アルゼンチンの作家J.L.ボルヘス(1899-1986)の時間をめぐるエッセイは、読むたびに、日常とは少しちがう世界への入り口を新たに指し示してくれる。
そもそも時間とは何だろう。
ボルヘスは、「時間はわたしを作り上げている実体である。時間はわたしを押し流す川である。しかしわたしはその川である」、と書く(「時間に関する新たな反駁」)。「私」の前からすべてのものを運び去ってしまうのが時間だが、同時に自分自身もまた、否応なく時間に運ばれていく。だからその移ろいを客観的に見ることは難しいのだ。
ある講演では、同じ時間が決して再現されないものであることを思索する。ボルヘスは時間のそうした一回性の理由を、「人は二度同じ川に降りていかない」という、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉を引きながら、川の水は絶え間なく流れ去り、われわれ自身もまた変化していく存在だからだと、先にあげたロジックを変奏する(「語るボルヘス」)。さらにボルヘスは、「現在」という言葉の矛盾と不思議を問う。
「われわれは純粋な現在を思い浮かべることはできないでしょうし、そのようなことをしても無駄骨に終わるでしょう。現在には少しばかりの過去と、少しばかりの未来がつねに含まれています」(「同」)。
北大総合博物館で、阿部剛史准教授(海藻分類学)に標本の話を聞きながら、そこにある「現在」と、標本室に流れる特別な時間のことを考えた。
展示室3階アインシュタインドーム奥の海藻標本室には、日本の研究者によって発表された海藻類のタイプ標本のほぼすべてが収められ、適正に管理されている。
まず用語の説明が必要だろう。
海藻とは海の中に生息する多細胞の藻類で、わかりやすくいえば、コンブやワカメ、アオノリといった類いだ。日本近海には1500種類以上の海藻が生きているという。そしてタイプ標本とは、ある生物が新種として発表されるとき、学名の基準として作られた標本のこと(後の研究者が過去に作られた標本から選ぶこともある)。中でも、さまざまに作った同種の全ての標本の中からただひとつ選ばれたものをホロタイプ(正基準標本)という。同一分野の世界中の学者たちが、種の同定や近縁種との比較のために、このタイプ標本を参照する。つまりこれらは分類学上きわめて重要な標本で、分類学の最も重要な基盤なのだ。北大総合博物館の最大のリソースは、海藻をはじめ陸上植物、無脊椎動物、昆虫、魚類など約400万点に及ぶ学術標本だが、そのうち約1万3千点がこのタイプ標本だ。繰り返すが、とりわけ海藻のホロタイプ標本を見れば、国内に存在するもののほぼ全てがこの館に収蔵されている。
阿部さんは言う。
「ここにはタイプ標本をはじめ、日本の海藻学の黎明期から蓄積された重要な標本が約20万点あります。私は長くソゾ属という海藻の系統分類を研究していますが、それに加えて、これらの標本をしっかりと守りながら未来へと確実に引き継いでいくことが、重要な仕事になっています」
阿部さんは、時間という川が流れる、海藻の庭の園丁だ。
分類学がめざすのは、世界を俯瞰しながら、森羅万象を均質な認知空間に集めて分類し、秩序立てることだ。さながら神の意図を探求するようなこの営みは、キリスト教文明の世界観のエッセンスともいえるだろう。しかしなぜ標本をそのまま未来に引き継いでいくことが大事なのだろう。研究が尽くされたものは、画像などを残しておくだけで良いのではないだろうか?
