羊蹄山麓の昭和史-2

地域の資源を耕したい

冬の有島記念館。左に見える木造の建物が、有島農場の小作農家の歴史をつなぐ有島謝恩会館

歴史の教科書で、戦後はいつも駆け足だった。その空白や足りない資料を埋めるのが地域の取り組みの蓄積だろう。ニセコの戦後やこれからを考えるとき、有島農場がもつ意味がおのずと立ち上がってくる。
谷口雅春-text&photo

有島農場と中谷宇吉郎

有島記念館の伊藤大介さん(主任学芸員)と「土香る会(有島記念館と歩む会)」の井上剛さんや梅田滋さんたちは、かつての有島農場にちなむ人々の聞き書きを進めている。それらをもとに話をはじめたい。
聞き書き(2014年)のテキストを見せていただいたとき、入植三代目になる亀田満吉さん(1934年生まれ)との会話で、戦後すぐには農場の一角に中谷宇吉郎博士(雪氷学・北海道大学教授)の一家が暮らしていたんだよ、などとあってたちまち興味を引かれた。

雪の博士中谷は戦時中、ニセコアンヌプリ(1308メートル)山頂の観測所(財団法人大日本航空技術協会運営)で、航空機の着氷現象の研究を進めていたことで知られる。天候変化に左右されやすい高度3千〜4千メートルを飛ぶ当時の軍用機は、北方域では翼やプロペラの着氷がもとで墜落してしまう危険があった。そこで着氷のメカニズムを解き明かしてこれを防ぐ仕組みを確立させようと、山頂にはまず実物の九六式艦上戦闘機が運ばれ、次にゼロ戦が、風向きに合わせて回転できる台の上に据え付けられた。ゼロ戦などの荷揚げに、地元の青年団や旧制倶知安中学(現倶知安高校)の生徒100名以上が動員されている。

観測所では、研究者や軍の関係者、記録映像のスタッフなど総勢20名ほどが泊まり込みで研究がつづけられた。食事の世話などでは、地元の協力が欠かせない。『ニセコ町百年史』には、ふもとからスキーで5時間もかかるこの山頂の観測所に賄(まかな)い婦として働くひとりの女性のことが、科学者たちの母としてふれられている。

山頂が吹雪になると、研究の本番がはじまる。モーターで駆動するゼロ戦のプロペラ音がふもとに重たく響いた。山頂には、尻別川を利用した王子製紙尻別第一発電所から、電力がつねに安定して供給されていたのだ。しかし実験は重大な軍事機密だから、人々は戦時中ニセコアンヌプリに登ることはもちろん、観測所を話題にすることさえ禁じられていた。今日はプロペラが回ってるね、などという世間話も憚(はばか)られ、人々はそれらがまるでないものとして暮らしたという。
一方で観測所の研究者たちは、好天の日には比較的手が空いた。だから人目につかないニセコアンヌプリの北斜面でこっそりスキーを楽しむこともあったという。1912(明治45)年にオーストリア=ハンガリー帝国のレルヒ中佐がこの地にスキーを伝えてからはじまったスキー史は、戦時下でもかろうじて絶えることはなかったのだ。

戦争が終わると観測所はすぐ閉鎖され、ゼロ戦は倶知安側の藤原の沢に突き落とされた。進駐軍に見つかってはめんどうなことになると考えられたのだ(自然落下説もある)。しばらくして関係者が戻ってみると、観測所の機器や備品は金目のものを求める何者かに持ち去られ、機械類もあらかた破壊されてしまっていた。沢筋に落ちたゼロ戦も、多くのパーツが持ち去られていた。主翼に使われていたジュラルミンでキセルを作ったとか、ジュラルミン片を札幌に持っていくとうどん一杯が食べられた、はたまた、キャノピーを鍋に使ったとなどという話が伝わっていることを、倶知安風土館で矢吹俊男さんと岡崎克則さんに聞いたことがある。ゼロ戦の主翼の残骸があらためて発見されたのは1990年で、紆余曲折を経て、2003年には比較的状態が良かった右翼が倶知安風土館に展示されることになった。

