ドストエフスキーの小説をもとに、黒澤明は映画『白痴』を札幌で撮影した(1951年)。原作の舞台はロシアの帝都サンクトペテルブルクだが、黒澤は日本で最もこの都市に近い雰囲気をもったまちとして、札幌を選んだのだった。映画に登場する、ネオルネッサンス様式のイメージをもつ3代目札幌駅と停車場通りのたたずまいが、内地人の目にはいかにも北方の異国都市を思わせたのだろう。3代目駅舎はこのあとまもなく取り壊されるが、映画は、中島公園のスケートリンクで行われていた氷上カーニバルと合わせて、現在の市民にそのようすを伝えてくれている。
しかし札幌をサンクトペテルブルクに例えた人物は、そのずっと前にもいた。
明治中期に6年あまり日本に滞在したフランスのミッシェル・リボー神父だ。リボーは1894(明治27)年夏に東北と北海道を訪れ、その紀行(『ミッシェル・リボー神父による 北日本に於ける一夏』)で、道都をサンクトペテルブルクになぞらえている。
「札幌は(北海道の)首都で、サンクトペテルブルクのように造られ、古い森の真中に立派に建てられ、この地方の工業と科学の最初の砦となっている」
はるかな東方の国を旅する者が母国に向けた文章だからずいぶん外連味(けれんみ)の効いた表現に聞こえるが、神父は家々と釣り合いがとれないほど広い札幌の道路に驚き、鋤(すき)や馬鍬(まぐわ)、種まき機などを扱う金物商が多いことを指摘して、「札幌が特に農業の植民地の首都である事を思い起こさせる」、と言う。さらに本屋、仕立屋、靴屋、洋服屋など多様な産業にちなむ商店が眼前に広がるさまを見て、「この町のこれ程までの繁栄、これ程の進歩、これ程の心地よさは人々を驚かす。この町のあらゆる場所は、三十年前迄原生林で覆われていたのだ」、と続けた。
北海道庁が設置される直前。元老院議官安場保和(やすばやすかず)が1884(明治17)年に北海道巡視を行ったことは、前回取り上げた。安場はそのあと福岡県令(知事)、貴族院議員となり男爵を授けられたが、リボー来札のすぐあと、1897(明治30)年の9月に第6代の北海道庁長官として再び北海道の地を踏む。初来道のとき24万人台だった北海道の人口はこのとき、78万人台。全道でニシンの漁獲がもっともあったのもこのころだった。
時代を少しさかのぼると、明治20年代半ば以降、北海道への移民は急増していた。岩村通俊初代道庁長官以来の政策である資本の誘致が進展して、旧士族を対象にしていた屯田兵の募集が平民枠にも広がる。内陸部の交通インフラ建設も進みだした。背景には、日清戦争の勝利(1895年)で得た莫大な賠償金によって、日本にも世界と結ばれた資本主義体制ができはじめたことがあった。内地では株式界は熱狂し、鉄道、銀行、綿糸紡績業、海運業などがめざましく発展していく。
北海道でも鉄道計画が本格化していた。それまでは時期尚早とされていた鉄道だが、殖産興業とロシアへの備えのために内陸と港湾を結ぶインフラが不可欠であると、1896(明治29)年2月、貴族院議員近衛篤麿(あつまろ)らが帝国議会に建議案を提出。5月には「北海道鉄道敷設法」の公布となった。篤麿は、のちに対米戦争へと日本の進路を誤らせることになる近衛文麿首相の父だ。
ときの北海道庁長官は、安場の2代前になる北垣国道。近衛篤麿らは北海道協会という、北海道への資本導入や移民を支援する官民合同の組織をつくり、北垣もこれに参画していた。
但馬国(たじまのくに・現・兵庫県北部)に生まれた北垣は、戊辰戦争では北越で戦い、戦後は開拓使に出仕。高知県県令、徳島県県令、京都府知事を歴任している。京都時代には琵琶湖から京都へ通じる多目的水路、琵琶湖疏水を完成させていた。古今の文明は水を利することからはじまる。安場保和が福島時代に安積疏水に取り組んだことと響き合う挿話だろう。
京都で北垣の右腕となった技術者が、娘婿であり日本の近代土木工事のパイオニアである田辺朔郎。道庁長官になると北垣は田辺に道内各地をまわらせ、官設鉄道の第一期予定線を選定した。田辺は、旭川と帯広を結ぶ十勝線、旭川と空知太(現・砂川)を結ぶ上川線、旭川と名寄を結ぶ天塩線などの測量と建設工事を指導していくことになる。
日清戦争で台湾を得たことで、1896(明治29)年春、外地統治(台湾と北海道)を新たに担う拓殖務省が新設される。北垣はその次官に就任(同省は1年半で廃止)。鉄道敷設などは、福島県知事から転じた次の原保太郎長官に託された。
北垣は4年以上長官の職にあったが、原は1年半しか務めていない。歴史学の桑原真人によれば、この時代から道庁長官の任免に政党の力が反映されるようになったからだという(『安場保和伝』)。地方長官は官選で、住民には選択肢がない時代。さらには内地では1880(明治13)年からあった地方議会(区長村会)は、自治に遠かった北海道にはまだない。府県よりも権限が限られていたものの、まがりなりにも道議会ができたのはようやく1901(明治34)年のことだ。
