広大な原野の開拓に夢をかける
山崎由紀子/一道塾塾生
小田原の百姓の4男に生まれた運平は、どうしても百姓がしたかった。北海道の広い土地、広大な未開地にこそ、長年の夢を実現する世界があると、1891(明治24)年の早春、北海道に渡った。無償で手に入れることができるという払下げ地を申し込むために、連日道庁をたずねるが、官吏に冷たくあしらわれるだけであった。1886(明治19)年に土地払下規則が制定された。しかし実情は、有力者の団体移住や資本の大きい開拓事業にはどんどん土地を貸し下げるが、政府の高官や有力者、道庁の官吏たちの紹介でもなければ、個人への土地の斡旋は難しかった。
なかなか払下げが受けられず、時間ばかり過ぎていき焦る気持ちの運平に、札幌の馬具商を営む関谷宇之助から、彼の持っている夕張川付近の馬追原野80町歩を耕してみないかと、話を持ちかけられた。運平は小作人たちを連れて原野に向かい、開墾をはじめた。
開拓地の夜は恐ろしい。得体の知れない獣の不気味なうなり声や、熊の歩き回るような足音に、一晩中眠れない夜もある。どんどん火を燃やし、銃をそばにひきよせたままごろ寝をすることもあった。静かな夜であれば静かすぎて恐ろしく、大きな自然の重圧に押しつぶされそうになる。
朝になると、運平は夢中になって農作業をはじめた。太陽のもとで休む間もなく働き、新しい土の匂いをかぎたかった。
三カ月くらいの間に、ひたすら季節に追いたてられるように植物は成長した。人々は、その成長においつくために、汗みどろになって働くほかは、なにひとつ、考えるいとまもなかった。
馬追原野の開拓は、順調に進んでいった。刈り入れの秋を迎えたころ、上川原野の払下げの知らせが届いて、運平は急いで出願書類を提出した。しかし、待てど暮らせど、返事は来なかった。失望し孤独に陥った時、いつも母への郷愁がこみあげてくる。
「お母さん――」運平は声に出してそういってみた。その言葉は、唇を動かすだけで、なにか心をなでるような、なごやかさがあった。
(中略)郷里の方を向いて端坐すると、いきなり、きっちりと両手をついてていねいなお辞儀をした。
自分を信じて送りだしてくれた母のためにも、早く大きな仕事を成し遂げたかった。12月の初め、運平は札幌に引き上げてきた。何としても自分の土地がほしかった。また、道庁にお百度を踏む毎日が始まった。
そんなある日、道庁の官吏が持っている土地を手放す、という話が耳に入った。馬追原野の隣の幌向原野で、百町歩の未開地である。下見に行った運平は一目で気に入った。貸下げ地ではないが、郷里一村分の肥沃な大地である。すぐに郷里の兄に、土地の購入資金を借りる電報を打った。
1892(明治25)年の早春、荷馬車に農道具一切と僅かな所帯道具を積み込み、運平は開墾地入りを果たした。
「馬追原野」は、現在の長沼町の開拓を手掛けた、父辻村直四郎の詳細な開拓日記をもとに、娘辻村もと子が書きあげた文学作品である。1972(昭和47)年、「馬追原野」の文学碑が馬追丘陵に建てられた。そこから眺める広大な田園地帯は、父が開拓に携わった小説の舞台である。道内有数の米どころとなり、秋には黄金の穂が靡いていたという。だが、国の減反政策は、長沼にも押し寄せてきた。米を作りたくとも作れない、休耕田が目立つようになった。
今、地元の若者たちは、長沼ニューカントリー事業に取り組み、長沼の水と緑と光をテーマに、休耕田に麦や大豆、新種の農産物を栽培している。有機無農薬野菜をファームレストランで提供し、地産地消の独自加工による長沼ブランドを立ち上げた。先人達が切り開いた大地の上に、新たな夢を実現しようと努力している。