冒頭、わたしは旧永山武四郎邸を「北海道開拓史において特別」と表現した。
ひっそりと佇むその外観から、「それはちょっと大げさでは…」と思った方へ、説明したい。
旧永山邸が建築されたのは、1877(明治10)年代前半のこと。
“屯田事務局長(当時)・永山武四郎が、札幌に家を建てた”。――このニュースは、おそらく驚きとともに、道内を駆け巡っただろう。
なぜなら、本州から赴任する開拓使の役人には、住まいが用意されていたからだ。たとえば、旧永山邸と同時期に建てられた官舎「旧開拓使爾志通(にしどおり)洋造家」(俗称・白官舎)は、北海道開拓の村に復元展示されている。
そうした中、永山は札幌に土地を購入し、(もちろん自費で)家を建て、家族で住んだ。後に第2代北海道庁長官を務め、1904(明治37)年に亡くなるまで20年余りの間、生活の拠点としたわけだ。
その暮らしぶりを、永山の三男・武美はこう回想している。
(前略)私の生家にきて、明治三十五年夏まで父といっしょに寝た八畳間で休み、感慨深いものがありました。(中略)父はこの家から屯田兵司令部や道庁に出勤していたのです。
(共同文化社発行『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』の〈「永山町史」第四編 屯田〉からの引用より)
札幌に自邸を建てる。それは、“北海道人”として生きようとした、彼の決意の表れだろう。
しかも、その場所は、北海道庁赤れんが庁舎に始まり、日本人初のビール工場・開拓使麦酒醸造所(現・サッポロファクトリー)などが建ち並ぶ「札幌通」(現・北3条通)に面していた。北海道開拓を象徴するスポットに、堂々と構えるこの邸宅を、人々は尊敬のまなざしで眺めたに違いない。
そして、振り返ってみれば、歴代の北海道庁長官32人中、札幌に家を残し、墓を建てたのは、永山だけだった。この事実が、旧永山邸の存在感を、今なお高めているように感じるのである。
さて、改めて旧永山武四郎邸を眺めてみよう。
…お気づきになりましたか。『札幌繁栄図録』の絵図との違いを。
実は、現存する旧永山邸は、かつてあった建物の一部なのだ。
絵図では、西側(絵図右)にある寄棟屋根の主棟から、切妻平屋の家族用の従棟(絵図左)が北へと大きく続いているが、この従棟部分はもうない。代わってそびえるのは、三菱鉱業株式会社の社員寮「旧三菱鉱業寮」である。
旧永山邸と旧三菱鉱業寮。隣接しているのに、外観がこれだけ異なるのは、造られた時代が違うから(※詳しくは下記の年表を参照)。今回のリニューアルでは、旧三菱鉱業寮側にカフェや多目的スペースが設けられたのだが、それは次回紹介するとして、ここでは旧永山邸の特徴や見どころを探りたい。
「一番の魅力は、和洋折衷がダイレクトにつながっている点ですね」と話すのは、NPO法人歴史的地域資産研究機構(れきけん)代表理事の角幸博氏。
“和洋折衷がダイレクトにつながる”とは、どういうことか。それは、中に入れば一目瞭然。
き、奇抜!? そこまで珍しい造りとは…と、ここでふと、疑問が生じた。
開拓使は明治期、ロシア風の寒地住宅を導入しようと試みていたはず。実際、開拓使長官だった黒田清隆は、新築の永山邸に洋室がひとつしかないことに苦言を呈した、という逸話も伝えられている。
角先生、永山が自邸に和風をここまで取り入れた理由を、どうお考えですか。
「これは私の想像ですが、永山は『すべてを洋風にするのは無理がある』と考えたのではないでしょうか。たとえば、洋風建築の官舎は、玄関がなく、扉の先は廊下でした。これは、“靴を脱がない”という生活様式が基ですが、実際は在来の風習から靴を脱いでいました(笑)。『これはまずい』と永山は思ったのか、永山邸には玄関があり、式台も設けられています」
「生活には“和”が必要。けれど、上司の黒田が言うとおり“洋”も必要だった。それをどう取り込むか考えたとき、当時としては、どうしていいか分からないわけです。であれば、ダイレクトにつなげよう! という考え方が、現代からすると、新鮮な建築要素になっているといえます」
なるほど。一見“奇抜”な和洋折衷スタイルは、時代が生んだ大胆さ、とも受け取れる。
旧永山武四郎邸を訪れたら、注目してほしいポイントがもうひとつ。
応接室の天井を見上げてほしい。
これは、「メダイヨン」や「メダリオン」などと呼ばれる中心飾りで、照明器具の釣り元に施された、浮き彫り装飾された台座だ。旧永山邸のそれは、モミジが模られている。
この中心飾り。なんと、札幌市内にある、ほかの歴史的建造物2カ所にもあるのだ。
それは、豊平館と清華亭。
実際に足を運んでみると、本当にそっくり!
