私たちは、いつも食べ物の隣にいる。単純計算すると、1日3食×365日=1095食。人生80年時代に突入したことを考えると、生涯で約8万7600食の食べ物と関わることになる。これだけ近しい存在であるはずの食、その源の農業や畜産業、漁業であるはずなのに、知らないことが多いのはなぜだろう。一次産業に関する取材をするたびに、少し切なくなる自分がいる。
どこか閉じられた別世界のように感じていた生産現場も、一度踏み込んでみるとそこには暮らしがあり、働く人たちがいることに気づく。当たり前で、大袈裟かもしれないが、それくらい食べ物が生まれる場所と食べる人の間には霞がかかっている気がしていた。
そんな「生産と消費の乖離」を越えていこうと、活動する人たちがいる。
2009年から19年までの10年間、北大構内で“マルシェ”が開かれていたのをご存知だろうか。マルシェとは小さな露店が並ぶ青空市形式の市場で、発祥の地といわれるフランスでは日常風景であり、文化として定着している。
「北大マルシェは、青空市スタイルを皮切りに“生産から消費までを一つなぎにする”という目標を持ってスタートしました。きっかけは、教育の一環として行っている農業実習。農作業をしたり、農業者との交流を続ける中で、生産現場は未だ多くの課題を抱えていることに気づきました。同時に、その実際が消費サイドに伝わっていないのでは…と感じるようになっていったんです」
そう話すのは、北大マルシェの仕掛け人である北大大学院農学研究院の小林国之さん。その隣でうなずくのは、同じく同研究院の三谷朋弘さんである。
農業の課題は枚挙にいとまがないが、例えば「規模拡大による農村人口の減少」というジレンマがあったりする。機械化や分業化、つまり効率化が進んでいる一方で、農業生産人口は右肩下がり。少子高齢化で片づけてしまえば簡単だが、掘り進めると「規模の経済」や世界情勢にさらされていることなど、さまざまな要因が複雑に絡み合い、この状況が起こっていることが分かる。
同時に、「農業教育と生産現場の間にも距離がありました」と率直に話す小林さん。未来の業界を盛り上げ、ゆくゆくは農業政策や農村政策など、日本の食や一次産業の道筋すら作っていく可能性を持つ学生たち。彼らが生産現場との橋渡し役になって活躍するためには、「教室を飛び出し、生産・流通・消費を一貫して学べる機会が必要」と考えていたという。
そのような状況に悶々としていた頃。オホーツク地域では業界・業種の垣根を超え、地域産業について意見を交わす機会があり、小林さんと三谷さんも参加していた。
北海道の農業は本当に今のままでいいのか。農業の教育現場の在り方とは…。侃侃諤諤と意見を交わす中で、ある財団法人職員の勧めによりフランスの農村を視察する「カントリーホームツアー」に参加することになったそうだ。
二人がフランス南東部・アルプス地方で目の当たりにしたのは、地域資源や気候風土に立脚した持続可能な農業の姿、農業者と消費者がダイレクトかつ自然につながる場所としてのマルシェ。そして、北大マルシェの核にもなっている“テロワール”の概念だった。
帰国後、視察で得た知見をもとに新しい教育プログラムづくりに着手。文部科学省の支援事業を活用して、北海道大学・酪農学園大学・帯広畜産大学の三大学で組織する大学院教育プログラム「食の安全・安心基盤学」を開講し、学問領域にかかわらず大学院生であれば誰でも受講できる講座として北大マルシェは誕生した。
ところで、テロワールとは何ものか。語源はフランス語の「terre(土地)」で、「産地の、耕作環境に関するあらゆる特性のこと」を指すらしい。
「日本では“風土”という言葉で言い表すことができると思います。気温や湿度、土の性質、もっと大きな括りでは歴史や住んでいる人もテロワールの要素になり得ます」と三谷さんは説明する。
私たち一人一人の名前が異なり、生まれた場所や育ってきた環境で考え方や性格もさまざまであるように、食べ物にも“個性”がある。例えばフランスのチーズは「1つの村に1つのチーズがある」「365日違う種類のチーズが食べられる」と言われるほど多種多様で、ワインであればブドウを育てる畑が1区画異なるだけで格付けが変わるほど奥深い。
もっと言えば、私たちが普段から飲んでいる牛乳にだって個性がある。本来、青草を食べている夏に搾った牛乳と、貯蔵した飼料を食べる冬に搾った牛乳では味や香り、色なども異なるし、土地ごとに草の種類や出来栄えも違うわけだから個性があって“当たり前”なのだ。
酪農分野を専門に研究してきた三谷さんは、こう言う。「マルシェを立ち上げた頃から、我々が感じていた生産現場の課題は大きくは変わっていません。正直に言えば “いかに稼ぐか”、大量生産(消費)に傾倒している状況ではないかと。酪農の世界で話をすると、今では1000頭規模の牧場が珍しくなくなりました。その結果、海外から輸入した牧草・穀物飼料に頼らざるを得ない産業構造になっています。それって本当に持続可能な農業なのだろうか。日本人こそ持ち合わせていたはずの、風土(テロワール)から離れているようにも感じられるんです」
もちろんこれらの課題は、生産に携わる人たちだけに押し付けるべきものではない。SDGsの概念が一般化し、地球温暖化やフードロスなど食や一次産業に紐づく問題に関心を持つ人も増えてきたが、自らの生活を振り返ってみるとどうだろう。
