永山武四郎と旭川-1

永山武四郎と、“旭川人”気質

嵐山から旭川市街を望む(提供:旭川市教育委員会)

近代都市・旭川誕生のきっかけをつくった、岩村通俊と永山武四郎。とくに永山は、旭川のまちの精神性と深く関わる役割を果たしていく。近現代史がご専門の、旭川市博物館 岡本達哉学芸員にお話を伺いながら、旭川のまちと、そこに生きる“旭川人”の気質について考えてみた。
柴田美幸-text

旭川の「へそ問答」

「こんな話があったことを知っていますか」。
旭川市博物館の岡本達哉学芸員が、1冊の古い本を見せてくれた。昭和30年代に旭川市史を編さんしたときのこぼれ話を収録した『旭川市史小話』という本だ。そのなかに「道庁を旭川へ」というタイトルの話があった。
1909(明治42)年、札幌にある北海道庁の建物が全焼したとき、旭川町(当時)の町議会では「これを機に道庁を旭川に移そう」と盛り上がり、移転運動へと発展する。旭川は北海道のへそにあたる、つまり北海道の地理的な中心都市は旭川だから道庁があってしかるべき、というわけだ。だが、「人間のからだを動かすのは頭でへそではない。中心にあってもなんにもならない」という札幌を中心とする反対派に、移転派はあえなく敗れた。――実話かどうか定かではないが、この「へそ問答」と呼ばれる小話には、旭川の人の、郷土意識の本質が垣間見えると岡本さんは言う。「地理的にというだけでなく、旭川が北海道の中心都市になる“はずだった”、という意識を根底に持っているのが“旭川人”ではないでしょうか。その意識は岩村通俊、そして永山武四郎と、深く関わっていると思うのです」。

「国見」に込められた意味

旭川市北西部の石狩川沿いに整備された嵐山公園には、223メートルの近文(ちかぶみ)山がある。1885(明治18)年、司法省大輔(たいふ)・岩村通俊(のち道庁初代長官)と、屯田兵本部長・永山武四郎(のち道庁2代目長官を兼務)ら一行が、その山頂から上川盆地を眺めた。そのころ一帯は上川と呼ばれる原野だったが、広い土地と山河豊かな自然環境、そして交通面から、上川盆地の開発に可能性を見出したと伝わっている。岩村が記した「上川紀行」によると、「皆曰(いわ)く、何ぞ甚(はなは)だ西京(※京都の意)に類するや。是(こ)れ実に我が邦(くに)他日の北都なり」。つまり一行は、上川の地は京都に似ており北の都にふさわしい印象を持ったという。このできごとは「国見(くにみ)」と言われ、頂上に建立した「近文山国見の碑」と呼ばれる漢詩を刻んだ碑文が今も残る。

「国見」とはなんだろう。日本では神話の時代から、時の権力者が土地を高いところから眺め、その土地を褒めて国として獲得したことを示してきた。権力者とは天皇を指す。万葉集の舒明(じょめい)天皇による国見の歌に見られるように、国見は天皇による国造りのイニシエーション(儀礼)としてあった。
実は、岩村や永山自身が「国見」という表現をしたか、定かではない。岡本さんは「彼らは軍人であるとともに一流の知識人であり、国見の意味を知らなかったはずがありません。ましてや、上川を巡見したのは天皇の命ではなく、太政官(当時の国の最高機関)の代理としてなので、自ら国見と言ったとは考えにくいと思います」。しかし、いつしか「国見」として語られてきたことに意味があるのではないか、と指摘する。
岩村と永山に先立つ1869(明治2)年、開拓使判官(はんがん)・島義勇(よしたけ)も、原野だった札幌の地を円山の丘から眺め、「府を開くべし」という漢詩を詠んでいる。額に手をかざし、丘の上から札幌を眺める島の銅像が札幌市役所のロビーに佇んでいるが、このエピソードも「国見」を想起させる。「旭川と札幌は、まちづくりの構想に京都のなりたちを重ねた点で共通している」と岡本さんは言う。
ちなみに、岩村と島は開拓使判官として元同僚であり、島が判官を解任され札幌を去ったあと、岩村が島の構想をもとに札幌のまちをかたちづくった。2つの都市の起源は、実はよく似ていると言える。

