「名前を明かさなくてもよければ、お話します」と、Aさんは生家の思い出を語り始めた。阿部宇之八の長男で、父の仕事を継いだ良夫の娘である彼女は、この家で生まれ、父が他界した翌年の1946(昭和21)年、小学3年の春まで暮らしていた。子どもの頃の記憶なので、と前置きしながら「向いにクリスチャンセンターが建つ前は、かつて米国人宣教師が暮らしていた洋館があって、のちに北大学長となる堀内寿郎先生一家が住んでおられたの。よく遊びに行ったわね。ドラム式の大きな洗濯機やベッドがあったから、宣教師が残していったものをそのまま使っていたのでしょう」。
北海道クリスチャンセンターの沿革を調べてみると、1911(明治44)年、在日本北米長老教会宣教師団は、北7条西6丁目角地999坪を宣教師館用地として購入していた。そこに建てられた宣教師館には、1918(大正7)年から北星女学校(北星学園の前身)に勤めていたレオ・C・レーク宣教師一家も暮らした。また、北星学園創立者サラ・C・スミスも、1921(大正10)年の北星引退後、この敷地内に自宅を建て、卒業生と一緒に暮らした。スミスも米国の長老派教会から派遣された宣教師で、北星の運営や教職から離れても、自宅でバイブルクラスを開き、豊平、銭函、山鼻などに増えていった日曜学校を支え続けていたのだ。現在地に、キリスト者の研修、奉仕、地域との交流の場として北海道基督教會館(現・北海道クリスチャンセンター)が建てられたのは、1951(昭和26)年のことである。
「昔、北8条通りは、西6丁目からの先は行き止まり。桑園方面へ通り抜けできる道はなかったのよ。そこに巌鷲(がんじゅ)寮があったから」とAさん。私も幼稚園の頃から20歳代前半まで、この界隈の住人だったが、そんな話は初耳だ。いつまで行き止まりだったのか、札幌市中央図書館で古い地図を確認してみると、確かに1962(昭和37)年の地図には西への道はなく、翌年の地図には北8条西6丁目から西へ延長する新しい道があった。
北大の寮といえば、誰もがまず恵迪寮を思い浮かべるだろう。しかし、かつて北大周辺には、秋田、宮城、山形、埼玉、長野、和歌山など、県人会が建てた寮がいくつも点在しており、岩手県出身者のために建てられたのが「巌鷲寮」である。岩手出身の予科生が「同郷の仲間と和やかな寮生活を過ごしたい」と、花巻出身の佐藤昌介総長に直訴し、同郷の教授らも加わり寄付金集めに奔走した。
北8条通り突き当たりの大学敷地内に、「寮建設予定地」の標識が立てられたのは1926(大正15)年3月。寮の名前は、岩手山の別名、巌鷲山から付けられた。鷲が両翼を広げたような形をした寮が完成したのは、翌年11月。木造、地上2階地下1階建て。寮室20室、応接室、客室、食堂、浴室、台所、洗濯室があり、一人一部屋使えるのは当時の寮としては珍しかった。炊事も風呂も電化、水洗トイレ、スチーム式暖房など最新設備が整っていた。
『巌鷲寮創立五十周年記念誌』によると、開寮当初の寮生たちは、他の学生たちの憧れの的だったらしい。寮のモットーは、クラーク博士の教育理念である「be social, be gentleman(人と交われ、紳士たれ)」であり、文化の香り高い寮として注目されていた。それは、毎週月曜はオートミールの朝食、月1、2回はすき焼きの会食など、紳士らしい食事からも想像できる。戦前は、新渡戸稲造をはじめ、金田一京助、照井栄三など、多くの学者、音楽家、画家、政治家の訪問や滞在があり、その度に夕食会や講演会が開かれていたという。
前庭にはバラが咲き誇り、レーク宣教師の庭からはライラックの香が漂ってくる。裏の小川まで芝生がなだらかに傾斜し、その先にエルムの大木やリンゴ園が見える。想像するだけで、何とも優雅な風が吹き抜けるようだ。
1957(昭和32)年、札幌市の都市計画もあり、老朽化の進んだ巌鷲寮は取り壊され、現在の北大生協会館のある位置に新築。1969(昭和44)年、さっぽろ市民生協女子独身寮との等価交換により北7条西18丁目に移転した。しばらくは学生の経済的負担を軽くする運営に重きを置かれたが、現在は寮創立の原点に戻り、大学生にふさわしい知的で快適な住環境を提供する4代目の巌鷲寮(通称:佐藤・新渡戸記念寮)に生まれ変わった。
