年明けからの豪雪と雪かきに悩まされた北海道民にとって、今年(2022年)の春はとりわけ待ち遠しい。ふくよかな陽光を浴びる新緑への憧憬(しょうけい)には、内地の人々には想像できないほどの切実さがあるはずだ。
北海道では、春は怒濤のように押し寄せる。雪が消えてようやく大地がのぞくころ、ハンノキがもう地味な花をつけて花粉を飛ばし、ふきのとうが顔を出す(ハンノキ花粉症に苦しむ人もいる)。
早春の時間をとりわけ濃密におくる植物群がある。多くの草木がまだ半分眠っているうちに、林床の陽光を先取りして花を咲かせる、スプリング・エフェメラル(春のはかないもの)たち。カタクリやエゾエンゴサク、キクザキイチゲ、ニリンソウ、エンレイソウなどだ。道都札幌でも、目をこらせばこうした花々は意外に身近にあるものだ。彼らは、樹木やほかの野草たちが葉を茂らすころにはもう葉を落とし、あとの季節は地下茎になってじっと地中で生きている。なんと鋭利で俊敏な生き方だろうか。
札幌でも温暖化を実感する近年では、ゴールデンウィークにさしかかるころにはもう桜が咲き、連休がすぎるとオオバナノエンレイソウの群落が現れる。見るからに豪奢で、それでいて清楚なこの花のたたずまいは、北海道大学の校章にもなっているほど北方の春の風景には欠かせない彩りだ。学名(Trillium camschatcense Ker Gawl.)にはカムチャッカ産の、という種小名(しゅしょうめい)がついている。
エンレイソウの仲間には、花弁ではなく小さな赤褐色の萼片(がくへん)をもつエンレイソウ、白い花弁をつけるシロバナノエンレイソウ、そして大きく豪華な花弁を持つオオバナノエンレイソウなどがある。いずれも、芽吹いてから花を咲かせるまでに10年以上を要するという。それほどまでして開花をかなえ、蓄えた力を一気に解き放つからこそ、あの一瞬があるのだろう。
オオバナノエンレイソウには、アメフリボタンや、ヤマソバという別名もある。この花を摘むと雨が降るという言い伝えがあるらしい。また晩夏にはソバの実のよう大きな黒い実をつけるので、ヤマソバという。オオバナノエンレイソウのアイヌ語「エマウリ」は果実のことだから、アイヌの世界ではより衣食住に即した実用的な命名がされている。
ただ、利尻町立博物館の利尻の方言調査では、エゾエンゴサクのことをアメフリボタンという例もある。花の名前は、その綴られた音の中に土地の人々の生活史を響かせている。
北海道大学総合博物館のミュージアムショップ「ぽとろ」の最も目を引く平台には、オオバナノエンレイソウの美しい標本と、それをデザイン化したサコッシュ(袋)がディスプレイされている。北大札幌キャンパスで花を採取してこの押し葉標本にしたのは、首藤(しゅとう)光太郎さん(北大総合博物館助教・植物分類・系統学)だ。2019年の春に着任した首藤さんの研究室を訪ねた。
福島大学の大学院で博士号を取得した首藤さんは、新潟大学の産学官連携研究員を経て3年前、札幌を拠点にすることになった。福島大での卒業論文は水生植物がテーマで、新潟でも、全国に分布する水生植物を主な対象に研究活動に取り組んだ。北海道に来てからはこの島を主要なフィールドとしている。
首藤さんからはまず、北海道の植物分類学は本州以南に比べてまだまだ進んでいないと説明を受けて、少し驚いた。なるほど、そうなのか。
「植物標本が採集されていないエリア、されていても十分な数に達していないエリアがまだまだたくさんあります。その範囲を狭めていくことが自分の仕事です。現代は新種が次々に見つかる時代ではありませんが、大づかみでいえば、本州ではこれまでの調査研究で新種の発表や分布の把握はほぼ終わり、それらを遺伝子レベルで整理する段階にあります。北海道でも遺伝子レベルで整理された研究例は少なくありませんが、一方で整理のための基礎的な情報が十分ではない種もたくさんあるのです」
北海道の内陸部に和人の本格的な調査が入ったのは、幕府の老中田沼意次がロシアへの備えとして大規模な調査隊を派遣した、1780年代後半になってからだ。近代科学の枠組みでの調査のスタートは、札幌農学校教頭のウィリアム・クラークと、マサチューセッツ農科大学で彼の教え子だったデビッド・ペンハローに導かれた、1870年代。北海道の自然史研究を俯瞰すれば、歴史学者高倉新一郎は「北海道開拓史—特に開拓の基礎としての自然調査の進展—」という論文(1943年)で、次のように書いている。
(富国強兵を進める国策としての)「開拓が自然に對する人間の支配力の把持(はじ)に始まるとしたならば、開拓は先ず自然を知ることから着手されねばならぬ」
