らしていた登山家でもある辻村伊助の一家が、地震による土砂崩れで亡くなっていた。
もと子の進学は、本人の強い意欲と能力、さらには両親のサポートがあればこそだが、中等教育機関(旧制中学や高等女学校)もまだ限られていた大正期の空知のような新開地では、特段に恵まれた境遇だったといえるだろう。

日記から1912(大正元)年8月11日であることがわかる、辻村直四郎が屋敷林で子どもたちを撮った写真。妻梅路の実家に成長を報告する目的があった。秀逸な人物配置で、右端が6歳のもと子
もと子は大学校時代から、学内の文芸誌などを舞台に創作に取り組むようになる。そして1928(昭和3)年に卒業した直後、書きためた短編小説をもとに最初の作品集『春の落葉』(東京詩学協会)を発表した。限定300部。恩師の茅野蕭々(ちのしょうしょう・ドイツ文学者)や親戚でもある作家中村星湖が序文を寄せ、背にそれぞれ異なる絹地を使って凝りに凝った装幀が目を惹く。成功した入植者である直四郎が、最愛の娘のために援助を惜しまなかったことが想像できる。
この一冊には、幅広いテーマやモチーフを配しながら13の短編が収められている。若書きの印象を抱かせる作品もあるが、書名にも選んだ「春の落葉」を読むと、二十歳ちょっとで書いたとは思えない洗練された完成度に惹かれる。
祖母の死と送りのために久しぶりに集まった親族が、骨上げ(収骨)に向かう前後に交わす言葉やふるまいを通して見せる人となりや思いを、「私」の目で繊細に掬(すく)い取った一篇だ。
書き手である「私」は、それぞれに個性的な家族縁者に冷静なまなざしを配りながら、愛する祖母の喪失が自分にもたらした、生と死をめぐる心情を誠実に披瀝している。一同が雑木林を縫う山道を寺に向かうところなどは映像シーンが浮かぶようで、対象との端正な距離感や時間の静かな移ろいは、読者にはさながら小津安二郎の映画の断片を垣間見るような印象を与える。作品の祖母の死には、自身が小田原女学校時代に遭遇した、実際の祖母の死がこだましている。もと子が小田原高等女学校から函館遺愛女学校に転校したいきさつには、要因となる祖母の死があった。
この作品は、いまは青空文庫(無料電子書籍サービス)で読むことができる。

限定300部で豪華な装幀が目をひく『春の落葉』。それぞれに背表紙まわりの絹布(カネギヌと呼ばれた鐘紡製品)が異なっている(写真提供:村田文江)

両親への献呈署名がある『春の落葉』。現在の辻村邸の展示より
小説「春の落葉」では北海道では自生しないクヌギの葉がモチーフになっているのだが、短篇を束ねた書籍としての『春の落葉』には、ほかに全く趣向を異にして、北海道の厳しい開拓地で繰り広げられる夫婦や兄弟のリアルな人間模様を主題にした作品がいくつもある。父が土地の草分けとして開いた農場で生まれ育った、もと子ならではの経験が生み出した世界だ。
デビュー作には作家の未来の種がすべてあって、作家はデビュー作に向かって成熟していくともいう。もと子もまさにそんなキャリアを歩んだ。
『春の落葉』の出版を実現させた当時20代半ばの外山(とやま)卯三郎(札幌詩学協会。詩人・美術批評)は、のちに札幌の文芸誌「北方文芸」(1972年8月)で、当時のもと子からその後の作風は想像できなかった、と書いている。
「辻村さんが長編小説のべテランになるということを全然予想もしなかったし、あの木目のこまかい表現で、そのような巨大な建築が構想されるとも思っていなかったのです。とてもユニークな抒情的な言葉によって、しっとりとした肌ざわりのデリケートな散文詩が、将来の文学として展開されるだろうと考えていたのです。」
辻村もと子はこれから、祖母の死をめぐる短編「春の落葉」のような抒情的な世界を展開していくに違いない。若き日の外山はそう考えていたのだった。

