理想の大地を探す旅
札幌で五日間を過ごしている間に、若者の間でブームになっていた北海道の開拓や土地の状態についていろいろと尋ね聞いた。札幌農学校の友人や知人たちは、開拓という理想を熱く語った。道庁の調査員が空知川の沿岸を調査していると聞き、土地の払下を求めて空知太を目指した。歌志内に回り、宿屋の主人に土地の案内人を頼むと、14歳の息子を付けてくれた。翌朝、二人は空知川の岸辺へと向かう。
坂を下りて熊笹の繁る所に来ると彼は一寸立ち止まり
「聞こえるだろう、川の音が」と耳を傾けた、「ソラ…聞こえるだろう、あれが空知川、もう直ぐ其処だ。」
「見えそうなものだな。」
「如何して見えるものか、森の中に流れて居るのだ。」
この辺りの土地を熟知している少年には、頭を没するほどの熊笹の道を歩いていても、川の流れは聴こえていた。しかし、独歩の耳には届かない。
歌志内を出発してから、人に出会ったのはたった一人の老人だけであった。
内地では見ることの出来ない異様な掘立小屋に道庁の職員、井田ともう一人が居た。地図を広げて丁寧に説明をし、一区一万五千坪の土地を選定してくれた。
事務手続きが終わり雑談に移ると、彼らは既に独歩の名前を知っていた。高名な文章の書き手であり、小説家でもある独歩は、思いがけない場所で読者に出会ったことに驚く。そして、大木の皮を剥ぎ合わせた粗末な小屋を見て、これが開拓の現実かとさらに驚いた。
「冬になったら堪らんでしょうねこんな小屋に居ては。」
「だって開墾者は皆なこんな小屋に住んで居るのですよ。どうです辛抱ができますか。」井田は笑いながら言った。(中略)「若し冬になって如何しても辛抱が出来そうも無かったら、貴所方のことだから札幌へ逃げて来れば可いですよ。どうせ冬籠は何処でしても同じことだから。」
都会の青白き青年が理想だけで開拓をすることの困難さは、北海道の開拓の厳しさを知っている道庁の官吏には目に見えていた。
独歩はこの辺りを散歩したい思いに駆られて、一人で小屋を出た。見渡す限り両側の森林に覆われた道には人影もなく、生活の煙も見えず、人の話声など勿論聞こえない。ただ深閑として道が横たわっているのみである。林が暗くなったかと思うと、時雨がサラサラと降って来た。来たかと思うと間もなく止んで、また、しんとして林は静まりかえる。この自然の静謐の中で呼吸することだけが、自分が生存していることを感じさせる。
ロシアの詩人は嘗て森林の中に坐して、死の影が自分に迫るのを覚えたと言ったが、実にそうである。死の如く静かなる、冷ややかな、暗き深き森林の中に坐して、此のような不安や脅しを受けないものは誰も居ないだろう。我を忘れて恐ろしき空想に沈んでいた。
その時、
「旦那!旦那!」と叫ぶ声が森の外でした。急いで出て見ると宿の子が立って居る。「最早御用が済んで帰りましょう」
少年の声が死の世界から、現実の生きている世界に、呼び戻してくれた。
その後、帰京した独歩は再び北海道の地を踏むことはなかった。開墾の目的は果たせなかったが、空知川の沿岸の雄大な自然を思い出す度に、何故か生と死に捕らわれた北海道の大自然が、自分を引き付けているように感ぜられるのであった。自然の神秘に触れた独歩は、やがて『武蔵野』の作品へと昇華してゆく。