「ちょっと不思議な公園だよ」。
取材前にそう聞いたけれど、初めて訪れたときは確かに驚いた。
うねるように枝を伸ばす大木。その根元を細枝が覆い、深緑の絨毯が広がる。
散策路や遊具が整ってはいるが、鬱蒼とした雰囲気は、原始の匂いを放っている。
郊外ならともかく、ここは住宅街。札幌農学校「第3農場」の歴史を持つ、「大学村の森」である。
肌寒い10月早朝、「森」の一角で汗を流す集団がいた。
公園ボランティアとして維持・管理を支える、市民団体「大学村の森を守る会」だ。
この日は、落ち葉堆肥の袋詰め。集まった11人の手つきは慣れたもの。どんどん作業が進む。
ところで、変わった名前ですよね、「大学村の森」って。
でも、理由を知れば納得! このあたりは「第3農場」だった後、一時期、北海道大学の教職員住宅が建っていたのだ。
その数、多いときで250戸超。〝大学村〟と呼ばれていたというのも、うなずける。
その呼び名を継いだ「大学村の森」が誕生したのは、1982(昭和57)年のこと。
教職員住宅に隣接する約1ヘクタールの自然を、札幌市が「都市緑地」として開放したのである。
これで落着! 現在に至る…とは、ならなかった。
「草はボーボー、枯れ木もありました」。1990年代をそう振り返るのは、「守る会」代表の小笠原惠子さん。近くに住む彼女が、犬の散歩で訪れたときに目にしたのは、周囲をフェンスで囲われ、荒れた「森」の姿だった。
実は、1990年代、北大の教職員住宅はもう使われず、跡地として放置されていた。「大学村の森」を囲むように残されたこれら国有地は、立ち入り禁止に。
木々に覆われ、人目のつきにくいこの一帯は、ゴミが散らばり、無法状態。特に夜は、近所の人すら避けるようなスポットになってしまっていたのだ。
「身近な自然を守りたい」。
見かねた小笠原さんは、仲間数人と1996年、「大学村の森を守る会」を結成する。
そして取り組んだのが、札幌市に「森」周辺の国有地買い上げを求める運動だった。
とはいえ、そうした活動は初めて。
知り合いに要望書の作り方を教わり、手探りで署名運動をスタート。関係団体に頼んだり、近くの家を一軒一軒訪問したりして、なんとか3カ月で2300人分を集めたのである。
そうして署名を提出し、札幌市と交渉した結果、見事、要望が実現!
市が国有地を取得し、「森」の拡張整備工事を終えたのは、2002年のことだった。
…と聞けば、スムーズに思えるが、どっこい、現実は険しい道のりだったそう。
それまでの荒廃ぶりから、「森」再整備に反対の意見もあり、市民の声をまとめるのにひと苦労。
また、「森」のあり方を考えるため、自然環境の専門家を招いて猛勉強。
さらに、整備計画を市と協議しつつ、山野草の種子を集めたり、ドングリやハンノキの苗木を育てたり…と、想像以上の大仕事が待っていたのである。
憩いの場となって14年。小笠原さんたち「守る会」は、いまも「森」を愛し、見守り続けている。
その思いに応えるように、「森」は、豊かさを取り戻している。
たとえば、20年前には「寿命」と言われたハンノキ。落ち葉や刈り取った草を堆肥代わりにせっせと与えたら、徐々に元気になり、今年もしっかり葉を茂らせた。
オオウバユリやシラネアオイ、スズラン…手塩にかけて育てた花々は、季節ごとに「森」を彩る。
「色々な方のおかげで、こんなに気持ちの良い場所になりました。私の〝生きた証〟として、何年でも見続けたいです」。
嬉しそうに話す小笠原さんたちに、思わず拍手したくなったのは、私だけではないはずだ。
さて、「大学村の森」は市民の声をきっかけに新生したが、そのずっと前、札幌農学校の「第3農場」時代にも、存続の危機があったことを知る人は少ないだろう。
そもそも、「第2農場」と「第3農場」は、成り立ちが全く違う。
北海道開拓のモデル農場として誕生した「第2」に対し、「第3」は、農学校が運営する小作農場だったのだ。
なぜ、わざわざ小作人を雇ってまで、土地を耕したのか。
理由は、「第3農場」(当初は「茨戸開墾地」)ができる3年前、1886(明治19)年にさかのぼる。
当時、北海道庁の管轄下となった農学校は、「開拓の現実に適さない」と批判を受け、経費節減の一環として、農場の大幅縮小を余儀なくされていた。
この事態を憂慮した卒業生の佐藤昌介氏が、アメリカの留学体験をもとに「『営農主義』の農園」を進言する。つまり、学校の資産作りのための農場を作ろう、というわけだ。
この提案が通り、1889年に道庁から与えられた「札幌郡札幌村烈烈布(レツレップ)」の土地約110万坪が、後の「第3農場」である。