長沼町の田園を一望するマオイ文学台からの眺望。遠く左に札幌岳、正面に無意根山の稜線を望む
先にあげたように、現在もと子の代表作とされるのは「馬追原野」だ。北海道で開拓者になる、という強い思いで内地から渡って来た若者が、逆境の中で原野を拓き馬追(まおい)の大地に挑む姿をリアルに描いた力作で、1942(昭和17)年5月に出版された。そこにあるのは、外山が想像したもと子像とはかなり違う、北海道の大地と人間たちの関わりを正面から描いた骨太の世界だ。
「北方文芸・第五輯」(1942.9)には、その年の春に出版されたこの小説の書評が載っている。評者は、戦後に北海道拓殖史の大家となる高倉新一郎。当時は殖民学や農業経済学を講じる北海道帝国大学助教授だった。
高倉は、自分は文学者ではないので感想を綴る、と前置きしながら、「馬追原野」は、「明治二十五年前後の石狩平野開拓状況を彷彿せしめる意味において、石狩平野開拓史とでも言ふならば作者は實によく勉強した」、と評している。これは同じ原稿でふれている、デビュー間もない船山馨への評価と好対照だ。高倉は、同時期に発表された船山の「北国物語」を取り上げ、札幌の街や四季は描かれているが「それを受け入れる目は假住居の人らしく皮相だし、北海道の眞の生活が描かれてゐない」、と手厳しい。「北国物語」は、札幌に生きる、ロシア革命から国外へ逃れた白系ロシア人(亡命した白軍、反革命側の人々)のコミュニティをめぐる小説だが、高倉はこの作品に、道都がもつ北方のイメージとロシアをいかにも上辺のイメージで重ねただけの筆致を見て、不満だったのだろう。
当時36歳だった辻村もと子の「馬追原野」が、第一線の学者からも、まず史実にのっとって良く書かれている、と評価を受けた。それを可能にしたのは、実は入植の成功者である父から渡された詳細な手記があったからだった。
前回につづいて、辻村家資料研究会の村田文江さん(北海道教育大学岩見沢校元教授・社会科教育)が調査研究に取り組んでいる辻村直四郎の手記にふれよう。
村田さんによれば、直四郎は昭和の初頭から自らの事績経歴書をまとめるようになっている。還暦を迎えて農会などで開拓功労の表彰を受けたり、人前で自らの事績を語るようになったことがその理由だろう。
1934(昭和9)年からは、明確に自叙伝を綴りはじめた。そして書き進めるごとに、これを東京で暮らすもと子に送っている。その数は11回に及ぶ。直四郎の文面には「此次から御訊ねの事情を報すべし」、などともあり、執筆のためにもと子が父に入植時の具体的なようすをあらためて聞いていたことがわかる。
「馬追原野」では、開墾する土地の貸し下げを道庁から受けることができずにいる主人公秋月運平に対して、札幌の馬具商関矢卯之助が、自分が貸し下げを受けた馬追の土地の開墾を依頼することで物語が動き出す。これは事実の通りで、秋月運平とは父直四郎のことで、関矢卯之助とは、実在する馬具商亀谷卯之助にほかならない(亀谷は前回に写真掲載)。
つまり小説の骨組みは、直四郎の体験そのものだった。また例えば、前半で主人公運平は6人の頼りなげな働き手を連れて馬追の開墾地を目指していくのだが、直四郎の手記にもその通り、男女6人を引率して馬追に向かって札幌から汽車で出発したことが書かれている。

辻村家を見守りつづけた屋敷林の大きなハルニレの下。左から愛犬ジョン、もと子、弟の啓三と太郎。後ろは従兄弟の辻村正吾と思われる。1925(大正14)年の夏、もと子は大学校の夏休みで帰省中か

1930(昭和5)年7月に屋敷林で撮られた家族写真。前列左から母の梅路、父直四郎、もと子、新婚の夫である吉久保恒之介(1940年離婚)

