創成東の西の境界は創成川で、東の境界は東8丁目通だ。北上する東8丁目通は北1条で変則的に少し右に振れ、そこにできた三角形の土地には交番があって、その北側の空き地は小公園(東7丁目緑地)になっている。右に折れているのは、主要な都市軸である南一条通が豊平川と交わる角と東8丁目通がずれているためだ。
東8丁目通の正式名称は、市道真駒内篠路線。豊平川両岸の長大な堤防を利用した真駒内と北区の篠路方面を結ぶ主要市道で、函館本線との交差は札幌オリンピック(1972年)の直前にアンダーパス工事が完了していた。鉄路をくぐって北上すると、五輪ではフィギュアスケートの会場になった美香保体育館(北22条東5丁目)がある。真駒内篠路線は、創成川通を補完するオリンピック道路として再整備された道だ。
歴史をさかのぼれば、一条大橋の最初の架橋は1923(大正12)年。きっかけは薄野遊郭の移転だった。明治期には郊外に位置した薄野遊郭が、まちの成長につれて市街の一画を占めるようになった大正期。札幌区(当時は市制施行前)は、遊郭を豊平川対岸の上白石(現・菊水地区)に移転させることにする。薄野遊郭にほど近い中島公園をメイン会場に、開道50年北海道大博覧会が開催(1918年)されることも移転を後押しした。全体の移転が完了したのは1920(大正9)年。しかし市街中心部と遊郭を直結する橋がない。そこでオーナーたちが自腹で南一条から白石に橋を架け、のちにまちに寄付したのだった。
創成東の東の境界に近いこの界隈には、エリアを代表する歴史建築がある。札幌軟石を使って1898(明治31)年に建てられた、カトリック北一条教会旧聖堂と、1916(大正5)年竣工の現聖堂だ(北1条東6丁目)。古い地図では天主教会と載っている。新旧ふたつの聖堂は、札幌市の「札幌景観資産」に指定されている。もともと葡萄酒醸造所に納める葡萄園だったこの土地が教会の所有になったのは、1891(明治24)年。開拓使から実業家桂二郎(長州出身。兄は陸軍大将・首相となった桂太郎)に払い下げられた葡萄酒醸造所が、札幌の谷七太郎に売却された年だ。教会によれば、桂家にゆかりのある信者が、土地の所有者安達民治とのあいだをつないだという。
創成東では、創成川に面した西の境界域にも伝統を誇る教会がある。こちらはプロテスタントの、日本基督教団札幌教会礼拝堂だ(北1条東1丁目)。献堂(建物が竣工して世俗から聖なる使用へと分かつこと)は1904(明治37)年。どちらの教会も古くからの信者が集い、北海道のキリスト教史で重要な位置を占めている。
札幌のキリスト教は、札幌農学校初代教頭ウィリアム・クラークが1876(明治9)年に来札したころから本格的に始動する。クラークは学生たちに聖書を配り、教育の軸にキリスト教の精神と信仰を据えた。これが、1882(明治15)年創立したプロテスタント教会、札幌基督教会(のちの札幌独立教会)などに結ばれていく。
カトリックの布教も1880(明治13)年ころからはじまり、その翌年にはカトリック北一条教会の創立者ウルバン・フォリー師が札幌を訪れて伝道所を開いた。
内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らによる札幌バンドの活動で、札幌は横浜や熊本とならび、日本のプロテスタント発祥の地のひとつといわれる。カトリックの布教も、同じく明治前葉から、フォリー師や後任のラフォン師らによって精力的に進められていた。観光イメージの中の道都は、クラークらのふるさとである米国東海岸ニューイングランドと気候風土も似た、西洋音楽やキリスト教会が似合う青年都市といえるだろう。しかしフォリー師らが来札したころ、まちはまだ都市の体(てい)をなしていない。新開地ゆえに、地域社会の成り立ちもとても弱かった。
『札幌繁盛記』(1891年)にはそのころの札幌は、「蓋(けだ)し当代の仏耶(仏教・キリスト教)ともに未だ社会の道徳を維持し人間の心事を涵養するに足らざるものなり」、とある。その7年後に出版された『札幌沿革史』にも、「新開地は徳義の念薄く、宗教に冷淡なり」といった一節が見える。
