内地からのまなざし -4

水脈から考える石狩平野

アメリカ由来のポプラは北海道の開拓時代を記す樹木。いまも茨戸川の風景を形づくる河畔のポプラの冬景。かつては14本並んでいたが、現在は12本(写っているのは10本)

和人が出会うはるか前から、北海道の水の背骨である石狩川は無数の氾濫を繰り返してきた。第6代道庁長官安場保和と、ロシア正教会のセルギイ掌院。内地からのふたりのまなざしを通して道都と北海道を映してきたサイドストーリーだが、この水系と人間の営みの交わりをめぐって終幕しよう。
谷口雅春-text&photo

1898(明治31)年9月。石狩川氾濫

「天も地も、ただ水であった。斜めに走る銀鼠色の雨足の幕が、水煙をあげて暗褐色の濁流を叩き、舟はその水煙のとばりのなかに閉じ込められながら流されていた。」

船山馨の『石狩平野』は、明治14年の小樽からはじまり、北海道開拓の正確な時代背景や史実をもとに書き進められた長編小説だ。1967(昭和42)年の第一部発刊以来今日まで、北海道文学の中枢で根強い人気を集めている。上の引用は、第一部の終盤の大きな山場。ヒロイン鶴代の小学生の娘明子が、父であることを固く伏せた次郎によって石狩川の洪水から間一髪で救われ、引き換えに次郎が命を落とす場面だ。それは、1898(明治31)年9月に実際に石狩平野を襲った、石狩川の恐ろしい氾濫だった。

前回も登場した、千島と北海道を巡回したロシア正教会のセルギイ・ストラゴロドスキイ掌院(しょういん)は、石狩川中流域でこの大水害に遭遇した。状況は、『掌院セルギイ 北海道巡回記』によれば以下の通りだ。

8月30日まで4日間をかけて札幌の信者たちを訪問した一行は、その翌日に汽車(北海道炭礦鉄道)で江別まで行き、そこから馬で幌向(ほろむい)の信者たちを訪ねた。降り出した雨の中を江別に戻り、汽車で岩見沢へ入る。岩見沢で泊まると翌朝、鉄路で幌内炭鉱へ。そこから歩いて市来知(いちきしり)。市来知の空知集治監(重罪人監獄)の看守には6人も信者がいた。
セルギイらはその後汽車で長駆して室蘭に入る。室蘭でははじめての信者の集いと祈祷が行われた。室蘭からは再び汽車で6時間北上して峰延。そこから歩いて沼貝村(現・美唄市)。村で一泊してから荷馬車や徒歩、そして旭川から先が開通したばかりの北海道官設鉄道で、旭川の先にある、屯田兵が拓いた永山に着いた。
ここでも翌朝から雨が降りはじめたが信者たちへの巡回をつづけ、天候が心配なので旭川に滞在する予定を変更。鉄路で、より札幌に近い深川にたどり着いた。すでに夜半だった。雨が降りつづくなか、セルギイたちは宿の2階で不安な一夜を過ごすことになる。すぐ札幌に向かいたかったが、汽車がいつ出るかわからないのだ。遅くになってついに石狩川があふれ、水は道路をおおい、宿の主人たちは食料や家財道具を2階に上げはじめた。

9月8日の朝。早く目覚めた彼らが窓に駆け寄ると、駅までの道は一面の急流だった。丸太や桶、板や薪、もがれた垣根などが流れ、平屋の家々は島のように屋根だけをかろうじて出している。男たちが急ごしらえのイカダで、浸水した家々から逃げ遅れた人々を集めていた。
やがてようやく雨がやむ。
セルギイらのいた2階は、救助された人々の集合所になった。人々は脱出劇を語り合い、慰め合い、ときに笑い声も湧いた。こうしたときにありがちな罵詈雑言やののしりあいは起こらなかった。
「なぜか日本人は自分の感情をあらわにしない。(中略)うれしい時も、悲しい時も、腹が立っても、困っている時も、何も表現しない微笑をみせる」
水がゆっくりと引きはじめると、住民たちは水から顔を出している家に帰っていった。石狩川の江別から下流はとりわけひどい被害で、線路は長距離にわたって水没したり破損しているという。
セルギイらは、岩見沢まで歩こうかと考えたが、たどり着けたとしてもその先は見えない。ならばと、山を越えて日本海側の増毛に出て、そこから小樽へ船で戻ることにした。増毛は日本海側の要港だし、そこにもロシア正教会の教会があるのだ。