上の写真と同じ日の一枚。愛猫を抱くもと子
「馬追原野」は、1944(昭和19)年春に第一回樋口一葉賞を受賞している。賞の目的や受賞の経緯については、以前の特集でふれたことがあるので概要にとどめるが、この小説もまた、前回とりあげた「北海道農業開拓秘録」同様に、まず時代の文脈で位置づけることができる。戦時体制下でもと子が受けた樋口一葉賞は、難局に立ち向かいながら満州開拓にも取り組む日本が、いまいちど北海道開拓の精神を召喚して鼓舞する作品として、「馬追原野」を顕彰するものだった。だから賞は、この第一回だけで使命を終えている。
戦争末期。樋口一葉賞作家である辻村もと子は文芸誌「日本文学者」の1944年12月号に、「泉」という印象的な随筆を寄せている。「日本文学者」は戦時の出版統制の中で生まれた文芸雑誌で、発行は日本青年文学者会。この号の特集は、「決戦と文学」だ。このころ日本はフィリピンを失い(レイテ島沖海戦で海軍は壊滅的敗北)、日本本土がすでにB29の爆撃圏に入っていた。
同誌は政府直轄のプロパガンダ誌ではないものの、この号では、「文学はいかに戦争に寄与するか」をめぐる論考や、東京都が郊外に設置した戦時疎開学園の現場報告、そして戦時にふさわしい創作が誌面を埋めている。
しかしその中でもと子の随筆は、異彩を放っている。文章は、このシリーズの最初でふれた、実家の屋敷林で遊んだ13歳のころの追想からはじまっていた。彼女は広い森の中で、斜面で朽ちたカエデの根元から湧く泉の源流を弟たちと突き止め、どっさりまとわりつく枯葉や雑草を取り除いて湧き口が見えるようにして遊んだのだった。そのころちょうど本稿第二回でふれた万字線が開通していたので彼らは、「清水開通式ばんざあい!」と叫んだという。
その思い出から25年。38歳になったもと子は、敗戦が迫る帝都で腎臓を患い、重い病床の身だった。
そして身近な作家の作品を読み、自己省察の時間をすごす中で、社会のこの絶望的な混乱を正すためには、あのときのように泉の清掃をしなければ、と考える。朽葉をかきのけ、どろどろの水をいったん流しきることで、本当に透徹した美しい水が流れ出すだろう。もと子は、「たましひのぎりぎりのありかたを、もう一度、謙虚にひとりの人間になつて省みたいとおもふ」、と書く。
そして自省する。自分にはまだ安心して死ねるような作品が書けていない。だからこそ心の泉の泥や朽葉を流し去りたい。「死ねないとおもふのは、母を想ふとき、生きたいとおもふのは、作品を想ふとき」—。
敗戦濃厚な時代に、「決戦」には何の関係もない、特段に個人的な思いを率直に綴るもと子にあるのは、かつて外山卯三郎がもと子の未来を予想した抒情的な散文家でも、樋口一葉賞のお墨付きを得た、国策に棹をさす情熱家とも全くちがう、強い内面を持つひとりの人間の姿だ。
しかし東京で療養しながらも、もと子の病状は悪化するだけだった。
翌1945(昭和20)年春、空襲に怯える東京から志文に帰り、その一年後、もと子は岩見沢市立病院で40歳の生涯を閉じる。直後、ふるさとの文学同志であった加藤愛夫ら(詩人・養鶏家)の尽力で、最後の作品集「風の街」が発刊された。
本の完成が先か命尽きるのが先かという状態の中で、加藤は出版社を動かして特別に一冊だけを製本して、死の淵にあるもと子に届けたという。

