永山武四郎とは-2

薩摩と北海道、そして屯田兵

西南戦争錦絵「鹿児島暴徒出陣図」(大蘇芳年作・明治12年/所蔵:鹿児島県立図書館)。鹿児島県立図書館のサイトには「西郷軍を賊軍・逆賊と書いていますが,錦絵の主人公はあくまでも西郷軍です。これは厳重な検閲制度を通過するためのもので,当時の庶民の人気は西郷軍にあったようです」とある。

明治初め、北海道の開拓に深くかかわったのは薩摩閥だった。永山武四郎もまた薩摩の人だった。屯田兵の大隊を率いて薩摩の士族と戦い、敬愛する西郷隆盛を失った武四郎は、その二十数年後、東京で亡くなる。彼の遺体は郷里への南下ではなく、守り抜くと決めた地へと北上した。
平野友彦-text

永山武四郎の功績

永山武四郎は、明治36年12月に貴族院の開院式に列席後、病状が悪化し危篤状態に陥った。これを受け、翌年4月、内閣総理大臣桂太郎は武四郎の功績を称え、特旨をもって位一級を進め、従二位に叙すことを上奏し、裁可された。この従二位勅授の辞令交付に際し、武四郎は病床の身を起こし正座低頭して拝受し、この恩を謝すとともに、家族に天皇への忠誠を諭したという。この後、昏睡状態となり5月に逝去した。
ここで称えられた功績とは、軍人として、明治4年の陸軍大尉任官以来、陸軍中将にまで上り、その間に、開拓使諸官や北海道庁長官を務め、終始一身を北海道事業に捧げ、軍事や開発に尽力して顕著な成績を上げ、西南戦争や日清戦争に貢献したことであった。
『北海道のいしずえ四人』(高倉新一郎監修、昭和42年刊)という本がある。四人とは黒田清隆、ホーレス・ケプロン(米国農務局長、明治4年開拓顧問)、岩村通俊(土佐藩、明治19年初代北海道庁長官)、永山武四郎である。高倉はこの四人を、北海道開拓に対する熱情、仕事において比類なき人物と評し、この本に序文を寄せた北海道知事町村金五は「(北海道)黎明期の偉材」と称した。
 

開拓行政と薩摩閥

永山武四郎は何故、こうした功績を残すことが出来たのであろう。それは、彼が薩摩藩出身であったからである。開拓使は、その官僚が薩摩閥によって独占され、特に、薩摩藩出身の黒田清隆が開拓次官のち長官として開拓使の実権を握って以降は黒田王国とも呼ばれていた。実際、当初は少なかったが、明治8年以降は、開拓使官僚の奏任官以上の約半数が薩摩藩出身者で占められていた(『新北海道史』第3巻通説2)。

札幌の大通公園10丁目に建つ黒田清隆像(手前)。奥はホーレス・ケプロン。『北海道のいしずえ四人』に数えられた二人が並ぶ。

永山はこの黒田の直系として、明治5年以降、開拓使内に活動の場を得た。北海道行政を薩摩閥が占める状況は、北海道庁初期まで続いた。明治21年6月、永山は屯田兵本部長のまま北海道庁長官に任じられたが、これは、同年4月に黒田清隆が内閣総理大臣に就任したことに起因するという。
しかし、永山は黒田のイエスマンではなかった。こんなエピソードがある。明治13年、黒田は永山邸新築の祝宴に招かれた。しかし、洋室が一つだけで他はすべて和室であった永山邸を見て、黒田は宴席に着かず、苦言を呈して帰ってしまった。苦言とは、自分は日ごろ、寒国の北海道では寒中でも薄着で仕事ができる洋室でなければ、開拓の実は挙がらないといってきたが、上に立つ者はそのことをよく考えるべきであると。永山はこれに閉口したという(『よみがえった「永山邸」屯田兵の父・永山武四郎の実像』)。北海道開拓を米欧式の農法や産業を導入して進めていた黒田には許せなかったのである。