「自然科学では論文内容に疑義が生じたときなど、ほかの研究者が同じ実験をして確かめる追試が行われます。分類学の場合は、実物標本がなければ再検証ができなくなってしまうのです」
阿部さんはさらに、標本の価値を、一本のより長い時間軸で説明する。
「たとえばコンブは、ヨウ素を含んでいます。自然界にあるヨウ素のほとんどは安定同位体(ヨウ素127)ですが、宇宙線やウラン238の自然核分裂によって、微量の放射性同位体(ヨウ素129)が恒常的に生成されています。ヨウ素129は自然核分裂によって1570万年で半分に減少しますが、つねに新しいヨウ素129も生成されているので、それが何億年も続いているうちに、ヨウ素127と129の割合は、ある一定の割合に収束します。この状態で、あるまとまった量のヨウ素が生物体に取り込まれたり、岩石や地下水に閉じ込められて外部との物質の行き来がなくなると、ヨウ素129の供給が止まりますから、徐々にヨウ素127の割合が高くなっていきます。このためたとえば地質学的研究に応用するならば、ある岩石や地下水が外部から隔絶されてどれほどの時間を経たのか、ヨウ素の同位体比を測定することで計算できるはずなのです。しかし1950年代には大気中で核実験がさかんに行われましたから、それ以前の、本来の地球上のヨウ素同位体比がわからなくなってしまいました。宮部金吾が明治20年代に北海道で採集して作ったコンブのタイプ標本群は、核実験の影響を受けていません。タイプ標本そのものは唯一無二の重要なもので、ヨウ素抽出のためにすり潰すわけにはいきませんが、重複標本もありますから、これらを使い、比較してデータを取ることができます」
札幌農学校二期生として内村鑑三や新渡戸稲造と机を並べていた宮部にとって、核エネルギーが兵器や発電などに使われる時代はとても想像できなかったことだろう。過去の標本と現在の比較は温暖化の研究にも活かせるし、コンブなどのチッソ同位体を調べることで、かつてのニシンの群来のこともわかるという(ニシンは磯辺のコンブなどに産卵する)。
「20世紀末にいたって、標本からは、進化の道筋を遺伝子レベルで分析することもできるようになりました(分子系統解析)。ですからいまの知見だけで標本の価値を判断することはまちがっています。これをもとに将来、いまの我々が想像もできない学際的な研究が起こるかもしれません」
なるほど未来のことは誰にもわからない。ここにある「現在」もまたやはり、時間の川に流されながら、同時にその川そのものになっているのだろう。50年百年先の研究者たちがこれらの標本をどんなふうに使っているか、予測することはできない。そして現代の研究者が、未来の研究の可能性を奪ってしまうことは決して許されないのだ。
北大総合博物館には、なぜこうして世界的な海藻標本が集まったのだろうか。理由を明かしてくれるのは、日本の海藻分類学者の系譜だ。以下阿部さんの解説をもとに整理してみる。
日本の近代植物学の基礎を作ったのは、1877(明治10)年に東京大学初代植物学教授となった矢田部良吉(1851-1899)だ。この矢田部のもとで藻類の研究をはじめ、日本の海藻分類学の先駆者となったのが、水産講習所(東京海洋大学の前身のひとつ)の岡村金太郎(1867-1935)だった。最晩年には日本水産学会会長も務めた泰斗だ。
明治20年代に北海道では、宮部金吾(当時札幌農学校教授)が北海道庁の委嘱を受けて道内各地のコンブ類の調査と研究に取り組んでいた。札幌農学校を卒業して開拓使御用掛となった宮部もまた、東京大学に国内留学して矢田部に師事していた。宮部は陸上植物の分類学者として名高いが、藻類や菌類の研究にも取り組み、1902(明治35)年の報告書で、北海道産のコンブ類の全貌をはじめて体系的に整理して発表した。
また、東京帝国大学で矢田部良吉の後任である松村任三(東京大学・小石川植物園初代園長)のもとで学んだ遠藤吉三郎(1874-1921)は、明治末に札幌農学校水産学科の初代教授となり、北海道の海藻研究に着手していた。しかし大正後期に40代の若さで病没してしまう。遠藤が残した貴重な標本や文献類は、母校の東京帝国大学に寄贈された。
この直後から、その東京帝大理学部で遠藤の遺産を使って卒業研究に取り組んだのが、山田幸男(1900-1975)だ。山田は、台湾やインドネシアなどをフィールドに研究を進める指導教官の早田文蔵のアドバイスを受け、岡村金太郎の薫陶も糧にしながら、海藻の世界を探求した。
1907(明治40)年。東北帝国大学設置の勅令が公布され、札幌農学校は札幌において東北帝国大学農科大学となる。そして1918(大正7)年には北海道帝国大学に改編された。札幌農学校からこの時代まで、この学舎では農学、医学、工学と、あくまで応用科学の研究と教育が実践されていたのだが、初代総長佐藤昌介を中心にした関係者のあいだでは、これらの軸になる基礎研究部門の設立が悲願だった。それが理学部だ。
その設置を粘り強く文部省に働きかけた結果、1926 (大正15)年、帝国議会で東京、京都、東北に続く、帝国大学として4番目の理学部の設置が決まる。
1927(昭和2)年春には創設委員会が設置されて、各分野の新進気鋭の若手研究者を全国から集めることになった。委員のひとりだった宮部金吾は、植物分類学の教授候補に山田を選ぶ。これに伴い山田は、欧米での2年間の留学のチャンスも得た。このとき同じように選ばれて欧米留学をかなえ、のちに北大教授となったひとりに、理化学研究所の物理学者寺田寅彦門下だった中谷宇吉郎がいる。名高い雪の博士、日本の雪氷学の開拓者だ。