旭川市博物館学芸員の岡本達哉さん。
明治〜現在の、おもに旭川地域の民俗や伝承などについて調査・研究を行っている

離宮と中心都市・旭川

ところで、岩村と永山には、東京・京都(西京)に並ぶ北京(ほっきょう)と、北海道開拓の中核機関である殖民局を上川に設置するという大構想があった。そのくわしい経緯と顛末については他稿(「薩摩と北海道、そして屯田兵」)に譲るが、岩村は二度にわたって建議書(政府への意見書)を提出している。結局、1886(明治19)年に殖民局は北海道庁として札幌に置かれたわけだが、北京の夢を引き継ぎ、より具体的にしたのが永山武四郎だった。
岩村の後任として北海道庁長官に就いた永山は、1889(明治22)年、岩村から数えて三度目の、北京の上川設置を求める建議書を提出する。すると、北京としては許可されなかったが、離宮として造営することが閣議決定された。この大ニュースは新聞でも報じられ、全道各地から離宮造営費の献金が集まったという。
離宮予定地に認定されたことが、本格的な上川開発の求心力となったのは間違いない。1890(明治23)年9月、旭川・永山・神居の3村が開村。これが現在の旭川市の基礎となる。翌年(明治24)には永山村に屯田兵村が設置され、明治30年代に入ると鉄道の開通や第七(しち)師団の設置によって急速に発展した。
「上川から旭川になったのは、3村が開かれた明治23年と言っていいでしょう。離宮予定地になったことが、へそ問答にあらわれたような『北海道の中心都市になる“はずだった”』という意識につながっていると思います」と岡本さん。実は、東北や北海道に北京を設置する論議は、明治に入ってからたびたび持ち上がっていた。「未開の国土」を天皇によって開くという古来の発想である。島義勇は、札幌を北京として避暑行宮(あんぐう)の地とする構想を持っていたとされる。この点でも旭川と札幌はよく似ているが、札幌は北海道庁が置かれ中心都市となっていった。しかし、離宮が置かれ天皇が御座(おわ)す地は旭川だったはず、という強烈な中心意識が、今もまちの奥底に流れているのかもしれない。「国見」という表現が現在まで使われるわけも、ここにありそうだ。

旭川市博物館に展示されている明治27年の屯田兵屋「改造願書」

永山武四郎に見る、まちの起源と記憶

「永山」という村名が付けられた経緯にも、その一端を垣間見ることができる。3村のうち「永山」という村名は、永山武四郎の功績を認めた明治天皇によって、その姓をとり命名したらよいと言われたのが由来とされるが、天皇命名というストーリーこそが「まちの起源」として重要だったのではないかと、岡本さんは考えている。
「旭川は複数の地域が合併してできたまちです。永山武四郎にゆかりの屯田兵や第七師団の地であると同時に、独自の経済圏を築いた商人や華族の大農園があった地であり、それよりずっと以前からアイヌの人々の地としてあるのです。このように多様な要素がありながらも、旭川のまちを語るときには明治23年を起源として永山武四郎と屯田兵、第七師団へと集約されていきます。それは旭川の人が『まちをこう考えたい』という思いを、永山に投影して見ているからではないか、と考えます」。
つまり永山武四郎が体現しているのは、中心のイデオロギーなのだろう。国家の中央から直接やってきた岩村や永山、そして天皇の存在は、郷土のバックグラウンドとして重要だった。その記憶がまちの誇りにつながり、起源のよく似たまち・札幌への対抗意識として表れることもある。
1908(明治41)年、旭川を訪れた石川啄木は、浴場で「旭川は数年にして屹度(きっと)札幌を凌駕(りょうが)する様になるよ」と話す人に会う。啄木が旭川の戸数を聞くと、六千あまりはあると答えた。『雪(せつ)紀行』という随筆のなかのエピソードだが、明治40年前後の札幌の人口は7万人近くで、旭川の約3倍だった。それでも旭川は札幌をいつか追い越す、という意識が根付いていたのである。

中心から独自性へ

「旭川の人はあまり自覚的ではないかもしれませんが、よく、旭川には独自の文化があると言われます。著名な実業家や、文学者、アーティストを輩出し、旭山動物園のように革新的なことにチャレンジするなど、新しさやオリジナリティを求める気質が強いのかもしれません。かつて岩村や永山のような知識人が、札幌を経由せず、直接中央から旭川へ文化を持ち込んだこともあり、中心になる“はずだった”という都市のメンタリティとして、独自性を求めるのかもしれません。なりたい、ではなく、なるはずだった。この違いが重要なんです」。
そう話す岡本さんは、一編の詩を暗唱してくれた。

こゝに理想の煉瓦を積み
こゝに自由のせきを切り
こゝに生命の畦をつくる
つかれて寝汗掻くまでに
夢の中でも耕やさん

旭川ゆかりの文学者・小熊(おぐま)秀雄の詩「無題」の一節である。プロレタリア詩人として生きた小熊は、いわゆる中心のイデオロギーからもっとも遠いのかもしれないが、「小熊秀雄賞」が設けられるほど旭川の人々に愛された。これも“旭川人”のもうひとつの姿なのだろう。その詩碑は、人々が暮らすまちの中にたたずんでいる。

旭川市博物館が入る、大雪クリスタルホール
(提供:旭川市博物館)

永山武四郎に関する展示がある地階展示室

旭川市博物館
北海道旭川市神楽3条7丁目
TEL:0166-69-2004
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:第2・第4月曜(祝日の場合は翌日)
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