1931(昭和6)年7月。直四郎は妻梅路ともと子を連れて阿寒を旅した。イソツツジの前のもと子。25歳
辻村家資料研究会の村田文江さんと黒井茂さん(北方史料研究会)は、辻村もと子の資料を調べる中で、もと子が自身を語る「わが文学について」(1934年8月)という、ほとんど知られていなかった、若い日のテキストを発見した(「あらくれ」第二巻八号・紀伊国屋出版部)。
ここで28歳のもと子は、これまでの自分の作品は見た目には美しくても頼りなく力の弱いものだった、と自戒する。しかしこれからは苦しい小説、書きにくい小説を書く勉強を始めたい。「スケールの大きい、荒削りの木彫のようなもの、しかも、その一削り一削りに力と魂のありったけをこめて—」、という、強い言葉が続く。
さらにもと子は、「何か、いいものが書けそうな気がする。(中略)これから、私のほんとうの作品が生れ出すような気がする」、とまで言い切っている。
彼女のこの自信の根拠には、ちょうどこの年の1月より志文から送られてくる、直四郎の自叙伝があったことは間違いない。さらにそれは、父の自伝によって単にリアルな開拓の物語が書けるという意味ではなく、人間をもっと深く見すえられるようになるという確信ではなかっただろうか。「馬追原野」が発表されるまで、それから8年の歳月が流れた。
「馬追原野」の成功は、22歳でのデビュー作「春の落葉」をプロデュースした外山卯三郎をして、もと子はすでに巨大な建築が構想できる長編小説のべテランだと思わせた(前述)。
2016年6月に立ち上がった辻村家資料研究会は、残されたもと子の行李などから、既存の著作目録にない作品を20点以上発見した。活動のハイライトと言えるのが、未発表だった「山脈」という長編を活字化したことだ(別冊・文学岩見沢2018.2)。「馬追原野」が直四郎の馬追開墾を描いたのに対して、こちらの舞台は、辻村農場が位置する幌向原野だ。
そして村田さんと黒井さんは、直四郎の手記や日記、私信などをあらためて掘り起こしてテキスト入力する取り組みを続けている。
以前、季刊誌「カイ」の小樽特集(「あの小樽にこの室蘭」2013.07)で、小樽出身の彫刻家である故國松明日香さんに、すぐれた画家を多く輩出した小樽の美術界の力について伺ったことがある。画家國松登を父に持つ國松さんは、「美しい風景が画家を作るのではなく、その土地に生きる多くの画家の作品が新たな画家を作るのです」、と言った。
その視座を敷衍すれば、すぐれた小説もまた、単にすぐれたテーマや固有の風土から生まれるのではなく、それらが生むさまざまなテキストから綴られていくだろう。直四郎の自叙伝から「馬追原野」が編まれていったことを見れば、それは明らかだ。小説や思考が生まれる場所が先行するテキストの中であるならば、その意味でも辻村家資料研究会の仕事は、未来のもと子読者や書き手の大切なリソースとなるはずだ。
かつて「馬追原野」は、戦時下の国策の針路の上で高い評価を得た。そして敗戦後の日本社会にとっても、この小説が呼び起こすものは大きかった。食糧増産に励む農村や、内地から戦後開拓で北海道に移り住んだ家族たちに読んでほしい、という声もあっただろう。
しかしここで立ち止まってみたい。
28歳のもと子が目標としていた、「一削り一削りに力と魂のありったけをこめたスケールの大きい荒削りの木彫のような」作品像に照らすと、時代の文脈にはめ込むだけではこの作品の持つ力は捉えきれない。さらには、38歳の彼女が病床で煩悶していた「たましひのぎりぎりのありかたを、もう一度、謙虚にひとりの人間になつて省み」ることを踏まえると、これを開拓文学という枠組みに押し込んでしまうことも惜しまれる。
なにしろもと子は、デビュー作の「春の落葉」で外山卯三郎を感心させた、「しっとりとした肌ざわりのデリケートな散文詩」までも綴ることができる作家なのだし、遺作となった「風の街」の表題作には、自由を求める美人で奔放な姉に底知れないコンプレックスを抱く妹の、複雑な内面の襞(ひだ)が冷徹に描かれている。「馬追原野」をはじめとしたもと子の作品群を、時代やジャンルのフレームからどのように解放できるか。そしてそこに、ひとりの女性が求めつづけた人間としての強さを見出していくこと。それが現在の僕たちが大切にしたい態度であり、楽しみだ。

最後の作品集となった「風の街」(1946)。日本が多くを失った敗戦直後で物のない時代。デビュー作「春の落葉」(1928)の豪華な装幀と比べると、あまりにも大きな落差に嘆息したくなる