「国稀」からはじまる日本海の記憶 -1

日本海から、もうひとつの北海道が見える

1902(明治35)年ころの国稀の酒蔵

日本最北の酒蔵。増毛町(ましけちょう)にある国稀(くにまれ)酒造(株)の創業者本間泰蔵は、明治の幕開けとともに佐渡から小樽に渡り、1875(明治8)年に増毛で事業を起こした。その足跡からは、いまとはずいぶんちがう、巨大な資源であり物流の大動脈としての日本海の姿が見えてくる。
谷口雅春-text

追いニシンが動かした列島の経済

「望来(もうらい・石狩市)あたりの年配の方には、小樽の高校に進んだ人がわりといるんですよ」。

日本海に面した増毛町(ましけちょう・留萌管内)の国稀酒造(株)に本間櫻企画室長を訪ねたとき、そんな話が出てハッとした。石狩湾東岸以北はかつて、陸路ではなく船で商都小樽と深く結ばれていたのだ。1920(大正9)年の第1回国勢調査では小樽の人口は北海道第2位で、札幌よりも5千人以上多い約10万8千人(道内最多は函館の14万5千人弱で全国9位)。それからほどなくして札幌の人口が小樽を超えるのだが、人々の消費と移動が動かす内陸の「官」のまち札幌に対して、海のある小樽は世界に開けた「民」の実業のまちだ。往時の勢いは比ぶべくもなかった。

日本海の航路からは、近世の和船の時代にもさかのぼる、いまとはちがう北海道マップが描けるはずだ。そこでまず小樽をベースにした海運の道内航路について知りたくて、小樽市総合博物館に行ってみた。学芸員の菅原慶郎さんは資料の文献類を取り出しながら、「かつては利尻からも小樽に進学する人がわりといたし、石狩から北の日本海沿岸の人たちは、小樽とは航路によって心理的にも近い関係にあったのです」、と教えてくれた。

石狩湾の東の基点となるのが雄冬岬で、西の対岸が積丹岬。石狩から北へ、望来、厚田、浜益。その先の千代志別(チヨシベツ)から雄冬岬をはさんで増毛の大別苅(オオベツカリ)までは特に切り立った断崖がつづき、長いあいだ海沿いの道を開くことができなかった。札幌と留萌を結ぶ国道231号(日本海オロロンラインの一部)がようやく全通したのは昭和の終わり近く、1981(昭和56)年のことにすぎない。高倉健の名作『駅・ステーション』(降旗康男監督・倉本聰脚本)で主人公英次(高倉健)の実家は雄冬だが、当時は陸の孤島と呼ばれた雄冬に、英次は増毛から小さな定期航路船で向かうのだった。

陸路はなくてもしかし、太古から浦々には海を利した人々の営みがあった。近世以降に限っても、現在の増毛のあたりはアイヌ語地名でポロトマリ。「大きな停泊地」の意味だ。かつて無尽蔵とも思われた春ニシンを求めて、北海道の日本海側には松前藩とアイヌとの交易の場(「場所」)が連なっていた。マシケ場所(現在の増毛・浜益エリア)が本格的に設けられたのは18世紀初頭で、一帯の知行主は下国家(松前藩家老)。請負商人は松前の阿部屋専八らだ(下国家や請負商人のことは回をあらためてふれよう)。その前(1669年)にはシャクシャインの乱と呼ばれる、松前藩の支配に対するアイヌの大規模な蜂起があり、マシケでも多数の死者が出ていた。『増毛町概史』(1970)によれば宝永3(1706)年の時点でマシケ場所[ゴキビル(濃昼)よりルルモッペ川(留萌川)まで]の16里(64キロ)あまりに10軒の運上屋があり、そのまわりを含めて168軒の小屋で460人が働いていた、とある。主要産物は春のニシンと秋のサケで、ニシン1万5千束(※150万尾分)、サケ切囲(きりがこい・干物)1万5千束(※75万尾分)というおそるべき数が記されている(原典は「北藩紀略」)。ここではアイヌの人数がわからないが、時代を下って天明6(1786)年では、マシケ場所には「蝦夷男女人数336人、家数75軒」とある(同「西蝦夷地場所記」)。