 

西郷隆盛と永山武四郎

現在、NHK大河ドラマ「西郷どん」が放映されている。主人公は、明治維新の立役者で、藩閥政府内で薩摩閥の巨頭として重きをなした西郷隆盛である。この西郷も永山には一目置いていた。戊辰戦争での軍功、陸海軍の編制方針をめぐる論争で、長州藩出身者が主張するフランス式に破れたものの、薩摩藩が採用していたイギリス式の論陣を張ったこと、また、その実直な性格が西郷を引きつけたのであろう。
論争に破れた後、永山は北海道開発に挺身する意志を固めた。これを知った政府は、明治5年9月に永山を開拓使八等出仕に任じ札幌在勤を命じた。北海道出発に当たり、西郷は永山に実行人にありがちな「独断断行」を戒め、また、永山の補佐役として随行する家村住義に対して、「功は永山に譲り、過失は自分の責任にせよ」と諭したという(『男爵永山将軍略伝』)。

 

屯田兵の創設

屯田兵とは、「且つ耕し且つ守る」という兵農兼備の特異な兵制である。明治6年11月、永山ら開拓官吏の進言に基づき、開拓次官黒田が右大臣岩倉具視に建議して創設された。
永山は、明治11年、第2代屯田事務局長に就任し、以後、18年屯田兵本部長、22年屯田兵司令官、29年第七師団長を歴任した。師団が設置されると、屯田兵団は解消され、屯田兵は歩兵などと並ぶ一兵種として、師団長の指揮下に入った。第七師団長の任務には、他師団にはない「屯田兵ノ徴募補充」、「開墾耕稼」が加えられた。31年には北海道一円に徴兵令が施行された。ここに32年を以て屯田兵の募集が中止され、37年に屯田兵条例が廃止され、屯田兵制は終焉を迎えた。


屯田兵屋とその平面図(所蔵:旭川市中央図書館)

屯田兵の創設には西郷隆盛も深く関わった。西郷は参議として、中央軍制が未発達の中で北海道防衛をどうするか、廃藩置県によって疲弊した士族をいかに救うかを思案していたが、その中で、北海道に鎮台を置き、鹿児島士族を屯田兵として配置するというアイディアを抱き、しばしば黒田にはかったという(前掲『新北海道史』)。また、西郷は屯田兵創設を開拓使官吏となっていた永山にはかり、永山は北海道と国家の現状に照らせば、屯田兵は時宜に適ったものとし、それを黒田に進言したという(『北海道屯田兵制度』)。

道内37カ所に入植して、屯田兵村が拓かれた。今も各地にその記憶が残されている。江別市野幌にある「屯田歩兵第三大隊 第二中隊本部」


北見市の信善光寺に置かれている屯田兵人形。一体ずつ本人を模写して作られている。下の写真は人形のモデルになった本人と思われる人や縁者たちが、その人形を手に撮影されたもの(撮影年不明)。

西南戦争と屯田兵

明治6年、征韓論に破れた西郷は参議を辞めて鹿児島に帰った。鹿児島県(旧薩摩藩)は維新後も士族の力が強く、政府の方針にたびたび反発していた。帰郷してから西郷が開いた私学校は、やがて反政府勢力の拠点となった。西郷はこの勢力の働きかけに抗しきれず、明治10年2月、ついに鹿児島士族を率いて、鎮台がある熊本城の攻略に向かった。
政府は各地の鎮台兵を動員するとともに、屯田兵にも動員を命じた。琴似・山鼻二兵村を以て一大隊が編成され、大隊長には永山准陸軍少佐が任じられた。陸軍中将黒田開拓長官も征討参軍として参戦した。屯田兵大隊は4月に熊本県に上陸し、別働隊第二旅団に編入され、5月から8月にかけて激戦地を転戦、9月、札幌に凱旋した。

