函館とロシアの深い関わりが見えてくる。

ロシア語看板

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

函館にあったロシア人向け貿易商・両替商の看板。

函館とロシアの外交的な関わりは、ペリー艦隊が箱館港に姿を現した年(1854年)にさかのぼる。ペリー来航の4カ月あまり後、プチャーチン提督率いるロシア軍艦ディアナ号が入港。翌年にはアメリカにつづいてロシアとも和親条約が結ばれ、1858(安政5)年には日本で最初のロシア領事館が箱館に開設された。初代領事は、ディアナ号に乗っていた通訳のゴシケヴィッチだった。
アメリカの場合、箱館に赴任した領事のライスの仕事はもっぱら商業分野に限定されるものだったし、イギリス領事館が開設されたのは翌59年。箱館が最初に深く関わりをもった西洋国は、領事館に政治経済、海軍、科学、医療と幅広い専門スタッフを揃え、軍事から政治経済までを広汎に重視したロシアだった。領事館ができると、ロシア海軍を中心にロシア船の入港も急増する。

1860(万延元)年には、館に隣接していた現在地にロシア正教会の聖堂が建立された(函館ハリストス正教会)。61年(文久元)年にはニコライが赴任して、函館を布教の本拠地とした。ニコライはのちに東京に移り、神田駿河台にニコライ堂(東京復活大聖堂)を創建することになる(1891年)。

領事館の医師ミヒャエル・アルブレヒトは日本人の診療も行い、軍事目的から気象観測にも取り組んでいる。木津孝吉はゴシケヴィッチから洋服の仕立てを、館員ゼレンスキーから写真術を教わった。田本研造や横山松三郎もまた、共にゼレンスキーから写真術を学んでいる。領事館付きの植物学者マキシモヴィッチは、正教徒になった日本人の助手須川長之介を伴って箱館山周辺の植物の採集、調査を進め、須川に植物の研究法を教えた。
のちに写真家・洋画家として名を成す横山松三郎(1838-1884)が洋画術を身につけたのは、ディアナ号入港の際にプチャーチンの部下からだったといわれる。
ロシア語の普及にも力が入れられ、ニコライの前任者イワン・マホフもニコライも、日露の辞書作りに取り組んだ。

ロシアのこうした積極的な姿勢に呼応して箱館奉行所もまた、ロシアへの関わりを志向していく。1861(文久元)年には、武田斐三郎に率いられた最先端の洋学教育機関である諸術調所が日本最初期の西洋型帆船亀田丸を建造して、武田をリーダーにアムール川河口近くの拠点都市、ニコラエフスクに渡った。遠征は、外洋航海術の訓練にはじまり、海洋・地理調査、交易、ロシア軍施設の見学など、幅広い目的をもっていた。
また幕府は1865(慶応元)年、帰任するゴシケヴィッチが乗ったロシア船に若い日本人留学生6名を乗船させた。徳川幕府がオランダにつづいて送り出した、ロシアへの海外派遣留学生だ。箱館奉行所からは、山内作左衛門(箱館奉行支配調役並、30歳)がリーダー格で加わっている。

近世・近代の函館は、豊穣な日ロ関係史の源流に位置されるまちだ。

谷口雅春-text

この記事をシェアする
感想をメールする