中心飾りだけではない。特に清華亭は、外壁の意匠や建築様式などが旧永山邸とよく似ている。
これら共通点から、「旧永山邸は(2施設と同じ)1880(明治13)年に建築されたのではないか」という調査報告が、1985(昭和60)年にまとめられている(※「よみがえった『永山邸』 屯田兵の父・永山武四郎の実像」より)。
調査団のメンバーでもあった角氏いわく「設計資料が残っていないので確かな証拠はありませんが、おそらく間違いないでしょう。当時は開拓使の絶頂期。開拓使の優秀な技術員が永山邸建築をサポートしたと考えると、小さい建物ながら、どこにも隙がない見事な造りにも納得です」
そして、角氏はこう続けた。
「旧永山邸は、私邸なのであまり研究が進んでいませんが、もしかすると、開拓使の中で重要なポジションにある建物なのかもしれません。(開拓使の象徴である)五稜星がないだけで…」
ちなみに、この中心飾りは、“伊豆の長八”系の左官職人によるものとか。
伊豆の長八とは、江戸末期から明治にかけて活躍した伊豆の名工・入江長八のこと。彼の浮彫りは、漆喰装飾の一技法だった鏝絵(こてえ)を芸術の域にまで高めたと評判を呼んだ。当時、明治天皇北海道行幸のため、洋風ホテル(豊平館)を建てようとした開拓使が、特別に職人たちを招いたのだそうだ。
旧永山邸から豊平館、清華亭へ。
たったひとつの装飾から、想像は広がってゆく。
というわけで、いよいよ6月23日(土)、新装オープンする旧永山邸。
次回7月4日(水)は、旧三菱鉱業寮を含む新たな楽しみ方を伝えたい。どうぞお楽しみに。
▼明治10年代前半 ※1880(明治13)年との推定もあり | 永山武四郎が私邸を建設 |
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▼1904(明治37)年 | 永山逝去 |
▼1911(明治44)年 | 三菱合資会社が炭鉱開発の調査本部とするため、旧永山邸の土地・建物を一括買収。その後、三菱鉱業株式会社が所有 |
▼1913(大正2)年 | 敷地のうち約313坪を道路用地として札幌市に寄贈 |
▼1937(昭和12)年頃 | 建物北側を解体し、三菱鉱業寮部分を増築。旧永山邸部分は貴賓室として使用 |
▼1985(昭和60)年 | 市街地再開発事業の一環として、札幌市が敷地を取得。旧永山邸及び旧三菱鉱業寮は寄贈。周辺環境の整備、邸宅の修復・修繕工事を開始 |
▼1987(昭和62)年 | 旧永山邸が北海道有形文化財に指定 |
▼1989(平成元)年 | 旧永山邸の一般公開を開始 |
▼1990(平成2)年 | 永山記念公園設立 |
▼2005(平成17)~2006(平成18)年 | 旧永山邸の大規模な保存改修工事を実施。可能な範囲で復元し、建築当時の姿に戻した |
▼2017(平成29)年 | 旧三菱鉱業寮の保存改修工事を実施 |
▼2018(平成30)年 | 6月23日、新たな歴史観光文化スポットとしてリニューアルオープン |
札幌市旧永山武四郎邸及び札幌市旧三菱鉱業寮
北海道札幌市中央区北2条東6丁目
TEL: 011-232-0450
開館時間:9:00~22:00(貸室は21:00まで、カフェの営業は11:00から)
休館日:毎月第2水曜日、年末年始
入館料:無料
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