ところが、これで順調かと思われた矢先、とんでもない事態が起きる。
同じ1889年、国が「会計法」を制定したのだ。これは、官庁が資産を所持することを禁じる法律。すなわち、道立の農学校は財産や土地を持てなくなったのである。
再び訪れた農場の危機。
そこで、佐藤氏や第3代農場長・南鷹次郎氏らは、一計を案じる。
それは、卒業生で作る「札幌同窓会」が農場を引き取り、いつか農学校に戻せる日まで経営する、というものだった。
波乱続きの農地が、晴れて農学校の所有となり、「第3農場」と命名されたのは、それから6年後。その陰には、農学校と卒業生たちの頑張りがあったのだ。
ここで、「第3農場」に最初に入植した小作人、馬場慶太郎氏を紹介したい。
『農場彙報(いほう)』第1号(北海道帝国大学附属農場、1937年)に、彼はこんな回顧談を寄せている。
先づ私の一家が大学の小作人となつた次第を申せば、当時熊本県出身で山室朝行と云ふ人が札幌農学校を卒業して郷里に帰つて来られた節農学校で小作人が入用であるからと勧誘され、同郷のもの五戸明治二十三年四月に現在の所に入地したのである。……其の頃の作物は今日とは違つて自給自足を第一と作付したが其重なるものは馬鈴薯、粟、蕎麦、玉蜀黍、菜豆類であつた。今日とは違ひ気候も悪く秋は霜早く、春は遅く迄で降り、年々、霜害を被つた。
南の九州から、はるか北の新天地へ。開墾生活の困難さは、想像に余りある。
まして、札幌村烈烈布(後の「第3農場」)の土地は、札幌で最も低い位置にあり、明治初期、低層湿原の光景が広がっていたそう。牛や馬を使うことが難しいほどの泥炭地だったというから、農地に利用するための土地改良に、どれだけ苦労を重ねたのだろう。
ちなみに、札幌村(第3農場)のほか、農学校の小作農場は札幌郡平岸村(第4農場)、空知郡栗沢村(第5農場)、夕張郡角田村(第6農場)、亀田郡中村(第7農場)、空知郡富良野村(第8農場)と、道内各地にできた。当初、「第3」の10戸を含む15戸だった小作農家は、同窓会から農学校に運営が移った1895年には94戸、1909年には最大数1104戸に達した。
1104の家族が、ここ北の地に根を下ろし、農作業に明け暮れたことに、思いを馳せてみたい。
農学校の小作農場の歴史は、戦後まもなく終わりを迎える。
農地解放運動によって、北大はすべての農地を売却するのだ。
ただ、「第3農場」の一部は、教員用の住宅地になり、「大学村の森」へとつながるのである。
当時を偲ぶものは、「森」にほとんど残されていない。ただひとつ、足元に注目してほしい。
一見なんの変哲もない緑の草。これは、牧草の一種「オーチャードグラス」で、牛馬の飼料を作っていた「第3農場」時代の名残だという。
また、「第3農場」にまつわる石碑が、「大学村の森」から歩いて5分ほどの場所にある。
開墾完了を記念した「成墾紀念碑」。台座には、馬場氏を含む当時の小作人53人の名前が刻まれている。
「第3農場」時代と、「森」時代、2度の荒波を乗り越えた「大学村の森」。
そう知ると、あやしげに見えた木々も、なんだか悠然と佇んでいるように思えるから面白い。
「森」への親近感をもっと高めてくれたのは、「守る会」代表の小笠原さんの存在だ。
「このカシグルミは、近くにすむおばあちゃんが30代の時に植えたもの。もう60歳になるのよ」
「あの子は10年前に植えた記念樹のナナカマド。このクリの木は、最近実がなり始めたわね」
「春先はオオウバユリやシラネアオイが本当にキレイ! ハマナスも種から植えたのよ」
言葉の端々にあふれる、「森」への愛。その“原点”はなんですか?
すると、「知床の原始林かもしれません」と意外な答え。
聞けば、父親は、宮城県から知床に入植した戦後の開拓団団長。1953(昭和28)年、小笠原さん10歳のころ、家族で移り住んだのだという。
「斜里の高校に通うまでの5年間、知床の森で思いきり遊んだのが、自然を愛する原体験です」。
その後、小笠原さんは結婚し、夫の仕事の都合で札幌へ。パートの看護師として働きながら2人の子どもを育て上げ、生活にひと区切りついた頃、この「森」と出会ったのだ、と教えてくれた。
北海道開拓をけん引した札幌農学校を、陰で支えた「第3農場」。その息吹を伝える「大学村の森」は、〝開拓精神〟を引き寄せる、やっぱり不思議な場所なのかもしれない。
大学村の森を守る会
活動は毎週火・金の朝6時~7時。冬はお休み
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