1898(明治31)年の北海道の姿がいきいきと描かれている『掌院セルギイ北海道巡回記』

捷水路が一変させた石狩川

このシリーズの縦軸となっている第6代道庁長官の安場保和が退任してひと月半あまり。セルギイらが出くわした1898(明治31)年9月上旬の石狩川の大氾濫は、特段に大きな水害として北海道史に記されている。国土交通省北海道開発局のウェブサイトには、「石狩平野はほぼ冠水し、幅約40キロメートル延長約100キロメートルの、巨大な泥海が出現した」、とある。セルギイらがいた深川から100kmほど下流になる札幌では、そのさまはどうだっただろう。『新札幌市史』などをもとになぞってみる。
この年の札幌は、春・夏・秋と三度も暴風雨に見舞われた。春には篠路村の茨戸太(現・北区茨戸・旧琴似川や発寒川と石狩川の合流点)や札幌太(旧豊平川と石狩川の合流点)で4.5mも水かさが増した(太・ブトはアイヌ語で河口や川の合流点)。7月には、大雨で石狩川や篠路川、篠津川があふれて大きな被害が出る。
そして9月。
6日から8日にいたる約40時間の降雨量は札幌で155mm。7日からは烈風も加わり、石狩、空知、後志方面各所で出水して、空知方面では死者も出た。鉄道も途絶。豊平橋は、岡﨑文吉設計の新橋がちょうど掛け替え中で、仮橋が流された。北5条西2丁目や、南1条・2条東4丁目などの市街の低地は浸水。そしてさらに、周辺の丘珠村や篠路村、篠路屯田兵村、生振(おやふる)村などは空前の被害にみまわれた。札幌村、下手稲エリアの損害も甚大だった。なにしろあと少しで収穫という畑が全滅したのだ。
札幌支庁管内を合わせると3879戸が浸水して、233戸流出。水に沈んだ田畑は53,783反(1,613万坪)に及んでいる。札幌支庁とは当時あった行政区分で、札幌区(札幌市街地)・札幌郡・石狩郡・厚田郡・浜益郡・千歳郡の一区五郡だ。
こうした被害に対して北海道毎日新聞社、北門新報社、北海日日新聞社、小樽新聞社の四社が協力して義援金を募ったほか、札幌区の官界財界を中心に洪水罹災者救恤発起人会が設立された。大人だけではなく子どもたちもわずかな小遣いを寄せあったという。また仏教やキリスト教団体もいちはやく動き、寄席や音楽会なども義援金募集を目的に開かれた。札幌の北辰病院などでは、罹災者の薬価・治療代を半額にした。さらに翌春に明治天皇は、侍従片岡利和を派遣して被災地の視察と督励を行った。永山武四郎第七師団長が、侍従を篠路屯田兵村などに案内している。1891(明治24)年に、同じく明治天皇の勅命で千島の調査を行ったあの片岡だ(「メナシへの遙かなまなざし -4 拓殖と防衛の島」)。
北海道への資本導入や移民を支援する官民合同の組織である北海道協会(会長近衛篤麿)では、はやくも災害と同月末に、「北海道拓殖に関する治水主義に付請願書」を内務大臣板垣退助に提出した。石狩川の本格的な治水計画は実にこのときはじまり、年内に内務省が「北海道治水調査会」を設置した。中心となったのは、北海道庁の技師・岡﨑文吉。札幌農学校で広井勇に就いた、まだ20代の青年技師だ(広井は侍従片岡利和の甥)。