「助けてください! 殺される! 」。北大農学連のヘルメットを被り、鼻血を垂らした青年が、ある民家に転がり込んできた。聞くと「他の派閥の学生に、ゲバ棒で殴られた」と言う。中央ローンでは、時事問題を徹底的に討議する集会ティーチインがいくつも繰り広げられ、学生運動も70年安保闘争へと激化していった時代のことだ。青年は「おばさん、日本の未来がよくなるのを願わないのか!!」と、かなり興奮気味だ。今なら、すぐに警察へ通報されるだろう。しかし、当時の地域住民は、肝が据わっていた。「あなた、学費は誰が払ってるの?そういうことは、きちんと社会に出て自分で稼いでからやりなさい」と諭した。近隣の住人たちに聞くと「うちでも同じようなことが、あった、あった。傷の手当てをしたり、水を飲ませたり、洗濯もしてあげた」と証言する。この住宅地一帯は、火炎瓶が飛び交う現場でもあったのだ。
1966(昭和41)年、東京では平塚らいてうが「ベトナム話し合いの会」を起こし、「ベトナム侵略戦争をやめさせるための全日本婦人への訴え」を発表していた。その平和運動に刺激を受けた女性たちが、翌年、北海道クリスチャンセンターを拠点に「さっぽろベトナム話し合いの会」を発足。月に一度集まり、キリスト教関係者、北大関係者、学生たちも参加した。
主な活動は、戦争をやめさせるための声を全国から集め、冊子『平和の声』を作成することだ。それを北大の院生が翻訳し、兵士を送り出したアメリカの母や妻たちへも送り届けた。『平和の声』には、留学先のフランスから北大法学部の深瀬忠一教授の寄稿文が届き、Akron Ohio, Beacon Journal社の編集者へ米兵の親が送った「戦場からの米兵の便り」も掲載された。「今日私達は任務につきましたが、自分自身にも友人達にも祖国に対しても、すっかり誇りを失ってしまいました」の出だしで始まる手紙は、罪のない赤子や子ども、その母親を殺してしまったショックに耐えられず、両親あてに綴ったものだ。原爆詩人で知られる広島の栗原貞子からも詩「鉛の靴」が寄せられている。札幌べ平連の花崎皋平が「一緒に手を組まないか」と声をかけてきたほど熱心に活動していたという。
平和運動のために集まっていた女性たちが次に目を向けたのは保育運動だ。ある日、近所に住む女性が北大の中央ローンで自分の子どもたちを遊ばせていると、お腹の大きい北大農学部の職員3人が「産んだらすぐに預かってくれないか」と声をかけてきた。曖昧な返事をすると「自分の子を3人も育てているあなたなら、4人も、5人も育てるのは同じでしょ」と詰め寄られたという。
当時、0歳児から預けられる保育所の制度は全国でも整っておらず、職場で産休を取れるのは生後42日まで。それ以降に休めば、女性の職場復帰は望めない状況だった。その中央ローンでの出会いがきっかけで、1968(昭和43)年9月、北7条西6丁目にあった自宅の一部屋で、生後43日目から預けられる「ゆりかごの家共同保育所」が始まった。最初に預かったのは0歳児2人、1歳7カ月1人。やがて、北大で働く女性や卒業生たちが先頭になり、国鉄職員、教師、北大生協職員なども加わり、認可保育所への交渉や保育料値上げ反対運動へと発展していく。こうして働く母親たちが生み育てた保育所は、産休明けから5歳児まで110人を預かる「幌北ゆりかご保育園」(北18条西7丁目)として、今も健在だ。全国各地でも同じように共同保育所ができ、産休明け保育は広まっていった。
10年ぶりに阿部邸を訪問した。玄関ドアを開けた瞬間にタイムスリップしたかのように、応接間に置かれた家具や調度品にいたるまで、今にも歴代の主たちが登場しそうな佇まいだ。「この家を守っているのは地下水。かつて偕楽園には豊富な水が湧き出ていましたから、この辺にもその水脈があり、高層ビルを建てたくても、かなり難しいと聞いています」と、阿部宇之八の曾孫にあたる阿部わか子さん。1881(明治14)年、徳島から篠路に移り住み、藍の栽培で開拓を成功させた先人をルーツに持ち、宇之八の三男・謙夫(しずお)、その長男・孝太郎と、4代に渡りこの家を守り続けている。
