全市の3分の2にあたる2万4千戸以上が焼失した1934(昭和9)3月の函館大火。その焼け跡から拾い出されたもの。本来は火事跡のゴミだったものが、博物館に納められ保存されることで、まちの歴史を語るなまなましい資料となった。
三方を風の強い津軽海峡に囲まれ、函館山から亀田半島に伸びる狭い砂州の上に作られたまち函館は、幕末からたびたび大火に見舞われてきた。主なものを上げると、1878(明治11)年11月には900戸が焼け、翌年の12月には2000戸以上が失われた。そして1907(明治40)年8月には、来函して4カ月ほどの石川啄木も焼け出されることになる。このときは西部地区の大部分が被害を受け、焼失戸数は1万2千戸にものぼった。
大火のたびに街区や建物はより強いものに替わっていく。日本初の鉄筋コンクリート造り不燃構造寺院として知られる東本願寺函館別院も、明治40年のこの大火を受けて再建されたものだ。
そして1934(昭和9)年3月。幾多の大火を乗り越えながら当時東北以北最大級の都市として繁栄の途にあったまちを、未曾有の劫火(ごうか)が襲う。海峡に面した住吉町から出た火は市の大森浜側の1万戸以上を焼き、死者は2166人に及んだ。
焼失した主な建物は、官公庁13、学校18、神社寺院16、病医院48、新聞社6、銀行11、百貨店2、劇場10。札幌よりも多かった人口21万人のうちの約半数が罹災者となった。被害は国内外に報道され、皇室をはじめ全国の人々、さらには諸外国から多くの義援金・救援品が寄せられた。
函館市は復興に際して大規模な区画整理や幹線道路の拡幅を行い、防火帯として大きなグリーンベルトを配した都市計画を練る。災害のさいには市民の避難所ともなるように5つの小学校を鉄筋コンクリートで建て直すなど、最先端のまちづくりを実践した。
その中心にいたのは、小南武一。当時第一級の建築設計事務所だった曽根中條建築事務所職員として関東大震災を体験し、請われて函館市役所に移り、長く函館の公共建築や都市計画をリードした建築家だ。
大火からの復興を期して翌1935(昭和10)年からはじまったのが、現在もまちの夏の華である「はこだて港まつり」(8月上旬)。十字街を盛大に練り歩く第一回のパレードの写真を見ると、わずか1年でここまで、とその復興のスピードに驚かされる。往時の函館の産業力と人々のエネルギーがしのばれる。
谷口雅春-text