嗚呼、北海道そして
ビュウティフル サッポロ
1924(大正13)年5月19日~23日にかけて第二学生の修学旅行が行われた。賢治が28歳の時だ。「修学旅行復命書」で、現存しているのは、5月20日から21日までの小樽から札幌と苫小牧までである。
一行は、汽車で函館本線から小樽に入る。
午前九時小樽駅に着、直ちに丘上の高等商業学校を参観す。案内に依て各室を順覧せり。(中略)十時半同校を辞し丘伝ひに小樽公園に赴く。公園は新装の白樺に飾られ北日本海の空青と海光とに対し小樽湾は一望の下に帰す。
賢治は、駅から地獄坂を登り、小樽高等商業高校(現小樽商科大学)を尋ねた。取引実習室と商品標本室を見学して、岩手県の農産物の販売や有効な商品化への期待を抱く。
小樽公園で蟹やバナナが販売され、驚いたことにバナナは郷土の半値以下であった。一行は、流通拠点としての小樽を理解する。3時間半の滞在後、札幌に向かった。
その街路の広くして規則正しきと、余りに延長真直に過ぎて風に依って塵砂の集る多き等を観察す。(中略)美しく刈られたる苹果青の芝生に(中略)学生士女三々五々読書談話等せり。(中略)先づ博物館に入る。道産の大なる羆熊の剥製生徒等の注意を集む。(中略)
一同は電車によりて中島公園に至る。途中の街路樹花壇星羅燈影等「ビュウティフル サッポロ」の真価は夜に入りて更に発揮せられたり。
乾燥した快晴の、整然なアカシア並木の道幅の広い街が、賢治の札幌の第一印象だ。札幌駅から南へ400mほど歩いて、北2条西4丁目の停車場通(今の駅前通)に面した山形屋に着いた。荷を解き、植物園に行く。植物園はのどかで、開拓使が作った博物館の剥製に興味を寄せる。夜は希望者で、路面電車に乗り中島公園に、帰りには狸小路の店に寄った。
大通公園からススキノまでの花壇とネオンを見て、活気溢れる札幌を体感する。
麦芽汁スティームによりて六十二度に保たれ二過程に糖化せらる。(中略)今日の農民営々十一時間を労作し僅に食に充つるもの工業労働に比し数倍も楽しかるべき自然労働の中に於て之を享楽するの暇さへ無きもの将来の福祉極まり無からん。(中略)北海道帝国大学に至る。(中略)総長より生徒に対し一場の訓辞あり。(中略)
北海道の風景、その配合の純 調和の単 容易に之を知り得べきに対し、郷土古き陸奥の景象の如何に複雑に理解に難きや、(中略)その配合余りに暗くして錯綜せり。(中略)八時苫小牧に着、駅前富士館に投ず。パルプ工場の煙赤く空を焦し、遠く濤声あり。
翌日、札幌の新しい産業として代表的な工場を見学した。ビールと繊維工場だ。まず、北2条東4丁目にあった札幌麦酒会社に行く。賢治は化学的視野で製造工程を見つめ、最新機械設備と箱詰までの効率的なプロセスに驚いた。次に、北7条東1丁目の帝国製麻工場に向かう。
最後に、北海道帝国大学に行く。総長は、同郷花巻出身の佐藤昌介で、用事を変更してまで会ってくれた。北海道の新しい農業を生徒達に熱く語り、牛乳と菓子をふるまう。
札幌観光を終了し、鉄路で苫小牧に向かう。途中、石狩平野の農場を見た。
十万人を越えていた小樽や札幌と比べ、二万人の苫小牧であったが、東洋一の王子製紙があった。苫小牧駅から南へ200mを歩き、富士館に着く。現在、旅館跡近くの駅前本通りの歩道に賢治の敷石がある。
「修学旅行復命書」は単なる報告書であるが、賢治独自の観察と批評が加わり、大正末期の北海道を、彼の視点から描いた“小説”となる。
近代化に伴う変化は、北海道に顕著に現れる。小樽の商業関連の教育、新興都市札幌の躍動感や苫小牧も含めた真新しい工場、北大総長の西洋式農業の訓示などから、北海道を「新しい日本」として感じとった。
同時に賢治は憂慮する。最新技術の工業と牧歌風の効率的な農場と比べ、岩手の工業は未発達で、封建制が残る農業は旧態依然である。変わらぬ郷土の生活苦を嘆いた。
旅行から、根本的な改革の必要性を感じ、更に解決方法を模索している。
賢治の憧れの北海道の象徴、それが「ビュウティフル サッポロ」である。