岩﨑真紀-text
vol.9

閑話:「私は演劇人の敵である」…?

タイトルを「私は札幌演劇人の敵である」にしようかと、ややしばし考えていた時期があった。このコラムの連載がweb化するにあたり、立ち位置を明確にしておこうと「web版のための序文」を構想していたときのことだ。が、さすがに好戦的すぎるか? という思いが優勢になり、最終的に「劇評家を待ちながら」を採用した。…いい判断だったと思う。

2015年の終わりくらいまで、私の中では、本来の守備範囲の外側にある演劇の感想といえども「形になった文章を書きたい、文章としていいものを書きたい」という思いが強かった。

だが、演劇作品の感想を記名で書く機会をいただいていると、狭い世界のこと、札幌の演劇人(劇作家・演出家・俳優)と少しばかり話をするような場面も増える。そしてあるとき、「私が書いた感想の感想」を聞く機会があって、自分の文章のいわんとすることが伝えたい相手にまるで届いていなかった! とハッキリと知り、ものすごい衝撃を受けた。

私は、演劇人というものは行間を読むのに長けた人種で、大多数の読み手は通り過ぎるだろう迂遠な表現・微妙な比喩も、必ず読み解いてくれると信じていたのだ。

それは違った。人は他人の言葉に見たいものを見るのだ。あるいは、私の文章にはそもそも伝える力が足りなかった。

そうとわかって以来、こと演劇の感想については「伝える」ということに私は躍起になった。なんとなく感じよく気持ちがいいだけで伝えるべきを伝えない文章は、ただのゴミだ。あるいは麻薬かもしれない。有害だ。
私の演劇に関しての文章はコントロールを失い、より直接的になり、ときに破綻度を増し、チクチクトゲトゲ、人によってはズキッとくるだろう表現が増えた。書き手の浅薄さは剥き出しになり、多々恥ずかしい思いもした。

そうこうするうちに、以前から演劇人と会話しているときに時折感じていた居心地の悪さの正体がわかってきた。どうやら札幌演劇人は、書き手というものは基本的に宣伝になることを書いてくれる、と信じている節があったのだ。

だが「(媒体に許される範囲で)見たもの見なかったものを可能な限り明瞭に書く」と決めたときから、私の手には抜き身の剣があるも同然だ。無防備でいられてはこちらが落ち着かない。木刀を出されるのも困る。
私は演劇人の身内や友人ではない。通りすがりの観客で、例えるなら辻斬りになる可能性のある嫌な存在だ。もちろん、いつでも全力で拍手する用意はある。だが、斬りかかる備えも常にあるのだ。そのことをキッチリ伝えておくのが互いのためではないか、と考えたことが、冒頭のタイトルの構想につながっている。

そこから一年近く、演劇についてさまざまな発信をしてきた。今や私と「無邪気に」仲よくなろうとする札幌の演劇の作り手はいない(と思う)。あからさまな反感を示す人もいる(当然だろう)。会話やメールなどがある人たちからも、無防備さは感じない。プロデュースする立場の人たちとは望んで親しくさせてもらっているが、彼らは作品の感想で気を悪くすることはあっても傷つくことはないし、ビジネスというものを承知している。

これでよし、と思っている。演劇作品の作り手と感想を言う人との間には、緊張感があったほうがいい。「web版のための序文」で書いた通りに。私たちは舞台の上と下とで、互いに一方的な発信をする関係だ。ときに幸運な交差をすることはあるけれど。

立ち位置がおおよそ知られたことで、私自身は演劇人に対して気楽に振る舞えるようになった。本当のことを言うと、親しく交流してみたい人が何人もいる。演劇作品について書かなくなったときにはそうしたい。ただ、そのときには相手にとって私のほうが用なし、鼻であしらわれて終わるだろう。ああ残念。


岩﨑真紀(いわさき・まき)
情報誌・広報誌の制作などに携わるフリーランスのライター・編集者。特に農業分野に強い。来道した劇作家・演出家への取材をきっかけに、北海道で上演される舞台に興味を持つ。TGR札幌劇場祭2014~2016年審査員、シアターZOO企画・提携公演【Re:Z】2015~2016年度幹事。サンピアザ劇場神谷演劇賞2017年度審査員。

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