岡﨑は過去のデータや海外の事例を幅広く研究しながら1909(明治42)年に、「石狩川治水計画調査報文」を政府に提出。大きく蛇行する川の流れを生かしながら水防林や堤防で護岸を補強して、洪水に至れば放水路で流れを分流するという、自然を生かしたアメリカ流の治水法を提唱した。なかでも画期的なのが、岡﨑式単床ブロックと呼ばれる、コンクリートの直方体を鉄線でつないで河岸をしなやかに守る手法だ。このブロックはいまでも茨戸川などでりっぱに機能している。
しかしやがて、より人工的に蛇行を大規模にショートカットしてしまう、フランス流の捷水路(しょうすいろ)方式が評価されるようになる。1918(大正7)年から最下流で、左岸の生振村(現・石狩市)、右岸の当別村を舞台に直線3.6kmにも及ぶ生振捷水路の工事がはじまった。方針が変わったために岡﨑は東京の本省土木局に転任する。
生振捷水路の大工事は14年もつづき、現地には、住宅や商店だけでなく劇場や酒場も並ぶ市街地が出現した。現在の生振7線南のあたりだ。捷水路が完成すると江別の水位が1mも下がったという。1889(明治22)年に入植した篠路兵村(現・札幌市北区屯田)の人々が水害の恐怖から解放されたのは、開村から40年以上経った、この捷水路の通水にあった。
その後、延々と蛇行を繰り返していた石狩川河道へのショートカット工事は着々と上流へと進み、1969(昭和44)年に最後の砂川捷水路(29本目)が通水されると、石狩川の全長は100kmも短くなった(約268km)。そのぶん流れがスムースになり、洪水の恐れは劇的に減っていく。

巨大な蛇行をショートカットした生振捷水路
(地図データ©2021 Google, SK Telecom、赤い部分をカイが書き込み)

茨戸川パラト中島橋のたもとなどで現役で機能している岡﨑式単床ブロック

豪雨の中の船山馨

小説『石狩平野』は、越後の村上から1881(明治14)年に北海道に渡ってきた夫婦の娘、高岡鶴代が明治・大正・昭和を苛烈に生き抜く物語だ。「明治14年の政変」や「開拓使官有物払下げ事件」にはじまり、三県一局時代を経て北海道庁の設立、そして樺戸集治監の囚徒など、このシリーズで追ってきたモチーフがそのまま現れ、北海道人たちの生々しい息づかいとともに描かれていく。
鶴代は一度だけ結ばれた身分のちがう恋人(父は開拓使官吏)との子を産み、その事情を知りながら夫となった男と札幌で商いをしている。かつての秘めた恋人は農場開拓に打ち込み、生振の開墾に取り組んでいた。鶴代の娘明子たちは小学校の遠足で石狩川河口をめざしていたが途中で雨に降られ、またたくまに増水に飲まれてしまう。そこで本稿冒頭のシーンが現れるのだった。

その洪水から83年を経た1981(昭和56)年8月3日。
停滞した前線に台風12号が影響して、この日から石狩川の流域などが集中豪雨に襲われた。降りはじめから3日間の総雨量は岩見沢や恵庭で400mmに達する。5日の夜から6日かけて石狩川本支流はあちこちで堤防を越え、決壊も10カ所で相次いだ。江別とその近郊の農地は壊滅的な被害をこうむる。石狩では、茨戸川の洪水を日本海に流す、完成直前の石狩放水路が突貫工事で緊急通水され、かろうじて効果をあげた。北海道開発局はこの災害を「500年に一度の豪雨」と称した。農業被害額612億円。その他を含めた総被害額959億円(石狩川振興財団)。
この約2週間後にも台風15号が道南から後志(しりべし)を北上して豊平川や千歳川でも猛烈な濁流が住民たちを恐怖におとしいれた。このふたつの水害は、のちに「56(ごうろく)水害」と呼ばれる。北海道開発局では大水害を奇貨として、巨大な水路を掘って増水時には千歳川の流れを石狩川ではなく太平洋に向けようという、途方もない計画を立てた。しかし人間が大自然の力を丸ごと支配しようとするこの傲慢な目論見は、漁業者や環境保護団体や市民の10数年にわたる反対運動の結果、1999(平成11)年にようやく沙汰止みとなる。石狩川流域では新たな治水案が現実的に練られ、北村遊水池(岩見沢市)に代表される治水工事が進められていく。

原稿用紙3000枚にもおよぶ『石狩平野』を書きつづけた船山馨が、東京の自宅で病のために息を引き取ったのは、実にこの「56水害」のさなかの8月5日だった。
近代文学研究者で北海道大学名誉教授の和田謹吾は、随筆集『私の札幌』に書いている。
「昭和56年8月5日、船山さんの死が報ぜられた。その日、道央に降った集中豪雨で石狩川が氾濫し、石狩平野は濁流に飲まれていた。それは、あたかも『石狩平野』の作者の死に怒り狂ったようであった。」
そしてこの同じ日の夜、献身的に看病を尽くしていた夫人の船山春子が、心不全で後を追うように亡くなった。

