「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは山形県庄内町、9歳の時に父佐吉と篠路村烈々布に入植、身の生業は開拓農民、畑仕事に明け暮れど、21歳の時に若連中と芝居を披露、以来33年にわたり興行を続けた『篠路村烈々布素人芝居』の座長・花岡義信!」
石碑から、こんな名調子が聞こえてきそうだ。とはいえこれは、歌舞伎の人気演目「白浪五人男」の名台詞をもじって私が考えたセリフ。当の花岡本人に聞かせたら、お叱りを受けるかもしれない。何しろ彼は、篠路村きっての歌舞伎通。大沼三四郎という本名がありながら、「花岡義信」という芸名を持ち、当時は「篠路村烈々布素人芝居」、またの呼び名を「花岡一座」、後に「篠路歌舞伎」と称される村の地歌舞伎活動で自ら演出・主演をこなした大看板だったのだ。
「素人演劇の芸名を正面に刻んだ、見上げるような大きな石碑を作るという発想に驚かされます」と話すのは、北星学園大学文学部の高橋克依教授。専門はアメリカ演劇だが、10数年前から篠路歌舞伎も研究。現在、札幌市北区の事業に札幌大谷大学社会学部の森雅人教授と協力し、篠路歌舞伎などの保存と継承団体支援に向けた調査を進めている。
「リーダーの花岡義信をまつる碑が象徴するように、篠路歌舞伎は移住者の思いをまとめる原動力の一つでした」と高橋教授が語る通り、篠路歌舞伎は単なる「娯楽」の枠に留まらない存在意義と影響力があったという。「調べれば調べるほど新事実が出てくる。実は私自身、まだ言葉を整理しきれていません」と高橋教授を悩ませるほど、篠路歌舞伎をめぐるワンダーなクロニクル。まずはその成り立ちと終焉、復活までを駆け足で振り返りたい。
篠路歌舞伎の初演は、1902(明治35)年4月25日。ようやく雪解けを迎え、今年一年の無事や豊作を祈る烈々布神社の春祭りで、村の若者たちが披露したのが始まりだ。
そもそも篠路は1859(安政6)年、荒井金助が拓いた荒井村を起源とし、現在の札幌で最も早く開拓が始まった地区の一つ。隣村を合併するなどして徐々に大きくなり、九州の士族が屯田兵として入植したりしたものの、過酷な自然環境に敗れ、村を去る者も少なくなかった。とりわけこの辺りは湿地帯だったため、年中河川の氾濫に遭い、凶作にも見舞われた。歌舞伎の練習は、そうした状況の中、心も荒む長い冬、村の若者たちに「酒やバクチより健全なものを」という古老のアドバイスで始まったらしい。
初演時の詳細は不明だが、ラジオもテレビもない当時、顔見知りの若者たちが“役者”となって勧善懲悪の物語を演じたことが、どれだけ村人たちを楽しませたかは想像に難くない。初ステージは盛り上がり、すぐに村祭りでの“定期公演”が決定。地元の青年20人で始まった取り組みは、大正時代には丘珠や十軒地区の青年も加わって50人に膨れ上がり、各地区の秋祭りで芝居を披露したほか、札幌や幾春別炭鉱などへの“地方公演”も行われたとか。「北海道演劇史稿」(北海道教育委員会、1973年)によると、烈々布神社の秋祭りには石狩や茨戸、厚田、当別などからも人が訪れ、500人もの客でにぎわったというから、その人気ぶりが伺える。
「非日常を見せてくれる芝居は、現実の厳しさから気を紛らわせる大切な娯楽でした。また、歌舞伎を青年会の活動とすることで、村の若者全員に役割が当たり、団結心が培われたことも確かです」と高橋教授は語る。
青年会の入会年齢は15~30歳(特別会員は35歳まで)。いざ歌舞伎を演じるとなれば、セリフの言い回しにはそれなりの教養が求められる。若者たちは農作業の傍ら練習に励み、月イチで夜に勉強会も行ったというから、篠路歌舞伎は村の学力向上にも貢献したようだ。
何より歌舞伎は、若者たちの自尊心を高め、村への愛着を深める役割を果たした。「人の定着」=離村防止という点に、高橋教授は着目する。というのも、初演2年後の1904(明治37)年7月、篠路村では大水害が発生。「篠路村史」(1955年発刊)によると、被害は「全村過半の農作物は腐敗枯死し、官の救恤(きゅうじゅつ)にすがらざるを得なかった者が60戸」に上るほどだった。実はその6年前、1898(明治31)年9月にも大水害が起き、90世帯・400人余りが村を去っていた。再び人口減の危機に瀕するのを食い止めるように、篠路歌舞伎は活発化し、活動の幅を広げるのだ。
そして1921(大正10)年には、なんと人力式の回り舞台(!)が付いた立派な芝居小屋「烈々布倶楽部」を自分たちで建立。公演はいよいよ本格化した。
