小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第54回

函館水上警察(高城高)

あらすじ

明治中期、函館水上警察署は多くの外国船が寄港する函館港界隈の治安維持にあたっていた。港内に密猟船の西洋人水夫の死体が揚がり、水上署が事件を追う。アメリカ放浪の経験を持ち、洋刀(サーベル)を腰に帯びた五条警部が犯人に迫る。

港湾都市函館を守る

望月洋那/一道塾塾生

中浜町の岸壁そばに建つ水上警察署は、窓を大きく函館港内に向けている。明治24年7月の午後10時前、署内に五条や外勤課長の大内、英語に秀でた加納巡査らがいた。

「今夜は引き揚げるか」と五条が言った時、窓の外、海の方で銃声が一発聞こえた。
(中略)
「ジェルマンの軍艦が二艘入ってたが」と大内が沖に目をやった。「あと、アメリカの汽船が一艘、それからラッコ獲りのスクーネル船が今日入港したがの」

翌朝、港内で英国籍のスクーネル(洋式帆)船、アークテック号の水夫長の死体が揚がる。多数寄港する外国船の中には、密猟船も少なくない。函館税関の臨時検査で、アークテック号からはオットセイの塩漬け毛皮106頭分の密猟が摘発されていた。
アークテック号が揚げたラッコを毛皮加工業者が郊外の加工場で作業している最中だと情報が入り、五条らが馬に乗り急行する。函館の市街地は乗馬禁止だが、町の人に次席さんと親しみを持って呼ばれる五条やほかの署員が馬で駆けるのを人々は何ごとかと見送った。

目の前に大きなラッコの毛皮がぴんと張られ、日が当たらぬよう覆いをした下に陰干しになっていた。(中略)
「このラッコ、検印か税関の証明があるのか」と五条が言った。

毛皮目当てに獲られる海獣のなかでも、ラッコは特に珍重され、オットセイの10倍以上の値が付く。密商の疑いで加工業者ひとりを捕らえたものの、犯罪は市中に波及している。
水上署は、水夫殺害は仲間割れによる船長の犯行と特定するが、外国人への正式な捜査、逮捕権がないため、検事局の西村検事に告発する準備に取りかかる。しかし、告発の直前、船に雇われている米国の保護民、アレウト族のハンターが身代わりとなって函館署に出頭し、アークテック号は出航してしまう。
9月、函館新聞が「色丹島の海岸に密猟船の食塩貯蔵場を発見す」と報じる。そこで塩を積み込んだアークテック号が再び函館港に入った。水上署は24時間体制で船の監視を行い、加納が当番の夜、泳げないアレウト族の若者が船長に船から海へ突き落とされた。
五条たちは、英国領事館のロングフォード領事に事件の経緯を伝え、捜査を強く願い入れる。数日後、領事館の巡邏ルーケスがアークテック号を目指したと聞いて、五条は巡回船、巴丸を出す。船の甲板でルーケスが船長ペイン相手に苦戦しているのを見て取り、代わってたたみかける。するとペインは…。

「女王陛下の国旗を掲げた俺の船の上で、アジア人の警察に侮辱された。これは決闘に値する」(中略)
五条との距離は三間(約五、四メートル)足らずだ。
「よし、いいな、いくぞ」
と声をかけ、ペインは屈むようにしてコルトを滑らせて寄こした。

瞬時に取った五条の行動で、鮮やかに決着が付くのだが、逮捕に至るかは別の話である。
明治時代、函館港には英国を始め各国から船が入港し、街は活気を帯びる。それに伴って問題も発生したが、経済は潤い、異国文化がもたらされた。
昭和27(1952)年、函館水上警察署は、函館西警察署と名称が変更された。現在、函館港に寄港するのは優美な姿のクルーズ客船などに変わっている。だが、130年ほど前には、小規模所帯の水上警察が蒸気船でパトロールし、躍動していた。

八幡坂から港方向へ

函館山から見た函館港


高城高(こうじょう・こう)

1935年~。函館市生まれ。大学在学中の1955年、『X橋付近』でデビュー。北海道新聞社勤務中に数々の作品を発表、日本のハードボイルド小説の基礎を築いた1人と言われる。その後の中断を経て、37年ぶりの著作が本作である。
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