北海道の西洋農業前史 -1

すべてはガルトネル農場からはじまった

ガルトネルが持ち込んだブドウと同種(ブラックハンブルグ)のブドウが七飯町歴史館で栽培されている。七飯では、彼が持ち込んだ複数種を総称して「ガルトネルブドウ」と呼ぶ

蝦夷地(北海道)での西洋農業には、札幌農学校に先駆ける複雑で興味深い前史があった。舞台は道南の七飯町だ。函館に隣接したこの田園地帯からサイドストーリーをはじめよう。
谷口雅春-text&photo

日本の西洋農業発祥の地、七飯

函館公園にあるレトロな観覧車は、日本最古の現役観覧車だという。もともとは1950(昭和25)年に、七飯(ななえ)村(現・七飯町)の大沼公園に設置されたものだ。また北海道の図書館史を調べると、1913(大正2)年に森町の医師村岡格が七飯の軍川(いくさがわ)に私立岳陽文庫を設立したとあって、気になっている。村岡は松前藩の藩医の家系で、アイヌの人々との交友やアイヌ資料の収集で知られるが、図書館との関わりでも、函館図書館をつくった岡田健蔵に先駆ける人物のようだ。中世から和人の在地社会があった道南には、和人の歴史が浅い「奥地」の札幌に比べてはるかに複雑で興味深い史実がたくさんあるが、七飯も例外ではない。

七飯には、松前藩の時代から農業を中心にした和人のさまざまな営みがあった。1845(弘化2)年、28歳の松浦武四郎は、箱館の商人和賀屋孫兵衛の手代の名目で根室や羅臼まで旅したが、七飯を通ったことも記録している(『蝦夷日誌』)。幕府が二度目に蝦夷地を直轄して武四郎が幕府雇になるより前の紀行だ。七飯は西に向いて日当たりの良いところで、人家が30軒あまり、毎日薪や野菜を箱館に出荷していて炭の生産も盛んだ、とある。

七飯町の紹介にはしばしば、「日本の西洋農業発祥の地」という枕詞(まくらことば)がつく。幕末にプロシア(ドイツ)の商人ラインハルト・ガルトネル(以下R.ガルトネル)がここで農場を開き、プロシア式の農業を実践したからだ。ガルトネルは、日本にはなかったプラウ(洋犂・ようすき)やハロー(砕土機)、モア(草刈機)などの農機具にはじまり、小麦や大麦、燕麦、なたね、キャベツなどの種、りんごやなし、ぶどう、さくらんぼなどの果樹をプロシアから持ち込み、日本人の農夫も雇いながら、プロシア流の農業に取り組んだ。1869(明治2)年には、時の蝦夷政権(榎本武揚の蝦夷共和国)と契約を結び、300万坪という広大な土地を99カ年にわたって借り受けることになる。のちに新政府はこの驚くべき契約をなんとか解消したのだが、世が世であれば、七飯町の中心部は1968(昭和43)年までドイツだったわけだ(プロシアを中心にドイツ帝国が成立したのは1871年)。香港が1997年の6月までイギリス領だったことに照らすと、七飯に押し寄せた近代史の潮流をリアルに想像することができる。

R.ガルトネルとはどんな人物だったのだろう。後世の人物評は、さほど高くない。例えば契約の解消にあたった開拓使の幹部(大主典)宮木経吉は聞き書きの記録(『史談速記録第46』)で、箱館戦争の片がつくとガルトネルは箱館府のトップと談判を重ねて、「公然日本政府から借受けましたものであると云ふて頻(しきり)に開墾に従事し迷惑を其(その)近傍に及ぼしました譯(わけ)でござります」と非難している。発言は1896(明治29)年のこと。ガルトネル農場で働いていた人物の1936(昭和11)年の聞き書きを収めた『北海道開拓秘録・第一篇』(若林功1940年、1964年改定)では、改訂者の加納一郎は、ガルトネルの功績を認めながらも、「4キロ四方という大面積の土地を榎本総督からうまく手に入れて、営農でひともうけを志したのであろう。土地の権利を獲得するためにあらゆる手段をつくし、なかにはインチキなこともあったように思われる」と書いている。

 

近代の激流を泳ぎ切ったR.ガルトネル

ガルトネル農場をめぐる顛末を整理してみよう。ソースは、『七飯町史』や『函館市史』、『ブナの林が語り伝えること』(田辺安一)、そして七飯町歴史館の学芸員山田央(ひさし)さんの話などだ。
はじまりは、ペリー艦隊の箱館来航(1854年)。海外にできるだけ門戸を閉ざしていた江戸幕府は、阿片戦争(1840〜42)で清朝が英国に屈するさまを目の当たりにした上、ロシアの南下がいよいよ現実のものになる情勢に押されて、まず下田と箱館を開港。北方への備えを松前藩には任せておけぬと約半世紀ぶりに蝦夷地を直轄して、箱館に奉行所を置いた(1854年)。1858(安政5)年にはアメリカ、ロシア、イギリス、オランダ、フランスと通商条約が次々に結ばれる。米国貿易事務官ライスやロシア領事ゴスケウィッチをはじめとして各国の領事や商人が箱館に在留するようになり、海外からの人とモノと情報が行き交うようになった。先行する列強につづいてプロシアとのあいだに日普修好条約が結ばれたのは1861(文久元)年。1863年の年明けに発効した。その翌月に会津藩主松平容保が京都町奉行に任じられて、いよいよ幕末の風雲が急を告げるころだ。

