札幌市公文書館のウェブサイトで見られる戦前の北海タイムスなどの記事をガイド役に、1935(昭和10)年の地図で創成東を見てみよう。札沼線が石狩沼田まで全通して、札幌の人口があと少しで20万人を超えるころだ(戦前の北海タイムス紙は言論統制政策によって他紙とともに現在の北海道新聞に統合される)。
北大通東7丁目に「隣保館」がある。正式名は、愛国婦人会北海道支部札幌隣保館。隣保館とは、貧困などで生活に困難を抱える人々を助けるための施設で、ちょうどこの年の春、館では夜学部が新設されている。北海タイムスの3月の記事には、これによって「薄幸の青少年に勉学の道を開くことになった」、とある。科目は中等学校初等程度の国語、英語、地歴、理科などで、学習科、補修科、英語科の三科に男女会わせて百名の募集。
翌年には診療所も併設して、一日50〜60名の患者があった。前後の年の記事を拾っていくと、映画と舞踊の夕べを催したり、館の子どもたちが陸軍病院を訪問して入院中の兵士を唱歌や遊戯で慰問したり、母親講習なども開かれている。
豊平川河畔近くの女子高等小学校(市政施行前なので札幌区の女子尋常高等小学校)が開校したのは、東小学校に先駆ける1899(明治32)年(南2条東6丁目)。東小学校の不衛生な土地よりは良い環境にあったのだろう。1907(明治40)年には校舎の一部を、区立女子職業学校の開校に提供している。同校はのちの札幌市立高等女学校、現在の札幌東高校(白石区菊水)の源流だ。ここは一条大橋のたもとだが、小学校開校のころはまだ橋はない(架橋は1923年)。
女子高等小学校は、戦後は市立一条中学校となる。1948(昭和23)年から米軍の日本占領が終わる1952(昭和27)年まで、一条中学校は占領軍の教育政策による北海道で唯一のモデル・スクールになった。校舎も整わない中で戦後の学制改革が一気に進められたこのころ。校舎はなんと1学年12クラス、2700人もの生徒であふれていた。ここを舞台に、生徒の自治組織としての生徒会が運営されたり、学校行事について職員会議で生徒が意見を述べる機会が作られるなど、戦後民主主義の画期的な取り組みが繰り広げられたのだった。根底にあったのは、個人や家族に優先して国家と軍国主義があった戦前の社会構造を、戦勝国の手で作りかえていく政策だった。
女子高等小学校と一条中学があった土地には、1982(昭和57)年に札幌市民ギャラリーがオープンしている。秋の全道展をはじめ、多くの公募展や展覧会が開かれている、市民のためのアート空間だ。
隣保館や東小学校でふれてきたように、創成東の東の境界域にはかつて、貧しい人々が都心の富の縁(ふち)に貼りはりつくように暮らした時代があった。象徴的なのが、廃品回収や日雇い仕事で暮らす人々が集まった「サムライ部落」だ。サムライとは、廃品回収の商売道具火バサミを腰に差して、金目のものを求めて市街地をめぐる彼らの姿に由来する。
昭和恐慌のころ(1929〜31年)、職や家を失った貧しい人々が東橋のたもとに掘っ立て小屋を建てて暮らしはじめた。無主の河川敷だから当面地主から追い立てられる心配はないが、豊平川が増水すれば流されてしまう土地。堤防護岸と緑地できれいに固められたいまの豊平川河畔からは想像できない場所だ。不安定なのは稼ぎも同様だ。食うや食わずの日々があると思えば、1937(昭和12)年の北海タイムス紙には、鉄類高騰のインフレ景気でうるおったサムライ部落民が賭博で逮捕されたとか、俺たちだってお国の力になりたいと、北海タイムス社に愛国献金を寄せた、などとある。
終戦直後の部落は、外地からの引き揚げ者なども加わって一気に規模をふくらませた。1946年の同紙には、53戸131人の人々に札幌市から移転命令が下った、とある。1950(昭和25)年の同紙には、市ではこの人々(99世帯250人)のために、苗穂か川向こうの豊平に「特殊庶民住宅」を用意する計画を立てたが、両地区ともこれに猛反対している、とある。対岸の白石村が札幌市と合併するのはこの1950年で、同じく対岸の豊平町の札幌市編入は1961年だった。
昭和30年代に入り1956(昭和31)年12月の紙面には、「札幌の吹き出もの」サムライ部落もいよいよ姿を消し、住民は白石や琴似に建てられた市営低家賃住宅などに移る、とある。しかし豊平河川敷に暮らす人々が完全に消えたのは、札幌オリンピック開催が近づいていた1960年代後半のことだった。
創成東の貧者たちをめぐる挿話でさらに欠かせないのが、隣保館夜学部に先駈ける、遠友夜学校の活動だ。1935年の「札幌市街図」にも見える遠友夜学校は、日清戦争があった1894(明治27)年、南4条東4丁目に創立された。貧困のために学校に行けない子どもや、教育を受けられなかった大人のために新渡戸稲造らが立ち上げた学費無料の夜学だ。
新渡戸は札幌農学校を二期生として卒業したのち、アメリカやドイツで農業経済学などを学び、1891(明治24)年に帰国すると母校の教授となった。夫人は、アメリカ時代に出会ったメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)。あるとき万里子夫人のもとに、アメリカの実家から1千ドルが送られてくる。新渡戸夫妻同様に敬虔なクエーカー教徒である夫人の両親が世話した人物の、遺産の一部だった。これを元手に新渡戸は、札幌独立教会の日曜学校の隣接地を建物ごと買い取って学舎とした。校名の「遠友夜学校」は、遠い国から届いた遺産を役立てたことを、論語の「朋(友)あり遠方より来たるまた楽しからずや」に重ねてつけられたものだ。
当初は札幌農学校の学生たちが、近所の子どもに希望する学科を教える寺子屋形式の学校だった。やがて歴史や地理、漢文など一般の学科に加えて看護法や礼式、裁縫などの授業が加わり、日曜日には新渡戸も来て修身講話を行うようになる。ほどなく道庁から私立学校の認可を得て、文部省の小学校令に則ったカリキュラムが整えられていった。新渡戸が札幌を離れたあとは、宮部金吾や有島武郎らが代表を務めた。
太平洋戦争が激しさを増した1944(昭和19)年、当局から国家総動員のために閉校命令が出て、遠友夜学校は50年の歴史を閉じた。この間、初等部1千人あまり、中等部170人ほどがこの稀有な学舎を巣立っていった。北海道新聞では1957(昭和32)年1月から「生きている札幌史」という連載がはじまったが、第1回で取り上げたのが遠友夜学校だった。記事には、これら多くの卒業生は、「いずれもこの施設がなければ無学のうちに終わった人たちだ」という一節がある。
遠友夜学校のあった場所には、のちに北海道中央児童相談所や札幌市勤労青少年ホームが建てられ、現在は「新渡戸稲造記念公園」になっている。札幌にゆかりの深い彫刻家山内壮夫の作品、「新渡戸稲造満里子両先生顕彰碑」がある。
都心に隣接しながらもながく札幌の端でありつづけた「創成東」は、豊平川で市外とすっぱりと分断されることで、繁栄する都心の陰を一身に背負わされてきたのだろう。とりわけ、少なくない貧困者が期せずして身を寄せた東南端の界隈では、その後の福祉や教育分野の先駆となるさまざまな取り組みが繰り広げられた。「創成東」とは、物理的な空間に重ねて人々の経済動向や思いが形づくってきた場所であり、土地と生身の人間の関わりが薄れがちな現代の都市が、あらためて参照していくべき資源なのだと思う。