内陸の大動脈となる札幌・旭川間の鉄路の全通は、1898(明治31)年7月16日。函館・小樽・札幌間がすべて鉄路で結ばれたのはそこから7年後の1905(明治38)年。旭川へ全通した開業日は奇しくも安場長官の退任日で、安場長官の在位はわずか11カ月あまりと短いのだが、それには、安場と主義や方針のちがう第一次大隈重信内閣の成立が要因となった。
複数の研究者がテーマを分担した『安場保和伝』で北海道時代を担当した桑原真人は、安場の実績としてまず、北海道の行政機構の原型をほぼ確定した、北海道庁官制改革をあげている。
そして道路、湿性原野の排水、鉄道、港湾といったインフラ整備をさらに進める方針を掲げたこと、さらに薩摩閥の牙城である北海道炭礦鉄道が進めようとした小樽港(手宮)の埋め立てに、公共的な観点から再考をうながしたことを指摘する。
このころ開拓政策の軸となったのは、1897(明治30)年4月に施行された「北海道国有未開地処分法」だ。肝となる第3条にはこうあった。
「開墾牧畜若クハ植樹等ニ供セントスル土地ハ無償ニテ貸付シ、全部成功ノ後無償ニテ付与スベシ」
これは一人あたり150万坪の開墾用地(牧場は250万坪)を10年間無償で貸し付けて、開墾に成功すれば無償で所有できるという、資本側にとっては夢のような法律だ(会社や組合の場合はこの2倍)。結果、高位高官や投機のプロと結んだ資本家たちが便利で肥沃な土地の占有を進める。また、検査官に賄賂を贈って検査を逃れたり、処分地のまわりに牧柵を巡らせて地表だけを起こし、よそから牛馬を借りて検査に間に合わせるといった不正もはびこった。
ニセコの有島や曽我、十勝の池田や高島など、北海道には不在地主の名前が地名になった例は少なくないが、いずれもこの時代の内地からの旺盛な投資の歴史を刻んでいるものだ。
生涯に500以上の会社設立に関わり日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、1897(明治30)年の1月、従兄弟の渋沢喜作(北海道製麻会社社長)や大倉財閥の創始者大倉喜八郎らと、十勝川沿いの人舞(ひとまい)村のニトマップ原野とその周辺の貸付を出願した。その規模約3500万坪に達する、桁違いの特例枠だ。彼らにとって北海道の未開地は、まさにただ開拓を待っているだけの無主の地だった。出願はすぐに許可され、地形や土質の調査を経て、翌1898年2月、資本金100万円で十勝開墾合資会社が設立された。短期間の任に終わったが初代の農場長は、札幌農学校で内村鑑三や新渡戸稲造らとともに学び、エドウィン・ダンに就いた町村金弥。この開墾会社が、現在の清水町のはじまりだ。
ほかにも渋沢は、札幌麦酒会社(現・サッポロビール)や帝国製麻(現・帝国繊維)、函樽鉄道(現・JR北海道函館本線)、函館船渠(現・函館どつく)、北海道炭礦鉄道(のちの通称「北炭」)など、明治期の北海道に投資された大規模事業の多くに深く関わった。ちなみに『清水町史』によれば、十勝開墾会社の創設時の資本金は、北海道製麻の80万円や札幌麦酒の60万円を上回っている。
渋沢らにとって北海道は、近代国家を立ち上げるための原資として位置づけられていただろう。本業ともいえる銀行の分野でも、1900(明治33)年に創立された北海道拓殖銀行の設立委員を務めている。拓銀は、北海道開拓の国策としてつくられた銀行で、1899(明治32)年設置の台湾銀行、1911(明治44)年の朝鮮銀行と同じ文脈に置かれる特殊銀行だった。
一方で株式会社ばかりでなく、教育や福祉の分野にも大きな力を注ぎ、私益と公益の合一を理想とした渋沢に、資本の論理では無主の地と見えた北海道の未来は、どのように描かれていただろうか。
先にカトリックのミッシェル・リボー神父にふれたが、安場保和長官が退任した直後、1898(明治31)年の夏にも、北海道を長く旅した外国のキリスト者がいた。ロシア正教会のセルギイ・ストラゴロドスキイ掌院(しょういん・1867-1944)。司祭の息子に生まれたセルギイもまたサンクトペテルブルクにゆかりが深く、多くの俊英と同じくこの帝都の神学大学で学んだ。まず1890(明治23)年に来日すると、東京の正教神学校の教壇に立ち、京都ハリストス正教会に赴任して3年ほどで帰国する。来道したのは、掌院に昇叙されてからの二度目の来日の機会だった。ロシア正教史でセルギイは、ロシア革命(1917年)後2代目の総主教となり、第二次世界大戦へとつづく混乱期に、スターリンの政権下で教団の困難な舵取りをした指導者として名高いという。同じセルギイでも日本では、函館ゆかりの大主教ニコライの後任として日本に骨を埋めた、府主教セルギイ・チホミーロフ(1871-1945)の存在も大きい。