偕楽園といえば、かつては原生林に覆われ、アイヌ語のヌㇷ゚・サㇺ・メㇺ(野の傍の泉池)から湧き出た水は、サクシュコトニ川をはじめ、いくつもの小川へと流れていた。開拓使により、札幌初の公園として偕楽園が開かれたのは1871(明治4)年。試作農場、仮博物館、サケの人工ふ化場、製物の試験所、温室、競馬場などが次々につくられ、貴賓接待所として清華亭が建てられたのは1880(明治13)年のことだ。
「あの一帯にはアイヌが暮らし、墓地もありました。清華亭が建つ前、ドイツ人によってアイヌの人骨が盗掘されていたこともわかり、まだまだ語り継がれていないことは多いと思います」と、わか子さんは丁寧に歴史を掘り下げる。「偕楽園や清華亭はもちろんですが、徳島から移住された真鍋邸も近くにありますし、札幌駅周辺の歴史や文化を語る地域としては、北大南門エリアはとてもおもしろいと思います。母はピアニストでしたが、私がフルートを選んだきっかけは、斜め向かいにフルート奏者の西田直孝先生のご実家があったから。古くから北大教授や文化人が暮らした地域なので、人々の交流を探ってみるのも興味深いですね。昔の話なら、鷲頭商店さんもよくご存じじゃないかしら」。わか子さんは「顔写真はNG」と言いつつも、とても大きな宿題を授けてくれたような気がする。
<北大南門エリア散歩道>
●北海道大学南門・旧札幌農学校門衛所 (北8西5)
赤れんがと軟石を交互に重ねた南門は、もともとは西側の正門だったが、1936(昭和11)年に正門を新設するため、現在地へ移設された。緑色の屋根の木造平屋建ての門衛所の雰囲気もよい。
●旧松村邸(現・博多ぶあいそ別邸) (北8西5)
1902(明治35)年、札幌農学校の松村松年教授の自邸として建てられた。1934(昭和9)年、北大の熊沢良雄名誉教授の父が購入。現在は、九州料理を提供する飲食店「博多ぶあいそ別邸」として活用されている。
●阿部邸 (北8西6) ※外観のみ見学
1903(明治36)年建築。今の市長にあたる札幌区長を務めた阿部宇之八の晩年の住居。現在も、昔の佇まいそのままに曾孫が暮らしている。
●巌鷲寮跡 (北8西7)
北大生協会館の入り口には「巌鷲寮発祥の地」の銘板がある。当時、旧南部藩(岩手県・青森県・秋田県の一部)の学生のために建てられたが、現在は出身地を問わず寮生となることができる。
●清華亭 (北7西7)
偕楽園に、1880(明治13)年、開拓使の貴賓接待所として建てられた。翌年には明治天皇が休息された。札幌市有形文化財に指定。
●偕楽園緑地 (北6西7)
1871(明治4)年、札幌初の公園として開園。園内には、サケのふ化場や植物の育種場、工業試験場などもあり、かつては産業の中心地でもあった。
●東洋カメラハウス (北7西5)
明治時代に建てられた札幌軟石の蔵があるショップ&レンタルスペース。質屋、新聞販売店、カメラ店の倉庫として使われ、現在はカフェ&バー、レンタルスペース、美容室などに活用されている。
●真鍋邸 (北7西5) ※外観のみ見学
1915(大正4)年建築。再開発が進む札幌駅周辺で、昔のままの姿を残している真鍋邸。徳島から移り住み、天井の高い造りは北海道では珍しい。
●石川啄木下宿跡 (北7西4)
1907(明治40)年、歌人の石川啄木が21歳のときに滞在した家がこの地にあった。滞在はわずか2週間だったが下宿先として知られている。その後、北7条郵便局、現在は札幌クレストビルになっている。
●岡田硝子工場跡 (北7西4)
1890(明治23)年、札幌初のガラス工場として河内硝子工場が創業。岡田硝子工場と名称を改め、主に容器類が生産された。牛乳瓶を初めて製作したのは、この工場である。現在は新北海道ビルが建っている。
<参考資料>