昭和10年、女一人旅。
空から見た北海道
「放浪記」で名をなした林芙美子は、新聞社の飛行機で北海道に取材旅行をした。31歳の時だ。飛行機は当時、未知で危険な認識であったが、林は、その企画に真っ先に応募する。
9月2日に上野駅から夜行列車で出発、翌日午後に青森に着いた。13日午前8時5分、青森市西側にあった油川飛行場から飛び立つ。機種は、米スチンソン社製プロペラ単葉機で、搭乗人員は4人。
念のため、財産整理をしての覚悟の飛行だ。せめてものおまじないに臍の上に梅干をくっつけた。
「それッ、あがりますよッ」、操縦士が大声を上げる。初めて乗る林には、起重機でぐんぐん吊りあがって行くように感じた。上空まで上がると、耳が塞がれたようになり、チューインガムを噛む。彼女の云う「飛翔日和」で天候は良好。少しも揺れない。30分ほどで函館に近づく。
「ホラ、函館が見えるぞッ」 操縦士が下を指差した。眉のような地が太くなる。地図を見ると木古内の方へ機が向いて行く。海上では藤の花のような小さい泡をたてて連絡船が走っている。(中略) 川に添って、石板色の暗い村や町や都会が海辺へ向かって廣がって行っている。
函館の景観だ。山は紅葉が始まっている。
当時の飛行場は五稜郭より北側の美原にあった。興奮した多くの市民に出迎えられ着陸。40分後に離陸した。
千百米(高さ)だ、流石に寒い。機は一度雲の中へ這入っていったけど雲から出ると、待ちかまえていた支笏湖の上に出て、ぬうとした樽前の噴火山が右手に鮮やかに首を出して来た。(中略) 何と云っても北海道の景色は悠々としていてせせこましくなくていい。私達は魔法使いにでもなった気で、下界に眼を細めているきりだ。
活火山の樽前山は、半年前に噴火していた。今より活動し水蒸気をさかんに噴出していた。上空からの自然の雄大さがひしひしと伝わる。青森からの滞空時間は約1時間。そして札幌の姿が、眼の前に現れて来た。
月寒や平岸がドイツの田舎のように見える。並木のポプラも楡もまるで葉っぱのようによく繁っていた。(中略)廣くて樹の多い街だと思っていたら、空からの札幌は碁盤の上へカルタを置いたように整然として、樹もあまり見えない。(中略)街を旋回すると停車場が見える。稚内行きの汽車が白い煙を吐いているが、あの曲がりくねった線路をちよいと引き伸ばしたら、早道だからと思える程だ。
去年の夏に汽車で、農場経営している月寒の叔母を訪ねる。林の心に、広々とした森の街の思い出が込み上げるが、札幌の景観は、画一的な人工都市であった。空から見える旭川方向の函館本線は、泥炭地を避け大谷地で大きく曲がり、江別に向かっていた。やがて、札幌飛行場に着陸する。
柔らかい草の上に降りると、とうもろこしの匂いがする。(中略)清澄でにごりのない札幌のいまの季節は、まことに啄木の歌の通りで、此秋の飛行場に、銀翼のスチンソンはまるで白いお嬢さんだ。
当時の札幌飛行場は、東区丘珠ではなく北区北24条あたりにあった。飛行機から降りた彼女は、満足感で一杯。ふと喉が渇いているのに気づき、思わずテント内でビールをごくごく飲んだ。一日滞在し、15日に無着陸で秋田の能代に向かう。
幼少期の林芙美子は、家庭的に恵まれなかった。その時の流浪体験が、彼女の云う「宿命的に放浪者」の原点となり、当時では勇気の要る「女性の独り旅行」に向かわせた。
大正ロマン時代から、好景気と交通手段の発達により、旅行が国民の楽しみとなる。
林は、多くの旅の経験を基に流行作家となった。摩周湖やニセコなどを紹介し、まず外国扱いの北海道に関心を向けさせ、今度は飛行機からである。代表的な二大都市を、空からならではの表現をしたのは、林が初めてだ。
現在、女性の独り旅行もごく普通となる。アジアでは、今や女性の間で、北海道の独り旅が一番な憧れとなったそうだ。