18世紀はじめから本格化した西蝦夷地(北海道日本海側)のニシン漁の中心は松前や江差のある道南の檜山(ひやま)地方だった。しかし資源が減ったために、漁場は19世紀半ばから北上をはじめる。漁業者たちはニシンを求めて北へ大移動。これを追いニシンといい、出稼ぎ漁民たちを二八取りと呼ぶ。漁の2割を漁業権をもつ請負商人に納めると、あとは自分の稼ぎになるのだ。彼らによってマシケをはじめとした石狩以北のニシン場の経済が一気に拡大していった。先述の『増毛町概史』によれば、1856(安政3)年のマシケには百軒に近い追いニシン業者がいたとある(同「協和私役」)。彼らのもとに、アイヌと和人、たくさんの雇人が集められた。漁法や網の進化もあり、出稼ぎ漁業者によるニシンの水揚げは、この年のマシケだけで1万300石(7725トン)という膨大な量だ(近年は北海道全体でも5千トンに満たない)。

ではニシンはどのように消費されたのだろう。当初はもっぱら、干して身欠(みがき)ニシンやカズノコとして本州に移出されたが、やがて漁場ごとに丸ごと煮上げて、油をしぼったあとのかす(〆粕)を干して良質な肥料に加工するようになる。これが船(いわゆる北前船)で大量に関西方面に運ばれて、木綿やタバコ、藍など商品作物の栽培に欠かせないものになっていった。ニシンやコンブに代表される蝦夷地産物の流通が、近世後期に日本列島の経済の起爆力となったことは、しっかりと押さえておく必要があるだろう。菊池勇夫の『アイヌ民族と日本人』などでは、この動きが中継交易地としての下関や兵庫を台頭させ、買積船の活躍を生んだことが強調されている。つまりそれが三都(京都・大阪・江戸)を中心とする幕藩制的な流通の構造をゆさぶり、商業的な農業や富農の出現を可能にして、日本の近代化を下から進めたのだという。

 

海の道が商都小樽と道北を結んだ

話を、日本最北の酒蔵、増毛の国稀酒造(株)にもどそう。

国稀酒造の創業者本間泰蔵(1849-1927)は、新潟県佐渡の西部、河原田諏訪町に生まれた。老舗の仕立屋の3男で、19歳の多感な時期に戊辰の戦乱があり、時代は明治へ。20歳で単身島を出て小樽に渡り、近江商人の丸一松井呉服店に養子格の番頭として働いた。

江戸時代から蝦夷(北海道)と海運で深く結ばれていた越後・佐渡は、津軽や北陸とともに、北海道への移民を大量に生んだ土地だ。勤勉で進取の意欲に燃えていた泰蔵は、小樽から石狩湾の対岸、増毛方面への外商に精を出した。当時の増毛のニシン漁は目を見はる好漁で、泰蔵は下船して反物の荷を解く間もあらばこそ、とにかく商品を持ち込めば売れる繁盛ぶり。ならば、と1875(明治8)年にこの地に移り住み、独立を果たした。屋号は、主人から譲り受けた丸一。主人が訳あって店じまいを決め、泰蔵を見込んで店の商品のすべてを格安の値で譲り渡してくれたことがチャンスとなった。『小樽市史』(1958)によれば、この年の小樽港を出入りした666隻のすべてはまだ帆船(しかも638隻が和船)。開拓使は500石積(74トン)以上の和船の新造を禁じる布令を出して、西洋船への切り替えを打ち出していた。海の道はまだそんな段階だった。

国稀酒造(株)の創業者本間泰蔵(1849-1927)。63歳のころ

呉服・荒物雑貨商として事業をスタートさせた泰蔵だが、1881(明治14)年にはニシンの漁業権も手にして、翌82年には醸造業の届け出をしている。豪雪で知られる暑寒別山系の名水を活かして、抱えるヤン衆(漁の雇人)に飲ませるために酒造りをはじめたのはその3年前だが、国稀酒造ではこの1882(明治15)年を創業年としている。

和人の本格的な入植がはじまった明治の初頭、北海道への物流は船が担った。しかしなにしろコストがかかった。札幌に今井呉服店(のちの丸井今井百貨店)が開店した1872(明治5)年の数字では、東京から札幌までの運送料が、横浜からサンフランシスコまでの運賃より高かったという(『増毛町史』)。まして陸路がおぼつかない増毛方面へは気候が荒れる冬期には定期船もままならず、人々は物不足と物価の変動に悩まされた。当然、海難も絶えない。東京の三菱会社が政府の補助のもとに青森・函館・小樽を結ぶ定期船を就航させたのが明治10年代に入ってからで、1883(明治16)年にようやく共同運輸会社が、洋船の汽船による小樽・増毛間の定期航路を開いた。85年には同社と三菱会社が共同で立ち上げた日本郵船が、道庁の手厚い補助を受けながら小樽・増毛間と、宗谷、焼尻、利尻、天売への定期航路を開いた(冬期をのぞく)。このとき小樽・増毛間の運賃はひとり2円というから、米価で換算すると現在の3万円弱にもなる。

