旭川から一両だけのディーゼル機動車に乗って北へ。塩狩を目ざした。宗谷線の普通列車は、ワンマン運転。北比布(きたぴっぷ)をすぎると田園風景は終わりを告げて、蘭留(らんる)からしだいに山あいに入っていく。勾配がきつくなるにつれ、エンジジンの息も上がった。しばらくあえぎながら、単行列車がようやくひと息つく峠のピークが和寒町の塩狩駅だ。峠といっても、ダイナミックな眺望が開けるわけではない。天「塩」川水系と石「狩」川水系の分水嶺となるこのあたりは、尾根のあいだの川筋をぬって太古からアイヌの人々が行き交ったルートだったという。アイヌ語の「ル」は道の意味だが、ランルとは「下る・道」。天塩川源流域を上り詰めてから上川盆地に下ることにちなむのだろう。逆に旭川のある南の上川側から見ると、塩狩峠は道北の入り口だ。
「塩狩に行ったら塩狩ヒュッテの合田(ごうだ)俊幸さんを訪ねてください」。そうアドバイスしてくれたのは、旭川の三浦綾子記念文学館の難波真実事務局長と長友あゆみさんだ。駅に降りると目に入るのが、塩狩峠記念館の案内サインと、塩狩ヒュッテ。国道からは少し距離があるし、和寒(わっさむ)山のふもとでひっそりたたずむ塩狩駅は、森のほかに何もない、まるで絵本の1ページに描かれたような駅だ。
地元和寒町で生まれ育って名寄工業高校(現・名寄産業高校)と日本工業大学(埼玉県)で建築を学んだ合田俊幸さんは、東京やカナダ(バンクーバー島のログハウスメーカー)、大阪などで会社勤めをしたあと、2012年に夫人の康代さんを連れて和寒にUターン。2013年春に塩狩ヒュッテを開業した。康代さんは大阪の生まれ。大阪で社会人となり、カナダのホテル(ブリティッシュコロンビア州のカムループスやケロウナなど)に勤めた経験もある。俊幸さんの青春は山とともにあったが、同じように山と旅が大好きな康代さんは、交際中に、北海道でユースホステルのペアレント(女将)になることが夢になっていった。国内外からいろんな旅人が来て、たくさんの出会いや思い出を紡いでほしい。だから宿とゲスト間の交わりを重視したユースホステルのスタイルを大切にして、山に熱中したふたりが切り盛りする宿だからヒュッテ(ドイツ語で「山小屋」)と名づけた。縦走を楽しむとき、ヒュッテは目印であり安らぎであり、英気をやしなう大切な場。自分たちの宿もそんな存在になりたいと思った、と俊幸さん。カナダで働いたログハウスメーカーのオフィスの造りを参考にした4つの客室と食堂・談話室などからなる建物の基本設計は俊幸さんで、素材は道産のトドマツが主体だ。
当初合田さんは、ヒュッテの隣接地に大正時代からあって2005年に廃業した塩狩温泉を引き継ぎたいと思った。しかし建物の傷みが激しく規模も大きすぎるので断念。隣接する町有地を借りてヒュッテを建てることにした。和寒町のシンボル的場所である塩狩峠で、地域に根ざしたこれからのモデルになるようなビジネスをしてみたい。かつてにぎわった塩狩温泉がもたらした活気を、自分たちなりにまちにもたらすことができないか。合田さん夫妻はそう願った。
塩狩温泉の建物はしばらく廃屋の状態だったが、2015年に和寒町が土地を買い取って解体した。この一帯をどのように整えていくのか、まちでは、多くの人に開かれた公園のような場にする方向で意見が交わされている。駅のすぐ裏の丘には、地域の集会所も兼ねた「塩狩峠記念館」がある。『氷点』や『塩狩峠』など、旭川から数々の名作を世におくった作家三浦綾子の旧宅を再現して1999年の春に生まれた文学館だ。そして塩狩ヒュッテそばの線路沿いには、かつてこの近くで、身を挺して列車の逆走を止めて命を落とした(1909年2月28日)キリスト者、長野政雄の殉難碑がある。三浦綾子の『塩狩峠』は、この事故史をもとにしたロングセラー小説だ。『塩狩峠』や三浦文学については、回をあらためて考えてみたい。