『中谷宇吉郎 人の役に立つ研究をせよ』(杉山滋郎)などによれば、戦争が終わると中谷は、北大教授をつとめながら(財団法人農業物理研究所を立ち上げた。直面する食糧難打開のため、そして弟子たちに新たな仕事をあてがうために、農業に物理学や工学を取り入れる取り組みをはじめたのだ。
のちに画家木田金次郎との共著『北海道』(1960年)で中谷は、終戦直後の都市と農村をめぐる混乱について述懐している。
「都会の人間は餓死に瀕しているのに農民たちは米を食っている。供出しろ、供出しろ。闇で儲ける農家は、都会人が目をむく酒池肉林の宴会までできてしまうではないか—」
「何を言うか、食いたけりゃ自分で作ればいい。もう供出なんかしないぞ。そういつまでも農家を騙せると思ったら大まちがいだ—」
あの時代は、都市と農村それぞれの心情にそんな激しい思いがあった。研究では基礎と応用がつねに結びついていた中谷にとって、食糧問題の解決は当時の都市と農村の双方に大きな価値をもつテーマだった。

中谷は札幌の自宅(南4条西16丁目)を農業物理研究所の本部として、狩太村(現ニセコ町)の有島や曽我、南尻別村(現・蘭越町)、銭函(小樽市)、芽室町などにも分室を設けた。そして家族とともに有島に暮らしたのだった。研究所では、積雪面に畝を立てて融雪を早めたり、春の水田の水温を上げる研究や、作物の積算温度計算のための温度計の開発などが行われた。

聞き書きによれば亀田満吉さんは、ダイナマイトを使って融雪を早める実験を見たことがあるという。山の土を木箱でたくさん畑に運んで積み上げて、それを爆発させて土を吹き飛ばしてばらまいたのだ。また研究所には当時珍しかったトラックがあり、農閑期には地域の農家たちが荷台に乗ってみんなで洞爺湖温泉に遊びに行った。亀田さんは、中谷家の「長女はわしと同じ歳で、息子はわしより3つか4つ歳下だったかな」と言い、いっしょに学校に通う仲だった。長女とは、博士が戦前に行った道東や千島の夏の防霧の研究をアートで変奏するように、「霧の彫刻家」となった中谷芙美子のことだ。

旧有島農場の一角。ここに中谷宇吉郎が立ち上げた農業物理研究所の狩太分室と、中谷が家族と暮らした住宅があった

有島がニセコに残したものは

亀田満吉さん夫人のトミコさんは、1938(昭和13)年に有島第二農場(現ニセコ町豊里)に生まれた。第二農場の人たちはみな大らかで酒飲みが多かったという。土地は真狩市街に近いので用を足しにしばしば出かけたが、途中に酒も売っている万屋(よろずや)があって、男たちはみなそこに吸い寄せられて飲むことが習いだったからだ。

トミコさんが小学校1年生のとき、戦争が終わった。ある朝、児童はみんなデンプン袋を持たされて、学校のまわりにあるイタドリの葉を取ってくるように言われたことがあった。タバコの葉にして、帰還兵に提供するためだった。養蚕のために山にある桑を校庭に植えたことも覚えている。
「終戦直後ちょっとのあいだはこんな風で、軍事教育の名残がそのまま残っていたので、私はおかしいと思って先生に文句言ったんだけど、そんなことをするのは私ぐらいだったね」

かつて有島第一農場があったニセコ町有島は、「有島」「有島一」「有島二」「有島三」と4つの地区で構成されている。有島記念館や有島謝恩会館がある地区は「有島」で、亀田さんの家は「有島三」にある。近年移住してきた人々も暮らす土地だ。
4つの地区にはそれぞれに自治振興会があり、全体を束ねる組織として「有島謝恩会」がある。戦後の農地改革で、旧有島農場の小作人たちが立ち上げた有限責任狩太共生農団信用利用組合が解散するとき、農団の歩みを各人の心に留めようと結成された会だ。有島記念館の伊藤大介さんによれば、謝恩会の創立メンバーは高齢化や離農によって減り続け、現在もこの地に暮らすのは、亀田満吉さん一家をふくめて4軒。しかもみな後継者を持たないという。有島記念館の敷地にある古い建物は、現在の有島謝恩会館。有島武郎と木田金次郎が語り合った農場事務所が焼失した(1957年)のちに謝恩会員と有志の寄付によって再建され、1978(昭和53)年に現在の有島記念館が開館したのに伴い、資料を展示していた2階の部分を現在地に移したものだ。いまは地域の集会所として使われている。