こうした状況に置かれた増毛では、漁業者のあいだで自前の汽船をもつ者がいち早く現れた。その代表格が本間泰蔵だ。彼を動かしたのは、沿岸の海運を独占していた日本郵船の独善的な運賃や不安定な運航への異議だった。『増毛町史』には、「沿岸の海運に寄与し、功績のあったのは何といっても丸一本間泰蔵であろう」とあり、泰蔵は「難苦の末天塩国第一の事業家、資産家となった。その一代の努力は広く人口に膾炙(かいしゃ)している」とつづく。泰蔵は呉服、荒物雑貨、醸造業のほかに不動産や山林、倉庫などにも事業を広げ、これらを束ねて1902(明治35)年には丸一本間合名会社をつくった。

明治期に海運界にも打って出た丸一本間(現・国稀酒造)。所有した留萌丸の進水式

泰蔵の最初の持ち船は、1887(明治20)年に小樽の加藤清俊から買った30トンの木造汽船。翌年には石狩川で使われていた樺戸丸(35トン)を買っている。自由民権運動でとらわれた政治犯など重罪人を収容するために月形(空知管内)に開庁した樺戸集治監にちなむ蒸気船だったが、1892(明治25)年にこの船は、小樽と宗谷のあいだの諸港に65回も就航したという記録が残っている。彼はその後も持ち船を増やし、地元で立ち上がった造船所で建造した天塩川丸は、道庁の補助を受けて樺太への定期航路に就航したし、その名も増毛丸(140トン)は、小樽や古平、岩内などを経由して郷里の佐渡と増毛を結んだ。1910(明治43)年の年の瀬には大時化が続いて物資不足に陥った樺太島民を救うべく、捨て身の思いで留萌丸(330トン)を出港させて、のちに樺太庁長官平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)から感謝状を贈られている。通算12隻もの汽船を所有した丸一本間は、日清、日露の戦役に伴う御用船の需要もあり、海運の分野でも、一時は小樽の海運王板谷宮吉をもしのぐほどの隆盛を誇ったという。

『札幌沿革史』(1897)には、「小樽商人は駿馬の如く、札幌商人は牛の如し」という一節が出てくる。大正期の小樽商人たちは、第一次世界大戦がもたらした途方もない商機にしたたかに即応してみせた。戦火で食糧に欠いたヨーロッパに、開通したばかりの狩勝峠の鉄路を駆使して十勝の雑穀などを送り出し、巨万の富を蓄えたのだ。一方で、身体ひとつで日銭を稼げる港には、道内外からおびただしい貧者が集まった。佐渡から渡った本間泰蔵が志を立てた明治以来、社会のこのレンジの多様な広さこそが、商都小樽の原動力だった。小林多喜二が小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)を卒業して北海道拓殖銀行小樽支店にいた1926(大正15)年の小樽商工名鑑には、小樽港発着の定期航路が紹介されている。

増毛や宗谷方面を見れば、「北海道庁命令定期船」という分類で2航路があり、北海郵船が運航する「小樽稚内甲線」では、小樽・増毛・留萌・天塩・焼尻、そして仙法志(利尻島)・鬼脇(利尻島)・鷲泊(利尻島)・沓形(利尻島)・香深(礼文島)・稚内に行くことができる。同社には樺太への3航路もある。
藤山汽船部が運航する「小樽稚内乙線」は、小樽・増毛・留萌・鬼鹿・苫前・羽幌・遠別・天塩と北上して、さらに鷲泊(利尻島)・鬼脇(利尻島)・沓形(利尻島)・船泊(礼文島)・稚内を結んでいる。内陸路が延びた現代に生きる僕たちには想像しにくいが、小樽を拠点にした日本海の道は、人々の暮らしと経済に欠かすことができない大動脈だったのだ。冒頭でふれた、利尻・礼文を含めて航路のあるまちに暮らす少なからぬ子弟が小樽に進学したのも、ごく自然ななりゆきだったのだと納得するほかない。

小樽からはもちろん北陸や阪神、東京への航路もいくつもあり、さらには韓国やロシア、北米、ヨーロッパへの定期航路や自由航路があって、商工名鑑の文字を追うだけでその繁栄をしのぶには十分だ。

ニシンは、250年以上にわたって北海道の日本海沿岸に途方もない富をもたらした。しかし1958(昭和33)年を最後に、あっけなく絶えてしまう。北海道の日本海のニシン漁は、歴史の大河からいきなり切断されたように終わってしまった。

※写真提供/国稀酒造株式会社

国稀酒造株式会社
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