植物学については、「ペンハローは学生を引率して植物採集を行ひ、その基礎を固め、北方の植物研究に偉大な功績を残した宮部金吾博士を生むに至り、その一門の手により、東亜北方の植物学研究が長足の進歩をとげた」
科学の探究というよりも開拓政策の一環として立ち上げられた自然調査は当初、地勢や気象にはじまり、鉱物や木材、漁業資源など、あくまで産業としての実用性に重点が置かれた。だから宮部らが取り組んだ分類学の営みは、北海道の冬の長さや広さとあいまって、時間を要した。
首藤さんは北大総合博物館に着任した翌年、ラン科以外の被子植物では初となる、イチヤクソウのアルビノ(白化個体)を札幌で発見したことを報告した(発見は2018年)。これまでラン科のアルビノを用いて進められてきた研究が、系統的に離れたツツジ科でも進展することが期待されるという。植物の形態変異や分布の情報は、こうして少しずつ把握されていくのだろう。
一般公開はされていないが、北大総合博物館3階の陸上植物標本庫には、クラークとペンハローが1876(明治9)年に札幌近郊で採集した地衣類の標本が46点収蔵されている。また、クラークの薫陶を直接受けた札幌農学校一期生でのちに北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介(1856-1939)が、農学校開学の年(1876年)に採取したエゾゴマナなどもある。
北海道史のテキストや写真でしか触れることのできないこうした人物たちと、研究者は標本という実体を持つモノを通して交わることができる。博物館が社会に提示する価値の一端がここにあるだろう。
前回訪ねた海藻研究の阿部剛史さん同様、首藤さんもまた、自らの研究(菌従属栄養植物・水生植物)に加えて、偉大な先人たちが残した標本群に囲まれながら、その成果を守り未来へと引き継ぐ仕事を担っている。
ここにある標本群は、種の同定のほか、種内での形態の変異の比較や、レッドリスト(絶滅のおそれのある野生生物種リスト)の作成や改訂、あるいは分布の把握に役立てられ、研究や行政事業に欠かせない重要なものだ。研究者や学生が、道内植物の分布や生育の記録をめぐる研究を行う場合、必ずこの標本庫を訪れることになる。すべての標本は、同時代と、未来にこれらを活用する研究者たちのためにとても長い時間を生きているのだ。
「私の研究も先人たちの仕事の上にはじめて成り立つものですし、植物分類学では、百年前の論文を引用することがざらにあります。現在使われている植物の学名のスタート地点となった18世紀のリンネを引けば、その論文は二百数十年の時間を対象にしていることになります。そもそも植物学とは、標本の上に成り立つ学問です。私たちがそのへんに生えている植物の名前を調べることができるのも、みんな標本のおかげです。標本と標本庫は、すべての植物学研究の基盤なのです」
もちろん高いレベルで防災・防火の備えはあるものの、標本庫にもしものことが起こったなら—。万一この標本庫が失われそうになったとき、私もたぶんここで死ぬかもしれません、と首藤さんは笑う。
北大総合博物館の植物標本庫の源流は、クラークや佐藤昌介が採取した標本が残っているように、農学校開学時(1876年)にまでさかのぼることができる。標本庫には現在約30万点の植物標本が収められているという。正しくいえば、陸上植物。つまり蘚苔類、シダ植物および種子植物の標本群だ。ただしそのほとんどは維管束植物(シダ・種子植物)が占めている。この中には宮部金吾、工藤祐舜、舘脇操など名高い研究者たちをはじめ、北大で研究人生をおくった人々が採取したタイプ標本が300点以上含まれていて、これらは耐火金庫の中に厳重に保管されている。
前回もふれたようにタイプ標本とは、ある生物が新種として発表されるとき、学名の基準として作られた標本のことだ。のちの時代、未整理の標本群の中からタイプ標本が発見されることもある。
さらに驚かされるのは、すでに整理・配列(配架)された標本のほかに、ここにはなお10万点を超える未整理の標本が眠っていて、30名ほどいる館の植物ボランティアによって現在も少しずつ整理・配架が進められていることだ。札幌農学校時代に採集されたものでさえ整理が終わっていないものがあり、しばしば貴重な発見が起こる。先にふれた、佐藤昌介が札幌農学校開学の年(1876年)に採取したエゾゴマナの標本は、数年前にボランティアの手で見つけられたのだった。
また未整理の標本の多くは台紙に貼られずに、当時の新聞紙にはさんだままだ。その新聞紙に歴史的な価値があるケースもあり、古い新聞紙は図書ボランティアの手で整理・保管され、一部は館内で展示されている。