『石狩平野』『続石狩平野』船山馨。装丁は札幌二中以来の心友、彫刻家佐藤忠良

暮春の春服

再び安場保和に戻ろう。
1884(明治17)年に北海道と千島を広く巡視して、1897(明治30)年には第6代北海道庁長官に任ぜられた安場保和は、石狩川大洪水の少し前に離道した。彼の青春時代は、幕末の激動の中だった。戊辰戦争で江戸城開城に立ち会い、その後明治政府の官僚として赴任したのが、薩長勢力によって一方的に「朝敵」の汚名を負わされ、人心が深く傷ついていた福島だ。東北の交通の要衝でもある現在の中通り地域の県令となった安場は、果敢な政策を打ち出す「開明派」地方官の代表格のひとりとしての声望を得ていく(『安場保和伝』)。
安場が最も力を入れたのが開墾と殖産興業。厳しい環境の安積(あさか)地方(現・郡山市)の開拓を、猪苗代湖の水を奥羽山脈にトンネルを通して郡山盆地まで導く、安積疏水の建設で進めたことが特筆される。建築家中條精一郎の父である中條政恒をはじめ多くのブレーンを束ね、国との調整を進めながらこの大事業を進めた安場にとって北海道は、近代日本にとって欠かすことのできない重要な資源に見えていただろう。

しかし人間をはじめとした生きものたちにとって、水の恵みとその脅威は表と裏だ。安場は水の恵みから開拓を見すえ、船山は水の恐ろしさから北海道開拓に迫っている。いうまでもなく、世界は複数の視点があってはじめて奥行きのある像に結ばれるだろう。札幌に生まれ育った船山は、作家として内地に暮らしながら、さまざまな視点をもって北海道を書き続けた。

「札幌の水脈とメム」をテーマとする特集のこのサイドストーリーも、終わりに差しかかった。
地層が水で飽和状態のとき、その水を地下水という。飽和に至っていない地中の水は土壌水。そして地下水の流速は、一般に年にわずか数mから数百m程度だという。対して川の流速は秒速で数十cmから数m。洪水時では秒速5m以上だ(『地下水の世界』榧根勇)。洪水の流速は、地下水脈が動く速度の数百万倍以上。人はこれほど広いレンジで大地の水と交わっている。

作家吉田健一の短い随筆(『大磯随想』吉田茂・あとがき)に、「暮春は春服」という論語の一片にふれた文章がある。ある日、師の孔子に自らの雄志を問われた4人の弟子のうち曾晳(そうせき)だけが、野心をふくらませる3人とはまったくちがう文脈で答える。
「春の終わりころ(暮春)に春服を着て成人の友人5、6人 少年6、7人と沂水(きすい・川名)に水浴びに出かけて、雨乞いの舞台で涼み、歌を歌いながら帰ってきたいです」
孔子はこれに深く感心して、私もそうありたいものだ、と応えた。
この一節を胸中で一瞥(いちべつ)しながら吉田は、一国の国民にとって必要なのは、それがいかにめざましい活動であっても、眠っているかのように動かず、各自の生活に深く根をおろしていることが重要である、という。例えば中国や英国という国の本質はそこにあるのだ。吉田にとって「暮春の春服」は、単にのんびり楽しく暮らすという理想ではなく、他人に知られない静かな水脈が地中深くにあるように、人々が人生を深く生きることの意味を考えさせる問いなのだろう。
1962(昭和37)年の文章だから、現在の世界情勢とはかけ離れているだろうか。しかし、洪水が荒れ狂う大地の下にもあるはずの水脈の速度で考えれば、違和感はないはずだ。コロナ禍で立ち止まりとまどいながら針路を模索している我々にとって、札幌の水脈を考えるには、そうした立ち位置を意識することが必要ではないだろうか。
はやく、気持ちの良い暮春に春服を着たい。

(了)

 

春を待つ茨戸川。両岸を行き来するキタキツネの足跡があった