亀田満吉さんは戦後の有島地区について、農地改革に伴う狩太共生農団の解散を経て、出て行った人も入ってきた人も多いという。しかし昭和20年代は有島部落全体で青年団の活動が盛んで、なかでも青年団主催の演劇が名物だった。丘の上から有島農場の歴史を見守ってきた弥照(いやてる)神社の秋の例大祭には境内に舞台がつくられ、しっかり準備に時間をかけた演劇が行われたという。劇以外の演し物もつぎつぎに登場して、部落の人はもとより町内からも人が集まり、出店も並んだ。有島に限らずほかの部落の青年団でも演劇が盛んで、全町で演劇コンクールが行われ、亀田さんたちが優勝したこともあった。
尻別川を挟んで有島の対岸の曾我にある王子製紙の水力発電所でも、お盆には映画の上映などがあって、人々は楽しみにしていた。しかし昭和30年代にテレビが家庭に入るようになると、こうした催しは見る間に廃れていく。トミコさんが満吉さんの家に嫁いだのはちょうどそんな時代、1960(昭和35)年だった。

有島武郎と有島農場の管理人である吉川銀之丞は、農場の経営基盤を強化させようと大正期に造田に取り組み、農場解放の前年、1921(大正10)年にはいまも使われている潅漑溝を完成させている。有島地区の稲作は、大正末から戦前の一時期まで、「有嶋米」というブランド米が作られるまでに発展した。

いま有島謝恩会と地域の水利組合は、毎年5月に潅漑溝の泥上げ、6月に草刈りを行っている。組合員の減少と高齢化で農家だけでは維持が難しくなっていたところ、近年は有島地区の新住民や地域外の中から参加する人も見られ、「土香る会(有島記念館と歩む会)」の井上剛会長や事務局の梅田滋さんも関わっている。梅田さんは、弥照神社の祭壇はふたつあって、ひとつは潅漑溝にちなむ水神さん、もうひとつは土地の神をまつる社日さんだと教えてくれた。

鉄路が通る前。ニセコの和人の歴史を動かした初期の事業のひとつが、明治30年代からはじまった有島農場の歩みだ。しかし大正後期の小作人の解放や、戦中戦後の混乱を経て、有島地区の歴史の流れはしだいに勢いを静め、有島武郎の作品自体、若い読者を減らしつづけてきたことも事実だ。
有島記念館では、こうした状況をなんとか変えていこうと近年さまざまな取り組みを行っている。今年度(2018年)は、岩内の画家木田金次郎をモデルにした有島の名作「生れ出づる悩み」の出版百年の節目であることを最大に活用した。岩内町の木田金次郎美術館と力を合わせて、「出版百年 有島武郎『生れ出づる悩み』と 画家・木田金次郎」展を道内外の4カ所(東京都府中市・札幌市・ニセコ町・岩内町)で巡回している(4カ所目の岩内・木田金次郎美術館での開催は2019年1月12日〜3月31日)。

「有島の資料があれば有島の文学館は各地にできるだろうけれど、この有島記念館はニセコにしか存在できないんです」
有島記念館の主任学芸員伊藤大介さんは、そのことを強調する。記念館の存在意義が、有島武郎の人生の根幹と関わった有島農場に深く根ざしていることにあるからだ。ニセコ町の有島記念館は、戊辰戦争の勝ち組である薩摩閥の第二世代である有島武郎を通してふれることができる、ニセコの奥行きのある複雑な歴史風土の現れそのものなのだ。

「土香る会(有島記念館と歩む会)」も、地域住民の立場で記念館に伴走しながら、年10回ほど読書会を開いたり、コミュニティFMのラジオニセコで有島をめぐる1時間番組を定期的に発信している。さらにいま井上剛会長や事務局の梅田滋さんは、小・中学生が有島作品になじんでいける副読本を考えるワークショップをはじめている。「まず小中学生に有島をちゃんと読んでほしい。そのために、学校で使う副読本をニセコオリジナルで作ることをめざしています」、と井上会長。

地域にとって文学館や美術館の価値とはなんだろう。土地のアイコンとして町外の耳目を集めて、観光のコンテンツになることだろうか。まちがいではないがそれは答えの一部にすぎないだろう。ニセコでいえば有島記念館は、有島農場をめぐる豊富な一次資料を保守しながら、開拓史に根ざして地域を内側から開くことで、ニセコに関わる人々のつながりや創造力を育んでいこうとしている。それは例えば有島武郎と木田金次郎の出逢いと交友が僕たちに教えてくれる、人と土地をめぐる豊かな説話の織物の可能性を紡ぐような営みだ。上質なコーヒーが飲めるカフェとしても人気の有島記念館は、ニセコの大切な社交場であり学びの場、そしてムーブメントなのだ。インバウンドのツーリストたちをおおぜい迎える時代になって、その意味と価値の可能性はますます高まっている。

1922(大正11)年に有島武郎が農場解放を宣言した弥照神社(ニセコ町有島)

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