そしてもちろん、首藤さんはじめ現役の研究者たちの手で新たな標本も着実に加えられ、一定の基準をクリアしたアマチュアからの寄贈も重ねられていく。
『札幌の植物』(北海道大学図書刊行会・1992年)は、札幌に自生する1293種(132科558属)の植物の詳細な戸籍簿(目録と分布表による植物誌)だが、北海道植物友の会会長による前書きにはこうある。
「札幌市が日本の五大都市のひとつに数え上げられながら、これまで植物誌のような自然科学の分野への寄与率が非常に低いことは、一市民としてもかねがね不満に思うところであった」
発刊当時は北海道大学総合博物館もまだない時代。しかしそれから30年経った現在でも、札幌市に自然史系博物館はできていない。1980年代からの紆余曲折を経て市が2015年に策定したのが「(仮称)札幌博物館基本計画」だが、札幌市博物館活動センター(札幌市豊平区)」の活動があるばかりだ。ちなみにこの本の編者である原松次(1917-1995)の採集標本の多くも、北大総合博物館の標本庫に収められている。
館の標本整理でもそうだが、首藤さんは、とりわけ植物学には一市民、地域に根ざしたアマチュア研究者や植物愛好家の存在が欠かせない、と強調する。日々をそこに暮らす人間にしかわからない土地の詳細な情報や、世代を越えて受け継がれた生態系の変容のデータなどが、研究の基盤になるからだ。そうした人々と各地の自然史系学芸員との連携も欠かせない。北海道はやはり広い。プロの研究者や学生、博物館学芸員だけでは手も足も足りないのだ。
「福島大学で卒論のテーマを模索していた3年生の終わりに、東日本大震災がありました。もちろん勉強どころではなく、大学は閉まり、東京の実家にもどって悶々としていました。身の回りが少し落ち着いて大学が再開されたころ、花の季節はとうに終わっていました。そこで半ば仕方なく水草の世界を学びはじめたのですが、たちまち惹かれて、それが今に至っています」
卒論・修論・博士論文と研究を進めるにあたり、首藤さんは地域のアマチュア研究会の人たちにずいぶん助けられたという。
「人生の大先輩たちが、土地の風土や植生のことを若造の私にていねいに教えてくれました。こちらから伺うのはもちろん、車で1~2時間もかけて会いに来てくださる方もいました。フィールド調査の面白さを実感しながら、分類学の深くて魅力的な世界に導いてくれたのは、地域との関わりを大切にする恩師と、地域のそんな方々でした」
宮部金吾の時代といまが最もちがうことのひとつには、植物学のこうした裾野の広さと厚みがあるのではないだろうか。首藤さんは、自分が受けた恩を返していく意味でも、地域のアマチュアの人々との関わりを大切にしている。若い学徒に対しても同様だ。
しかし他方で首藤さんは、近年アマチュアの研究者や植物愛好家が減っていることを心配している。そのために北大総合博物館では、植物分類学研究のサポートを行うことができる人材の育成を目的に、「パラタクソノミスト養成講座」を、年に一度開催している。パラタクソノミストとは、準分類学者。学術標本やサンプルを正しく同定して整理する技能をもつ人だ。講師は首藤さん。中学生以上を対象に、植物の採集から同定、標本を作成するまでの過程が学べる。
整理されたものだけでも約30万点の植物標本を有する北大総合博物館だが、アジア太平洋戦争(1941-1945)の時代の標本は、ほとんどない。社会全体が、それどころではなかったのだ。首藤さんからそのことを聞いたとき、植物学の意味や価値をあらためて考えた。
「新種の発見とか種の絶滅といった研究は、それがなければ社会がすぐ立ち行かなくなるというものではありません。自分がやっていることは、世の中に『あった方が良いもの』のひとつ。広い意味のエンターテインメントの一種かもしれません」
首藤さんは謙遜気味に言うけれど、現在の世界情勢に照らせば見えてくるはずだ。人をわくわくさせるほどの学問のその営みは、社会にとってどれほど掛けがえのないものだろう。アマチュアもプロの研究者も自由に活動できる安全な経済環境があり、植生をはじめとした多様な生態系(豊かな自然)と、調査研究を動機づける人々のつながりや学びがあること—。それは、さまざまな人々が複雑に関わり合う地域の営みをよりいきいきと動かすリソースとなり、同時に、地域社会の強さやしなやかさの現れともなるだろう。
そしてその拠点として博物館が重層的に機能する日々は、戦争の対極にある、真に守るべき価値のある社会の姿にほかならない。
身近に自生する植物の四季にもっと目をこらし、その生態にふれることで、人は地域の風土との関わりをさらに豊かに深めることができるだろう。首藤さんが懸念する、アマチュア研究者や植物愛好家の減少のことが、とても気になってきた。