野付半島から根室海峡沿いを北上する。知床半島の付け根にあたるまちが標津町だ。基幹産業である漁業のなかでも秋鮭漁は全国有数の水揚げ量を誇り、“鮭のまち”として知られている。
根室海峡沿岸には鮭が遡上する川が幾筋も流れている。なかでも、はるか昔から鮭を求めて多くの人々が集まったのが、現在の標津町だ。町内には約1万年前の縄文時代から擦文時代にいたる竪穴住居跡が、川の流域を中心に約4400見つかっている。寒冷な気候が有機物の分解を遅らせ、竪穴のくぼみが埋まらずに形が保たれて、日本最大の竪穴群として残された。これらは「標津遺跡群」と名付けられている。特徴的なのは、どの時代の竪穴跡からも多くの鮭の骨が見つかっていることだ。鮭の利用を重視した集団が、1万年近くにわたって標津の地に暮らしたことを物語っている。
標津町ポー川史跡自然公園内にある国指定史跡「伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡」は、標津遺跡群の中心的な遺跡だ。標津湿原の奥の、小高くなった段丘上の森の中に縄文から擦文の竪穴住居跡がくぼみとなって残っている。その数は確認できるものだけで約2500と、見つかった竪穴跡の半分以上がここに集中している。公園内ではその一部分を見ることができる。
伊茶仁とはアイヌ語でイチャン(鮭が産卵するところ)が由来とされる。遺跡のある段丘に沿って流れるポー川は、根室海峡に注ぐ伊茶仁川の支流で、遡上した鮭の産卵に適した場所だった。縄文文化の竪穴跡などからは、約6000年前の縄文前期から中期、晩期、そして続縄文時代以降にもサケ科魚類の骨が出土している。標津遺跡群の縄文遺跡の調査では、出土した食料の遺物の約7割をサケ科の魚が占めていた。
ポー川史跡自然公園学芸員の小野哲也さんは、「ほかの縄文遺跡では様々な食べ物のごく一部として鮭が出ることはありますが、鮭主体で見つかることは少ない」と言う。同じように鮭をおもな食料としていた、札幌など石狩川下流域では5割ほどなので、標津が突出して多いことがわかる。
近年、約500年前のアイヌ文化期の遺跡から出土したサケ科魚類の骨に対してDNA分析を行い種の判別を行ったところ、ほとんどがシロザケだとわかり、秋に遡上する鮭を捕っていたことが明確になった。しかし、アメマスやサクラマスなど春にいるサケ科の魚は不思議と見つかっていない。なぜ秋以外の季節には捕らなかったのか、疑問が残る。小野さんは、「シロザケばかりなのは、秋の鮭漁の時だけ標津に人が集まっていたからではないか」と考えている。
根室海峡沿岸の根室や羅臼などのまちにもそれぞれ多くの遺跡があるが、鮭の出土はそう多くない。鮭が豊富にいたはずの地域でありながら、ほかの遺跡周辺ではあまり捕っていなかったということだろう。根室海峡沿岸の人々は、秋は標津へ移動して鮭漁のための集落をつくったのだろうか。捕った鮭は保存食として皆で干鮭(からざけ)に加工したのかもしれない。鮭の時期が終わると、別の獲物の拠点へ移動し集落をつくる…そんなふうに、季節ごとに拠点を変えながら、根室海峡沿岸をひとつのフィールドとする暮らしがあった可能性が見えてくる。
サケ科魚類の骨は、伊茶仁カリカリウス遺跡の、10世紀初めのトビニタイ文化の竪穴跡からも大量に見つかっている。
「トビニタイ文化」とは、根室海峡一帯にあった、地域性の高い文化である。5世紀ごろ、大陸から渡ってきた人々によってオホーツク海沿岸や千島列島に広がったオホーツク文化が、石狩川を中心とする道央の石狩低地帯をはじめ北海道全域に広がっていた擦文(さつもん)文化と接触し、10世紀ごろにトビニタイ文化として花開いた。トビニタイ文化の集落跡が見つかっているのは、現在のところ標津と羅臼、そして対岸の国後島と択捉島に限られている。少なくともこの範囲は彼らの活動範囲だったと考えられる。
伊茶仁カリカリウス遺跡には、クジラやアザラシなど海獣を主体としたオホーツク文化の暮らしから、擦文文化と同じ鮭・鱒を主体とした暮らしへ変わりつつあった直後の竪穴跡が多数見られる。大量に出土したサケ科魚類の骨は、文化の変わり目の証しとして重要な意味を持つ。トビニタイの人々は地域文化を支えるものとして、鮭にこだわる暮らしを選んだ。種の判定が終わっていないためシロザケかどうかはまだわかっていないが、そうだった場合は、大規模な秋の集落という可能性もある。きっと対岸の島々の集落からも人々がやってきたに違いない。干鮭にし、冬の保存食として、また質の良い標津の鮭は近隣の人々との交流も促したと思われる。
その後、トビニタイ文化は擦文文化に吸収されたと考えられているが、その過程はよくわかっていない。擦文時代の竪穴は国後島や経由地と考えられる野付半島にも見られることから、根室海峡一帯はずっと、鮭でつながるひとつの文化圏だったのだろう。さらにこの範囲は、のちにメナシと呼ばれる地に生きたアイヌの人々とも重なってくる。明らかになっていない擦文時代からアイヌ文化成立までの過程のヒントが、ここに隠されているのかもしれない。
標津の市街地から別海町方面へ向かう途中、野付半島へ行く道との分岐点に、こんもりとした丘が横たわる。ここは「タブ山チャシ跡」で、丘の上には「チャシ」というアイヌ文化期の遺跡がある。チャシは北海道全域にあり、戦いのための砦や城とされることが多い。しかし、聖域として築かれたのが始まりとされ、時代とともにさまざまな機能を持つ場だったと考えられている。
そのひとつが資源の監視場としての役割だ。チャシは、鮭や鱒が遡上し産卵する河川の中流〜上流域に築かれていることが多い。そばにはコタン(集落)がつくられ、水源や鮭を資源として監視・管理していたと思われる。しかし、タブ山チャシは河口に築かれている。タブ山チャシの前にも海と平行して茶志骨(ちゃしこつ)川が流れ、集落もあったようだが、内陸の川沿いとは違う意味を持っていたようだ。
アイヌの人々にとって、川は道でもあった。それは縄文・トビニタイ・擦文の人々にとっても同じで、川づたいに交流し、もしくは海へ出て海峡を渡った。一方、タブ山チャシを築いた人々は、川筋ではなく河口を交通の拠点としていたことがうかがえる。「おそらく、河口を港としていたのでしょう。茶志骨川から野付湾へ出ることができ、外洋にも、川と海のあいだの狭い陸地に舟をあげて通れば簡単に出ることができました。その場所は“チプルー(舟の道)”という地名で呼ばれていたようです」と小野さんが教えてくれる。
標津の海岸線のほかの河口にもチャシ跡が見られ、対岸の国後島も、同じく河口にチャシ跡があるという。チャシ跡周辺には必ずコタンが存在したため、河口を港とする集落がつくられ、根室海峡を通じたネットワークが一帯に広がっていたことを意味している。古来の鮭を媒介にした文化圏を引き継ぎ、メナシという地域性のあるアイヌ文化がここに始まっていたのだ。
タブ山チャシ跡に立つと、根室海峡北部を一望できる。国後島の島影もすぐそこだ。海を中心とする広い世界をひとつのものとした時代の人々は、この景色をどんな思いで眺めたのだろうか。
標津町ポー川史跡自然公園