ところが、昭和に入ると村の篠路歌舞伎熱は下降していく。青年会のメンバーが代替わりした上、1931(昭和6)年の満州事変で多くの若者が出征し、座員の確保が難しくなったのだ。ラジオ放送や活動写真が始まり、身近な娯楽が歌舞伎だけではなくなったことも要因となった。
そうして1934(昭和9)年、篠路歌舞伎はひとつの区切りを迎えることになる。とはいえ自然消滅ではなく、「花岡義信引退興行」と銘打ち、花道を自分たちで飾ったのだから、あっぱれである。
公演名の冠は「共楽館落成こけら落し・札沼線開通奉祝記念」。「共楽館」とは活動写真も上映できる新しい大型集会場のこと、「札沼線」とは札幌と村をつなぐ国鉄路線のこと。娯楽の多様化、都会との接近。時代の移り変わりを示す、何とも象徴的な文言であった。
さて、冒頭で触れた通り、「地(農村)歌舞伎」はかつて全国各地で盛んに行われていた。文化庁の調査によると、山形県や岐阜県、愛知県など今も200以上の継承・関連団体が活動。たとえば、300年以上の歴史を持つ長野県大鹿村の地歌舞伎は、2011(平成23)年に原田芳雄さん主演の映画「大鹿村騒動記」(阪本順治監督)で脚光を浴びた。
道内でも現在、篠路歌舞伎と同じ札幌市北区を拠点とする「新琴似歌舞伎」が活動するが、かつては「栃木歌舞伎」(佐呂間町)「東予歌舞伎」(沼田町)「北標津歌舞伎」(標津町)「当麻内歌舞伎」(厚真町)など10を超える地歌舞伎があったことが、「篠路歌舞伎保存会」の調査などで分かっている。多種多様な地歌舞伎の中でも、篠路歌舞伎の特色は何だろうか。
それはやはり、「花岡義信」こと大沼三四郎の強烈な存在感に他ならない。
不思議なのは、9歳で篠路村に入植した彼が、どうやって歌舞伎の知識を手に入れたのかということ。
彼自身詳しく語っていないので定かではないが、故郷の山形県には「黒森歌舞伎」(現・県指定民俗文化財)や獅子踊りがあり、農村芸能に親しむ素地はあった。また、大阪や東京で活躍した喜劇役者の友人がおり、本人もしばしば上京しては本物の歌舞伎を観て台本や専門書を買い集めていたそうだから、プロの世界に憧れ、刺激を受けていたのは間違いなさそうだ。
観劇だけでは飽き足らず、自ら演じて楽しむようになるのは、地歌舞伎の共通点といえるが、注目したいのは、篠路歌舞伎は大沼の故郷・山形県に伝わる「黒森歌舞伎」の再現でも継承でもないこと。
「移住者の中には、夢を抱く者もいれば、ほかに住む場所がなくて半分絶望のような者もいたはずですが、『篠路を新しい故郷にするんだ』という思いのもと一つに結束しようとしていました」という高橋教授の説明から想像を膨らませると、「ここで新しい歌舞伎を作るんだ」という“芝居好きの青年”の野望と気概が感じられる。
だからといって、大沼が歌舞伎狂いのワンマンリーダーだったわけでは決してない。それは彼の引退後の行動から明らかなのだが、詳しくは後のお楽しみ。ここでは、最初に紹介した「花岡義信之碑」が、引退興行の翌年、丘珠や十軒の近隣地区を含む有志が発起人となって建立したこと。石碑に刻まれた賛同者は200人余りに上り、彼の徳の高さを示していることを挙げておきたい。
時代の波に飲み込まれ、いったんは消滅した篠路歌舞伎にスポットが当たったのは、1985(昭和60)年のこと。札幌市と合併し(1955年)、北区に編入された(1972年)篠路町にコミュニティセンターが誕生することになり、「こけら落としに歌舞伎を」という話が持ち上がったのだ。
花岡義信の引退興行から50年余り。
当時を覚えている人がどんどん減る中、実はその20年ほど前から篠路歌舞伎に関する記録や証言の掘り起こしが進められ、「忘れられた地域文化を取り戻そう」という機運が高まっていたのが背景にあった。それは1965(昭和40)年、当時84歳の大沼へのインタビューに端を発し、「北海道演劇史稿」での詳述(担当執筆者の菅村敬次郎氏が「篠路歌舞伎」と命名した)、札幌のフリーライター・中村美彦氏による自費出版本と続き、資料やパネル展、写真集などの広がりを見せていたのだ。
というわけで、住民有志が「ほてから座」なる劇団を結成。メンバーは皆、幼い頃に篠路歌舞伎を見て育った世代で、悪戦苦闘しながら篠路歌舞伎の再現に臨んだ。元祖・篠路歌舞伎は衣装やかつらも自作だったが、今回は京都からの取り寄せ。現代風にアレンジした「白浪五人男」のさわり部分を開館記念祝賀会の余興として披露したところ、大反響を呼んだのである。
見事華々しく蘇った「篠路歌舞伎」。その復活劇は、さらなる新展開を見せる。(つづく)
札幌市北区公式サイト「伝統文化の伝承活動」
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