私たち消費者は少なからず、“いつも変わらぬ(安い)”値段を求め、食べ物を作る誰かのことや、食べ物が作られる過程、値段の意味について考えることをなおざりにしてこなかっただろうか。
北大マルシェはそういった生産と消費、農業教育と生産地の物理的かつ“心の”乖離を縮めるために、進化しながら活動を続けている。テロワールの概念をより体現していくため、2019年の第10回をもって青空市形式での開催を一区切りとした。現在は、常設店舗「北大マルシェCafé&Labo」として農産物や農業者自らが開発・加工を手がけた商品のほか、水産業・林業分野のプロダクトも販売する。
「マルシェ、そしてテロワールの概念をいかに日常に落とし込んでいくか。それが、当初から我々の共通認識にありました。イベントやお祭りとしての楽しさもありますが、基本に立ち返り、自分たちが本当に伝えたいことを見つめ直してみようという試みです」と小林さんは説明する。
店頭に並ぶ商品は“北大マルシェ基準”で選ぶ。「持続すること・正直であること・適正な価格であること・気候風土に合致すること」。これらの基準に合致するかを有識者で判断し、商品情報を開示するのが取り扱いの前提条件だ。
Café&Laboオリジナル商品の開発も始まっている。 “北大牛乳”やチーズ、焼き菓子など、北大マルシェのコアコンセプトを具現化した商品で、原料は北大農場の乳牛から搾った生乳。まさに、この土地でしか作ることのできないテロワールが宿った食べ物と言えるだろう。
Café&Laboの運営は(株)北海道農村研究所が担う。代表は興部町の酪農家・大黒宏さん。北大マルシェ立ち上げから現在まで二人の姿を近くで見てきた人で、活動を全面的にバックアップする。
「教育や研究に携わる人の多くは街(都市)に目が向きがちで、生産地に足を運ぶ人は少なかったように思います。そのような中で愚直に現場まわりをしていたのが、小林さんと三谷さん。農業を単体で捉えるのではなく地域との繋がりも含めて考えるのは非常に難しいことですし、北大マルシェの取り組みは(大量生産や効率化する)世の中と逆行する挑戦かもしれない。それを構えずにチャレンジできることは、素晴らしいと思います」と大黒さんは微笑む。
率先力となっているのは、母校・北大教育学部を卒業した宮脇崇文さんと吉田紗紀さんだ。一般企業への就職を経て母校にUターンした宮脇さんは、店舗統括と乳製品加工を担当する。
「実を言うと、僕はこれまで食に興味や接点がまるでなくて(笑)。就職先も金融業界だったんですが、『札幌の中心にある北大で、その土地でできた草で搾った乳で製品を作り、販売する』という構想に可能性を感じて転職しました。スタートアップ企業として、とても魅力的でしたね」と宮脇さん。
一方で吉田さんは、大学院生時代に北大マルシェ実行委員として活動し、卒業後すぐに同社に就職したそうだ。「教育学部時代から、人の育ちには食が大切だと感じていました。実行委員としてマルシェに参加していた時に見た、お客さんと出店者が笑顔で話す姿が印象的で。生産と消費をつなぐ場所を提供すること、自分たちが選ぶ食べ物のストーリーが見えることの大切さを学びました」と振り返る。
そして、2021年。北大マルシェは「アワード」という形態を加えて、さらなるステップを踏み出した。日々の経営や地域での取り組みをはじめ、作り手の想いを農業者自らの声で語り、それらを広く世界に届けるのが狙いだ。
アワードには、テロワールの概念を表した3つの賞(農業部門「未来を語る農業賞」、農村部門「地域の元気スターター賞」、食部門「以食伝心賞〜心を動かす食〜」)を設定。賞金こそないものの、受賞者はCafé&Laboの活用や学生たちによる情報発信のサポートなどを受けられるそうだ。
北大マルシェの立ち上げから12年が経つ。この間マルシェは、進化しながら北大界隈へテロワールの概念を伝えてきた。
思わぬところでは、農場職員たちにも変化の兆しがあるらしい。「北大牛乳の販売以来、あらためて自分たちが“食べ物を作っている”ことをリアルに感じ、牧場作業に対する意識も変わってきました。牛たちも消費者に見られていることが分かっている気がします(笑)。これから北大牛乳、北大農場はもっと良い方向に向かっていくはず」と三谷さんは笑顔を見せる。
そしてCafé&Laboは、消費者が生産現場とつながる場所として開かれているのはもちろん、アルバイトをはじめとする学生たちが食・一次産業と接点を持つ「きっかけの場所」としても期待が高まっている。
「北大界隈の根本にいるのは学生たち。僕自身が北大農場の話を聞いて衝撃を受けたように、彼らに母校のポテンシャルを伝えていくのが使命だと思っています」と宮脇さん。吉田さんも「お客さんやスタッフに商品の背景をもっと伝えていきたい。作り手や地域、文化も含めて食や一次産業について語り合い、共に応援するお店を目指します」と力強く話してくれた。
生産と消費、都市と地方、農業教育と生産現場。その乖離を、一足飛びに越えていくことは難しいかもしれない。だが、それぞれが歩み寄り、未来に向けた良い道筋を作っていくことはできる。北大マルシェは、その仲立ちをする存在として今後も進化を続けていくことだろう。
8万7600分の1食からでいい。私たちも食べ物のストーリーに、耳を傾けてみようじゃないか。