『函館市史』には幕末からの外国居留人一覧表があり、商業の分野では1862(文久2)年の欄にC.ゲルトナーという名がある。ガルトネルの独語読みで、これはR.ガルトネルの弟だ(以下C.ガルトネル)。弟は貿易商としてやってきたのだが、ほどなくしてプロシアの箱館駐在副領事となった。横浜にいるプロシア領事マックス・フォン・ブラントはこのころ、樺太に進出する大国ロシアの動向が気になっていた。

先述したように、幕府はロシアの脅威に備えるために松前藩から蝦夷地を取り上げ、防衛と興産を担う出先機関、箱館奉行所を設けた。トップが箱館奉行だ。1866(慶応2)年の年頭に最後の箱館奉行となったのが、杉浦誠。杉浦は幕末の激動を詳細な日記に残したことでも知られるが、ちょうどそのころ、C.ガルトネルの兄であるR.ガルトネルも弟を追って箱館にやってきた。
箱館が開港されると、外国船は薪水や食糧を求める。そこで七重村(「七飯」の表記は1879年・明治12年から)に牧場や農園がつくられ、奉行所直轄の農園「御薬園」では、マツやスギの苗木や薬草が植えられた。杉浦らは、寒冷地の内陸開拓を進めるためには西洋式の農業が必要だと考えていた。そこでガルトネル兄弟に相談して、兄は亀田村(現・函館市)に試験的に圃場を開くことになる。
ところが時局は急展開。戊辰戦争で幕府は倒れ、明治新政府は蝦夷地に箱館府を設けた。箱館奉行所は箱館裁判所という行政機関に再編される。R.ガルトネルはこの箱館裁判所と交渉して畑を維持しながら、さらに御薬園周辺を本格的に開墾する契約を結ぶことに成功。本国から技術者を呼び、農機具などもつぎつぎに取り寄せて開墾を進めた。箱館裁判所も、杉浦らが構想したように蝦夷地での西洋農業の可能性を理解していたのだった。
しかし局面は再び大きくリセットされる。榎本武揚ひきいる徳川脱走軍が、旧幕臣たちのために蝦夷地に新たな国を起こそうと品川沖から艦隊を組んで北上。鷲ノ木(現・森町)に上陸したのだ。旧幕府軍の主力艦8艦を擁(よう)する2800名の陣容だった。榎本軍に押されて箱館府知事清水谷公考(きんなる)は青森へ退却。無人の五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は松前・江差へ進軍してたちまち全域を制圧した。箱館政権の誕生だ。寄せ集め集団だったので組織を民主的に整えるために、政権の役職は士官以上による入れ札(公選)で決められた。幕府での位がいちばん高かったのは初代外国奉行や初代軍艦奉行を務めた若年寄の永井玄蕃(げんば)だったが、軍艦頭だった榎本が総裁になる。永井は箱館をつかさどる箱館奉行となった。

R.ガルトネルはどうしたろう。彼は弟と連携しながら箱館奉行永井玄蕃としたたかに交渉を進めて、「蝦夷地七飯村開墾条約書」という契約を交わした。1869(明治2)年3月末(新暦)のこと。箱館政権も基本的には開拓のために外国の技術を取り入れることに迷いはなかったのだが、しかしその内容はなんと、七飯とその周辺にまたがる300万坪を99カ年にわたって租借して、日本の農夫たちに西洋農業を教えながら生産に取り組むというもの。土地にはすでに畑を営んでいた村人も少なくなかったから、契約は大きな混乱を招くことになった。
ところがはたしてその3カ月後、事態はまたくつがえる。
数でまさる新政府軍の猛烈な反撃を受けつづけた旧幕府軍は、ついに6月末(新暦)に降伏。五稜郭が開城され、戊辰戦争の最終局面である箱館戦争は、7カ月におよぶ戦いに終止符を打った。
箱館が函館に、蝦夷地が北海道となる日本の近代がここからはじまり、北海道に新天地を求めて、戊辰戦の敗戦で居場所を失ったたくさんの旧士族たちが津軽海峡を渡ってきた。政府は北海道開拓をつかさどる機関として開拓使を発足させる。

さて契約相手が二転三転したR.ガルトネルの事業はどうなっただろう。和人の手で北海道の開拓を本格的にはじめる上で、外国人が経営する広大な農場の存在は許せるものではない。ならばわが国も、とほかの列強も圧力をかけてくるだろう。しかし箱館府知事清水谷は問題を解決できず、これが政府の知るところとなった。R.ガルトネルは、契約が保証する権利を国際法の枠組の上で強硬に主張した。このままではヨーロッパ強国との外交問題となってしまう。
結局政府と開拓使はねばり強い交渉の結果、6万2500ドルという莫大な賠償金を払ってR.ガルトネルを帰国させたのだった。現在の12億円ほどにもなるという。しかし七飯町歴史館の学芸員山田央さんは、詳細はわからないものの、彼が本国から持ち込んだ大量の農機具や貴重な牛馬、技術者などにかけた経費のすべてを勘案すると、利益はさほどのものではなかったはずだ、と考えている。ガルトネルは1872(明治5)年に帰国し、農場は明治になって開拓使七重官園の母体となった。帰国してからのR.ガルトネルのことは、ほとんどわかっていない。

R.ガルトネルのことを考えてみたくて書きはじめたけれど、前段の説明だけで初回は終わってしまった。彼が開いた農場については、七飯町歴史館で詳しく知ることができる。

絵ハガキにもなっていた「ガルトネル約定文」(北海道立図書館所蔵「北海道史料絵葉書第二輯」より)

七飯町歴史館
北海道亀田郡七飯町本町6丁目1番3号
TEL:0138-66-2181
rekishikan●town.nanae.hokkaido.jp ※●を@に置き換えてご利用ください
開館/9:00〜17:00
休館/年末年始のみ

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