屯田兵大隊は幹部の多くが薩摩藩出身で、西郷とも関わりがあり、複雑な思いでいたが、兵員は戊辰戦争で西郷が指揮する薩摩軍に敗北した東北諸藩の士族であり、薩摩士族から成る西郷軍への敵愾心は旺盛であった。
永山は西郷に恩義を感じながらも、屯田兵の指揮官として、作戦を率先遂行し、「国家に捧げた身体である」として過ちなきことに努め、凱旋するまで酒を断ち、一日も草鞋(わらじ)を脱がなかったという。後年、永山を補佐した家村陸軍大佐が病床の永山を訪ねた時、末期を悟った永山が大佐の手を握り、日露戦争勝利の情報を冥土の土産として「大西郷に伝えたい」が、その終局を知り得ないのが唯一の心残りだといったという。西南戦争後も、永山の西郷への思慕は終始変わらなかったのである。

 

開拓政策の転換と道庁長官永山武四郎

明治19年1月、三県一局が廃され、北海道庁が設置された。初代長官は岩村通俊(旧土佐藩)であった。開拓使、三県時代を通じて行われた開拓政策は十分な成果を上げられなかった。北海道庁には、これを反省し、実効性ある開拓の実施が求められた。岩村は、これまでの厚い保護を前提とした移民政策を改め、本州から資本家や資力のある移民を誘導するため、国有未開地払下げの規制を緩和し、殖民地撰定事業や鉄道・道路などの基盤整備事業に努めた。
明治21年に岩村を引き継いだ永山長官(~24年)は、政府の要請に応えるとともに、拓殖の進展に努めた。取り組んだ主要な政策として、北海道官有地の御料地編入(宮内省要請)、屯田兵の大増強、囚人の使役による道路開削の拡充、上川離宮設置などをあげることができる。これらの政策は一定の効果を上げ、移民は急増し、年平均移民戸数は、明治14年以降は1000戸であったものが、18年以降は2500戸、22年以降は4000戸に伸びた(『北海道の百年』)。

 

上川北京論の提唱

明治22年11月、永山は北海道庁長官の名で政府に、上川に北京を設定すべしとする建議を行った。これまで拓殖事業の進展が見られないのは、国民が北海道を忌避して移住を欲しないからであり、この一大障害を取り除き人々の心を北海道に向けさせるには、北京を北海道に設定する外はなく、その設置場所は、全道の中央で、広い肥沃な土地がある上川が最適であるというのが、その趣旨であった。ほぼ同時に、宮内大臣からも同趣旨の建議がなされ、永山の上川北京論が宮内省の支持も得ていたことがわかる。
北京設置は法制局の反対で否定された。しかし、明治22年12月、閣議の計らいで上川離宮としての設置が裁可され、永山長官に通達された。その後、離宮予定地は現在の旭川市神楽岡丘陵に選定されたが、結局、札幌住民の反対などにより実現はしなかった。現在、上川離宮予定地の碑が上川神社境内に建っている。

旭川市の近文山に建つ「国見の碑」。明治18年、岩村通俊と永山武四郎ら一行が、山頂から上川を一望し、この地の可能性の大きさから「北京」の必要性を政府に説いたと言われている。(提供:旭川市教育委員会)

この上川北京論は、岩村通俊も明治15年、18年の2度政府に建議している。18年の建議は、永山とともに上川に至り、近文山から上川盆地を一望した後に出された。永山の北京論はこれを引き継いだものであった。岩村は、上川に北京を置き、そこに大挙移民を集め、そこを拠点として北海道開発を進めることを主張した。
永山の上川北京論は実現しなかったが、明治32年、札幌に置かれていた第七師団が旭川に移駐することになった。師団の兵員は1万人近く、その移駐は、北京設定にも匹敵するもので、永山は師団長としてこの決定を聞いた時、万感の思いがあったであろう。

平野友彦

1952年生まれ、静岡県出身。北海道大学文学部史学科卒業、北海道大学大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程退学。旭川工業高等専門学校名誉教授

この記事をシェアする
感想をメールする
ENGLISH