美しい山あいの駅のそばにある塩狩ヒュッテには、鉄道ファンも全国からやってくる。これからの季節は、バイクで北海道を旅する若者たちも来る。また、若い日々にユースホステルを使って旅を重ねていた熟年層の中には、青春をなぞるように再びユースホステルの旅を楽しむ人たちも少なくないそうだ。
塩狩駅から普通列車で、次の駅である和寒まで行ってみた。『塩狩峠』がモデルにした長野政雄の殉職の現場は、碑の3〜4キロ和寒側に下った場所だ。現在の鉄路は直線化が進んで事故当時のカーブとは違っているのだが、このあたりかなと思われる場所を通過すると、自然に厳粛な気持ちに駆られた。
尖山(442m)をすぎて和寒駅が近づくと、風景は一変する。なだらかな丘陵に囲まれた名寄盆地に広がるおだやかな田園地帯だ。空知の水田や十勝の大平原とはまたちがう趣に、北海道の多彩な表情が再確認できる。日本列島の稲作の北限域でもある名寄盆地の農業景観には、ドラマチックな山容や雄大な遠望とは別の文脈で、開拓以来人と自然が深く交わってきた北海道の素顔があると思う。
和寒からは、折り返して特急で旭川に帰ることにした。ホームに滑り込んできたのは、展望が効く高床のノースレインボーエクスプレスだ。次の停車駅は旭川で、塩狩駅には止まらない。峠の勾配にも気がつかないくらいの快速で、長野政雄が乗った明治末の蒸気機関車がボイラーをフル燃焼させてどんなふうにこの峠を上っていたか、とても想像できなかった。往路旭川から塩狩まで、特急よりははるかに峠のリアリティを感じる普通列車に乗っておいて良かったと思った。
合田俊幸さんの曽祖父は、30歳だった1916(大正5)年に香川県から渡道。19(大正8)年に和寒に移り住んだ。当初は鍛冶の技術を活かして鉄工場の職人となり、ほどなく独立する。開拓の進展とともに農機具の需要が伸びて、家業は順調だった。息子(俊幸さんの祖父)の代には木材の分野にも進出して(現・北産木材工業)、はじめは糸を巻く木管の製造、つぎに割り箸、そして3代目となる俊幸さんの父が経営する現在は、目串、護摩棒、経木などを製造している。合田家の家業は、和寒の大地の恵みと時代の流れそのままに移ろってきたといえるだろう。
地域の多様な営みの軸にあったのは、なんといっても宗谷本線だ。北海道官設鉄道天塩線として、旭川から塩狩峠を越えて和寒まで開通したのが1899(明治32)年。4年後には名寄まで延びて、そこからさらに北へ。樺太の大泊(現コルサコフ)への連絡船と結ばれた稚内港駅(現・稚内駅)の開業は1928(昭和3)年だ。塩狩信号場だった場所は、1924(大正13)年には塩狩駅となっていた。
しかしいま、宗谷本線のうち名寄・稚内間についてJR北海道は、「単独では維持困難」だと表明している。沿線の自治体群は協議会をつくって同社と対策の議論をはじめた。
鉄道網の維持を目先の採算や消費経済の枠組みだけで考えて良いのか。鉄道を、社会を持続的に保守していくための共通資本としてとらえなおそうとする議論がはじまっている。鉄路は警察や消防のような社会基盤ではないのか。基本的人権のひとつに移動の自由(交通権)を据えて、それを社会全体で担っているフランスのような国もある。この半世紀、自動車道路に膨大な公共投資が行われたのに対して、新幹線以外の鉄路にはいったいどれほどの公共投資がなされたのか——。そんな声が交わされている。地域の自立的な営みは、その土地の歴史風土を通してはじめて成り立つものだ。だから問われているのは単に歴史を守ったり、あるいは捨て去ることではなく、未来に向けて土地の意味を読み替えていくことだろう。
そうした文脈で北海道の近未来の構図を描くとき、俊幸さんたちの塩狩ヒュッテは、鉄路を軸に地域の価値や成り立ちをあらためて外に向けて開いていこうとする、とても象徴的な場所に見えてくる。
塩狩ヒュッテ
北海道上川郡和寒町字塩狩503番地2
TEL:0165-32-4600, 090-1963-3524
E-mail: shiokari.info●gmail.com ※メールアドレスをご利用の場合は●を@にしてください