セルギイ・ストラゴロドスキイは、一部はニコライ大主教とともに北海道本島の各地と千島まで、2カ月以上にもわたって信者たちを訪ねる旅をした。その記録である『掌院セルギイ 北海道巡回記』は、ロシア人の目でその時代の北海道とロシア正教信者たちをスケッチした驚くべき一冊だ。
1898(明治31)年8月5日。
早朝に東北線で上野を発ったセルギイは、25時間かけて青森に到着。日本郵船の青函航路で、日本におけるロシア正教のふるさとである函館に入った。そこからまず船で根室に向かう。長い全行程のハイライトは、明治政府が北千島の占守(シムシュ)島から強制移住させたアイヌのコタンを色丹島に訪ねる一節にあるのだが、安場保和の千島巡視(1884年)とも深く関わるこの旅程については、また稿を改めよう。
セルギイは、根室と千島を巡回して函館にもどる。そして8月26日夜11時に、札幌をめざして函館からまず室蘭へと出港した。霧の室蘭港に入ったのは翌朝8時。室蘭からは、船でたまたま出会った英国聖公会の北海道責任者(主教)フィリップ・ファイソンとともに、北海道炭礦鉄道室蘭線で岩見沢に向かう。そこから同幌内線で札幌をめざし、道都に入ったころには陽は傾いていた。両線が国営化されたのは1906(明治39)年秋のことだ。
当時の札幌のハリストス教会は南2条西7丁目にあり、120名ほどの信者がいた。その日のうちに合唱とともに奉神礼(ほうしんれい・カトリックでは典礼)、そしてセルギイによる説教が行われる。
翌日聖体礼儀を行い、午後には親睦会。中心メンバーの中には、四半世紀以上前に函館でニコライ主教から洗礼を受けた者もいた。その翌日セルギイは、一日かけて信者17軒の家を訪ね歩く。多くの家には聖像画と使い込まれた祈祷書が置かれ、歴代の宣教師たちや伝教者たちの写真が小箱に収められていた。苗穂監獄(現・札幌刑務所)にも行った。ふたりの看守が、家族そろって信者なのだった。
翌日には14軒。ふたたび一日かけて訪問をつづける。白石村(現・白石区)にも行った。家族全員が信者とは限らないから、大きな仏壇のある家もある。盆をすぎたころなのでたくさんの供物が置かれていたし、白石の墓地では、十字架の立った信者の墓に線香の強い香りが立っているさまに戸惑っている。
札幌市街では、「尖塔の上に雄鶏をたてたアメリカ長老派のりっぱな教会が見えた」。これは札幌日本基督教会(現・札幌北一条教会)で、当時は大通西3丁目にあった。セルギイ曰く、雄鶏教会というおかしな通称だが、「教会を管理しているミスター・ピルソンとその妻はとても尊敬すべき人たちである」、とある。札幌や旭川、北見で伝道を重ねたピアソン夫妻のことだ。
「アングリカンの小さな会堂もあるが、定期的に集まることはないという話で、日本人信者はほとんどいないそうである。(中略)ここにはそのアイヌの宣教師団がある。(中略)アイヌたちが集まっている。彼らにとっては別製の住居でもあり、子どもたちにとっては学校でもある」。
植物園の東となりにあった英国聖公会のジョン・バチェラー邸のことだ。広い敷地にはのちに、建築家田上義也が北海道における最初の仕事として、アイヌ保護学園(バチェラー学園)を設計することになる(1924年)。
セルギイは教会でふたりの青年相手に信仰について長く語った。ひとりは正教徒の家庭に育った信者。もうひとりは異教徒だが、日ごろからプロテスタントの説教をよく聞いていた。
セルギイは、異教徒の青年は「神妙に頭を下げて坐ってはいたが、彼の心にはおそらく何も残らなかったろう。真剣な沈思のためには彼はあまりに若すぎる」、と書いている。
海外の技術や文化に開かれ、内地に比べて和人の地縁血縁がはるかに薄い当時の北海道は、「自分が自分の主人であり得る」土地である。セルギイはそう考えている。それはキリスト者の宣教にとって、大きな障害がはじめからひとつクリアされていたことでもあった。一方でこちらも北海道ならではの状況として、故郷を捨てた移民たちの開墾現場などでは、厳しい生活に毎日必死であるために信仰どころではない人々も多かった。
さらに彼は、仏教や神道がすでに日本の若者にとってリアルなものではなくなっていることに気づきながら、この旅で会った日本人に限らず、「否応なく若者はすべての永遠の疑問を捨てて、世間的・現世的な利益が待っているところへだけ目を向けることになるだろう」、と言う。はじめて出会った北海道を通して、近代文明の行く末までを見通していたセルギイの冷静な知性が印象的だ。