市立函館博物館によってサイベ沢の本格的な発掘が行われたのは、戦後間もない1949(昭和24)年。函館市出身で函館市北方民族資料館の児玉コレクションでも知られる児玉作左衛門博士や、戦後の北海道の考古学をリードする大場利夫北大講師に率いられ、市内の大学生や中・高校生も参加した大規模な発掘だった。
約19ヘクタールにも及ぶサイベ沢遺跡には、深さ5メートルにも達して7つに区分できる遺物の包含層があった。この40年以上あとに大ニュースとなる、青森の三内丸山遺跡に匹敵する規模だ。
この遺跡調査は、オホーツク文化の代表的な遺跡である網走のモヨロ貝塚や、弥生時代の大規模な水田遺跡である静岡の登呂遺跡などの発掘が進められた、戦後の日本の新たな考古学の最前線だった。
サイベ沢遺跡の代表的な出土品が、縄文時代前期後半の円筒下層式土器と、中期の円筒上層式土器。後者では、口縁部がよりダイナミックに造形されている。
これらを使っていた人々の痕跡は、東北では青森や秋田、盛岡などに見られ、北海道では、縄文時代中期(約5000年~4000年前)には札幌や千歳、江別などが位置する石狩低地帯にまで広がっている。
気候も生物相も異なり、距離的にも大きく離れていた広大なエリアで、なぜ一様に同じ様式の土器が使われていたのか。それはきっと、同じ言語や世界観を共有していたからだろう。海峡を挟んで息づいていた、この時代ならではのコスモロジーの可能性に、想像をめぐらせてみよう。
谷口雅春-text