知識層や高級官僚たちは別にして、一攫千金を夢見ながら内地の故郷を捨て新天地に渡ってきた、その日暮らしの人々。あるいは居場所を失って北へ向かうしか生きる術がなかった人々。そんな多くの札幌人にとって、どんな神仏にしろ信仰は、身の置き場ができてからはじめて手が伸ばせる、ぜいたくな糧だっただろう。一方で『札幌市史』では、禁酒運動や青年・婦人運動、災害救済運動などで、「教会は小さな団体であったとはいえ、建設草創期の札幌の中では早くから市民に根を下ろした団体の一つとして存在していた」、ともある。本州以南のまちとちがい、札幌では教会の成立が、神社や寺院に対して必ずしも後発ではなかったと見ることもできるようだ。
カトリック北一条教会の礎を築いたウルバン・フォリー師のダイナミックな人生を、『宣教師・植物学者フォリー神父』(小野忠亮)や『喜び、祈り、感謝』(カトリック北一条教会)などをもとにまとめてみよう。
ウルバン・フォリーは1847年、南フランスの農村デュニエール村で生まれた。パリ外国宣教会神学校に学んだのは普仏戦争(1870〜71)の時代。司祭の位を受けるとかねて希望していた日本へ派遣される。1873(明治6)年、明治政府がキリスト教禁制を解いた最初の年だ。まず新潟に赴任したが伝道は進まず、一方で本国の植物学者から日本の植物を採集するように依頼されたので、宣教をかねて各地の植物採集に取り組むようになる。山野をめぐるうちにほどなくこちらも天職になっていった。
やがて東京に移り、1878(明治11)年には来道して函館を拠点に活動。アイヌへの布教と生活支援で知られる英国聖公会のジョン・バチェラーも函館にいたころだ。
1881(明治14)年初頭には札幌に到着。この年は開拓使が10年計画で取り組んだ開拓政策の最終年で、成果を視察するために夏には明治天皇がはじめて来札した。札幌がまだ戸数1400戸、人口わずか7千5百人ほどのころだ。翌年には仮教会を南4条東1丁目に置き、北海道での伝道に力を入れる。以後10年以上にわたって札幌や近郊、さらには東北、果ては樺太や千島列島にまで足を伸ばして、信者を着実に増やしていった。
明治20年代にはパリ自然博物館通信員に委嘱され、植物採集で得た謝金を各地の聖堂建設に当てていく。1889年のパリ万博では、日本での精力的な活動に対して本国から植物学賞が贈られた。
超人的な気力と体力で仕事を重ねたフォリー師だったが、1890年代半ばに大きく体調を崩すと休養を命じられ、フランスへ帰国する。しかしこのときも500㎏にもおよぶ植物資料を船に持ち込み、船上で乾燥させながら標本づくりに励んだという。それらはのちに、欧米各国の植物学者に送られた。10カ月ほどの療養で体力を回復すると、ふたたび来日。以後は青森を拠点にしながら、北海道や東北での布教と植物採集の旅がつづいた。
札幌ではこの時代、1898(明治31)年に札幌軟石を使った司祭館と聖堂からなる建物が完成している。これが現存する、カトリック北一条教会旧聖堂だ。
1900(明治33)年には、フランス学士院から栄えある植物名誉勲章を受けた。このころになると採集地は朝鮮半島や台湾にまで広がっていた。1908(明治41)年には小樽教会のコルニエ神父を伴って樺太に渡り、豊原(現ユジノサハリンスク)に伝道所を開く。かと思えばその翌年にはハワイに長期滞在して宣教と採集に明け暮れた。大正に入ってもこうしたペースは変わらず、青森の職が解かれると台湾に向かった。しかし、ほどなくして病に倒れ、まもなく台湾で亡くなってしまう。1915(大正4)年の夏のことだ。
フォリー師が亡くなった翌年の1916(大正5)年。カトリック北一条教会では、当時の教区長ヴェンセスラウス・キノルド神父らの取り組みによって、現聖堂の献堂式が行われた。キノルド師は、司祭の養成や聖書・聖歌集などの出版にも取り組み、現在の藤学園や札幌光星中学・高校を創立した教育者としても知られるドイツ人宣教師だ。