幕末の俊英たちを呼び寄せた教育。

箱館諸術調所学寮書付

写真提供/市立函館博物館
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五稜郭の設計で知られる洋学者武田斐三郎が担った洋学の高等教育機関「諸術調所(しょじゅつしらべしょ)」の理念を記した、武田直筆の書き付け(一部)。

1856(安政3)年に箱館に開講した諸術調所では、兵学、天文学、地理学、鉱物学、数学、物理学、化学、造船術、建築、航海術など国防に直結した実学的な工科を学ぶことができた。同時代の日本の最先端の教育機関だ。開学は、のちの東京大学につながる幕府直轄の洋学研究教育機関「蛮書調所」の開学に半年ほど先駆ける。場所は、当時の箱館奉行所にほど近い、現在の基坂の中ほどだ。

教科書はオランダの原書や翻訳書が使われた。正式な教員は斐三郎ひとりだったが、生徒は互いに得意分野を教え合う。知識を単に上から授けるだけの学校ではなく、影響し合う人々とともに過ごすことで知性が創発的に育まれていったという。
日本のどこにもなかったこのような教育機関が、江戸や京都から見ればはるかな辺境にある箱館に、なぜ作られたのだろう。それはこの時代の箱館が、北方の大陸世界や欧米と日本の境界に位置して、さまざまな人やモノや思想を引き寄せた、特別な場所であったからにほかならない。

日本の植民地化をねらう列強の脅威にさらされながらここで学んだ若者たちは、やがて近代の最前線で大きな仕事をなしていく。日本の鉄道の父となった井上勝、東大工学部の前身を立ち上げた山尾庸三、郵便制度の生みの親である前島密、日本銀行初代総裁を務めた吉原重俊、海軍大臣となった今井兼輔、そして開拓使のシンボルマーク五稜星を考案し、開拓使海運事業の中心にいた蛯子末次郎などのことだ。

授業料は無料。しかも入学者は、幕臣の子弟に限らず、意欲があれば足軽やその子弟にも及んだ。だからこそ、全国から俊英が箱館をめざした。同志社大学を創立することになる新島襄が箱館に現れたのも、武田に教えを乞うためだった(新島が来たときには武田は江戸に転出した直後で、願いはかなわなかった)。井上と山尾は、1863(文久3)年、長州藩がヨーロッパに秘密に留学させた伊藤博文らの5人組、長州5傑(ファイブ)のメンバーにもなっている。

書き付けには、以下のような一節がある。

江戸表学問所ノ儀ハ、官藩ノ区別厳重相立、書生寄宿ノ名目有之侯得共、於当表右等ノ差別相立侯テハ、却而不都合ノ廉も可有之侯ニ付き、寮中のみは身分、貴賎ニ拘らず、毎月二日評を以而席順相立、学術ノ成不成ニ準じ位等を分け侯ハバ、自然励ニも可相成と奉存侯、追々成業のもの多々出来侯ハバ、如何様ノ御仕法も相立申侯間、差向前文ノ通リ御取行被成可仕法存侯

武田斐三郎は10年あまり箱館で暮らしたが、明治の開拓使が取り組む事業の先駆けとなるめざましい働きをみせた。最も知られているのが五稜郭の設計だが、ほかに弁天岬台場(五稜郭の前衛として箱館港に作られた砲台)の設計や科学書の著述や翻訳、溶鉱炉の建設などがあげられる。また、文久元(1861)年には箱館で建造した西洋型帆船亀田丸でロシアのニコライエフスク(アムール川河口近くの拠点都市)まで航海を行い、地理調査や交易を実施している。これは清やオランダ以外の国との、日本最初期の輸出貿易だった。

谷口雅春-text