「明治四年及五年札幌市街之圖」という地図がある。
創成川の歴史を調べる人には、豊平川から引いた吉田堀や、大友堀から別れてまっすぐに北上する寺尾堀の文字があり、すでにこの時代に市街南部と茨戸(現・札幌市北区)がなんとか水路で結ばれた史実をなぞることができる。そして目につくのが、1873(明治6)年に竣工することになる開拓使本庁舎の敷地と、創成東にある「工業事務所」だ。
「北海道を開拓したのは日本人であったが日本文化ではなかった」—。河野広道(考古学・昆虫学。1905〜1963)はそう書いている(「続北方文化論」)。河野の論考はこうもつづく。「旧内地文化は封建的、島国的、独善的、割拠主義的であるのに反して、北海道文化はより自由主義的、開放的、普遍的、世界的である。進んで他の長を採り、潔く自らの短を捨てることによって発展してきたのである」—。先行するアイヌ文化がほとんど黙殺されているものの、いまも一部の北海道民が「かつてありえた北海道」をしのぶときにしばしば引用する一節だ。
統計らしい統計が現れはじめた1873(明治6)年の数字では、北海道の人口は約17万人。うち10万人あまりは江戸時代から和人が多く移り住んだ渡島半島に集中していた。
「中央」の和人から見た北海道は無主の地で、日本が列強の背中を追いかけて近代国家へとテイクオフするために不可欠な、天然資源の宝庫だった。そして最も重要なことは、虎視眈々と南下をはかるロシアへの防衛拠点を築くことだった。一刻も早く殖民を進めて産業を興し、太古からアイヌの人々が暮らすこの大きな島を内国化しなければならない。そのために開拓使では欧米から多くの技術者や教師を招き、他方で留学生を海外に派遣もした。なにしろブラキストン線以南の瑞穂の国の文化や技術は、亜寒帯の入り口にある北海道の開拓には歯が立たなかったのだ。
開拓行政のリーダーを育てる札幌農学校(現・北海道大学)が開校(1876年)して、御雇教師頭取のウィリアム・クラークのもと、デビッド・P・ペンハロー(化学・英語学)、ウィリアム・ホイーラー(土木・数学)、ウィリアム・ブルックス(農学)などが教壇に立った。
農学校に先駈けて1872(明治5)年から、開拓使は創成川の東に器械場の建設をはじめた。現在の北大通東2丁目付近に工業局事務所を置き、周辺にはアメリカから購入した先進の円鋸や竪鋸、柾挽きの蒸気機械と水車が備えられた。高出力のタービン水車だ。地図にあるように、豊平川から引いた大友堀(現・創成川)の水を入れるふたつの貯木場が掘られた。この事務所は、1877年に建てられたものが北海道開拓の村(札幌市厚別区)に創建時の姿で移築されている。
器械場の開設を率いたのは、開拓使器械方頭取となったアメリカ人N.W.ホルト。豊平川に日本最初期の洋式橋梁として架けられた初代豊平橋の設計者としても知られるエンジニアだ。一帯には農工機具を製造する鋳造所や鍛治(かじ)場、家具や建具、農具を作る木工所、旋盤を備えた鍛工所、漁網の製網所や穀物の製粉所など、3丁四方に40棟以上の施設が建てられ、200人以上の職工が忙しく働いたという。新開地にはいくらあっても足りない建設資材となる角材や板材にはじまり、最新の西洋式農具や船具、馬車、ロシア式の橇(そり)など、原野を開きまちを起こすために欠かせない資材や器具・工具がここでフル生産されていった。器械場のすぐ北には麦酒醸造所と葡萄酒醸造所が開業(1876年)したし(のちのサッポロビール第一製造場、現・サッポロファクトリー)、創成東は、北海道開拓の最前線を担う一大工業地帯だったのだ。
この地域のモノづくりと職工の営みは、遠く時代を下って昭和30年代に発寒工業団地などができて工場群が移転するまでつづいた。
札幌は、和人の目には何もない原野に見えただろう土地に、明治はじめにゼロからまちづくりがスタートした人工都市だ。麦酒やワインの醸造から開拓使本庁舎や札幌農学校のような西洋建築、あるいは広い街路が区切る街割りなど、開拓事業を動かしていた欧米由来の新技術と技術思想は、文明開化に突き動かされる人々の耳目を大いに集めた。中でも創成東の器械場は、いまの言葉を当てれば見たこともないハイテク工業団地だっただろう。
1875(明治8)年の札幌のようすを記録した興味深い記録が活字になっている。現在の桑園地区の開拓のために開拓使に雇われてやってきた酒田県の旧士族、堀三義の『北役日誌』だ。堀は6月から3カ月以上滞在して、桑畑開墾の本業のほかに、札幌のまちづくりのようすを活写している。
堀は例えば、西洋式の開拓使本庁舎の敷地は土塁をめぐらせて10万坪もあるとか、300軒ほどある官邸のたぐいがみな西洋館づくりであることに驚く。また開墾の現場では、一人の農夫が4頭の牛に最新の洋式農具を引かせて、短い時間で数百坪も開墾してしまうさまに人々が驚いている、と記す。
器械場についてはこう書いている。
「二階造リノ工屋ニ上下西洋機械ヲ見ニ行シニ其巧ミ絶妙ニシテ(中略)材木ヲ削リ穴ヲ穿(うが)ツニ鉋鑿鋸(カンナ・ノミ・ノコ)及ビ諸器ノ自ラ動キ働キ忽(たちま)チニ功ヲナス」「巨材ニハ蒸気装置ニテ火ヲ用イ細木ニハ車装置ニテ水ヲ用イタリ」。
大木を製材する蒸気装置と、小さな木に使われる水車動力の機械は当時、ともに目を見はるほど珍しいものだった。製粉場に寄ると、挽き臼が自動で回って五穀を一人一日で60〜70石(9トン以上)も製粉してしまう能力に驚嘆している。
開拓使器械場の痕跡は、現在具体的にはほとんどたどることができない。しかし情報誌や観光サイトでふれられる「創成東」や「創成川イースト」の文字列の裾野に、かつて北海道を北海道たらしめるもっとも濃密な北海道らしさが息づいていたことに思いを巡らせてみよう。しかもいまの僕たちには、開拓使が描いたビジョンを今日的に読み換えていく道も開かれている。戦後の河野広道らの北海道独立論に、先住していたアイヌの人々の歴史や文化、そしてアイヌと和人との深い関わりのあゆみを掛け合わせながら、あらためて北海道の固有のかたちを構想していくこと。そこから新たな札幌歩きがはじまるはずだ。