山田幸男は、帰国した翌年には31歳の若さで教授に就任。以後精力的に研究と教育に打ち込み、北大を世界的な藻類研究の拠点のひとつに育てあげていく。山田が帰国した1930年に岡村金太郎が亡くなると、大量の海藻標本は山田が引き継いだ。遠藤吉三郎が残した標本は、所有は東大のままだが、山田の次々代の教授が交渉して北大に永久貸与されることになったのだった。山田の後進たちが各地の大学などで作った海藻標本も、多くは北大に集められていく。先にふれたが、現在ではここにある海藻の標本は約20万点に及ぶという。
「標本を利用する研究者にとって、一カ所にまとまって標本があることに価値があります。ここには内外からさまざまな研究者が訪れて、研究のためにこれらの海藻標本を活用しているわけです」
明治・大正期の突出した3人の海藻分類学者の薫陶を受けた山田とその教え子たちによって、北大の海藻研究は発展していった。
アジア太平洋戦争のあと、とりわけ冷戦期には研究者がソ連に行くことは困難だったが、戦前に樺太や千島列島で集められたたくさんの海藻標本が、そうした逆境を補った。
阿部さんによる藻類のレクチャーを続けよう。
19世紀までの博物学の時代には、生物は動いて活動する動物と、それ以外の植物に二分されていた。その中で藻類は、植物の下等なものの位置づけにあった。しかし生物を主に形態から探求する博物学の時代が終わり、内部深くに生命の謎をさぐる生物学の時代になると、進化の道筋に沿った分類が体系づけられていく。そして藻類は、分類上単一のかたまりではなく、正確にいえば「酸素発生型光合成生物から陸上植物をのぞいたもの」、と幅広く定義されるようになった。
「生物の系統樹(生物進化の道筋を描いた図)には、いたるところに藻類が現れるのです。私は高校生のときにそのことに気づいて、たちまち惹かれていきました」
このうち多細胞で海産のものが海藻で、これには褐藻、緑藻、紅藻の3つの系統がある。コンブやワカメ、ヒジキなどは褐藻で、アマノリ(アサクサノリなど)やフノリは紅藻だ。淡水の藻類だが、阿寒湖のマリモは緑藻だ。
現在の地球の生命環境に絶対に欠かせない酸素(大気の約21%)は、27億年前に光合成をする生物がはじめて出現したことに由来する、という話を聞いたことがあるかもしれない。この生物が、実は先カンブリア時代の単細胞の藻類だ。
大繁栄を重ねた彼らは太陽光をエネルギーにして、生きるための養分を水と二酸化炭素から作り、要らない酸素を放出する能力を持った。海中で飽和状態になった酸素は、やがて大気中にたまっていくことになる。太古の生物(微生物)にとって酸素は猛毒のような存在だったが、やがてその猛毒を利用して呼吸をする生物が現れた(好気性のバクテリア)。彼らが、すべての陸上生物の起源になるのだった。酸素は上空でオゾン層を形づくり、これが地表に届く有害な紫外線を軽減していく。最初の藻類が出現して20億年以上が経ち5億年ほど前になると、海にいた生物たちの一部がいよいよ陸上に進出を始めることになった。最初は植物、そして3億6千万年ほど前、魚類から分かれた両生類が脊椎動物としてはじめて陸に上がりはじめる。
また藻類が放出した酸素は、海水に溶けていた鉄イオンを酸化沈殿させていった。人類文明の基盤となった鉄資源、鉄鉱石のほとんどは、27〜19億年前にこうしてできたものだ。当時の藻類は肉眼では見えないような小さな単細胞生物(シアノバクテリア・藍藻・らんそう)で、それが途方もない時間を経て積み重なってかたまりになったものは、ストロマトライトという岩石や化石になっている。
藻類は、こうして数億年の単位で俯瞰することで見えてくる、地球の陸上生命の起源とのつながりの中で生きているのだった。
阿部さんが中心になって昨年(2021年)の夏、北大総合博物館では「藻類の時間軸—私たちの始まりへ」という企画展示を行った(1階企画展示室)。膨大な標本コレクションの中から、タイプ標本など分類学的に重要で、かつ色や形がとりわけ魅力的なもの約70点を選び、一般の人々に海藻の世界を知って楽しんでほしいという狙いだった。現代美術家の長坂有希さんによる、藻類からインスパイアされた、映像を駆使したインスタレーションも話題となった。
長坂さんは、知床の硫黄山の中腹から流れ出る温泉、カムイワッカ湯の滝と出会い、そこに棲息するイデユコゴメという、好酸性・好熱性の単細胞藻類に触発されて、太古の地球への旅を作品化したのだった。
「長坂さんからイデユコゴメのことを教えてほしいとアプローチをいただいて、カムイワッカでご自身が採集した実物の培養も担当しました。まったくちがう分野の人が関わることで、学生たちにも刺激を与えられます。そしてそれを好機として、北大の海藻標本を学会の外の人々にも効果的にアピールしたいと思いました」
標本室に戻ろう。
北海道大学総合博物館を訪れ、海藻標本室に身を置く研究者たちは、19世紀にさかのぼる先人たちの研究や集合的記憶が満ちた空間に包まれる。それぞれの研究人生は、そこにある一本の太い時間の川に結ばれるだろう。触発や発見に導かれたその複雑な川音は、この博物館だけが奏でることができる「場所のエコー」だ。一般には公開されていない北大総合博物館の標本室には、そんな静かな響きが満ちている。