羊蹄山麓の昭和史-3

風土と交わる人が、新しい価値を生む

随筆の名手でもあった松実菱三の著作。『堅雪のころ』と『朝の茶ばしら』

長く苦しい戦争の時代が終わったとき。人々は何を取り戻し、何を育もうとしていたのだろう。羊蹄山麓のひとりの町長が残した仕事と文章から、その土地に生きる意味と固有のふるまいが見えてくる。町長の名は、松実菱三といった。
谷口雅春-text&photo

「じゃが祭り」の源流が生まれたころ

羊蹄山麓の代表的なイベントのひとつに「くっちゃんじゃが祭り」がある。8月最初の週末、倶知安駅前通商店街に多くの出店が立ち並び、町内外からおおぜいの人たちが集まる真夏の祝祭だ。お目当ては、じゃがいもジャンジャン取り、蒸しいもの無料配布、百人太鼓などの楽しいイベントで、夜にはじゃがねぶた、千人踊り、花火大会なども繰り広げられる。この名物祭りのスタートは、世の中にまだ戦後の混乱が続いていた1948(昭和23)年の夏だった。
倶知安風土館で、元館長の矢吹俊男さんから祭りの誕生を告知する町報を見せてもらったことがある。そこにある広報文は、羊蹄山麓になくてはならない作物である馬鈴薯(じゃがいも)を町内外に再認識してもらいたいと宣言しながら、こうつづく。
「これを耕作する農家に感謝の意を表し、かたがた馬鈴薯にも、何かしら『ありがとう』の一言を言いたい。こんな気持から馬鈴薯祭を開催することといたしました」。
それから次の節では、「馬鈴薯祭。ほほう変わったお祭りだなと、皆さんはほゝえまれることでしょう。そうです。そのあなたの、瞬間のほゝえみを私どもはお待ちしていたのです」と意表をつくような展開があり、結びに向かっては、「馬鈴薯、馬鈴薯、郷土の香り高い馬鈴薯をもつともつと増産して馬鈴薯山麓の真価を高めませう」、と盛り上げる。

ここには倶知安に暮らす人間の固有の思いと言葉がある。現在の産業祭やまち起こしをめぐる書類にあるような、主催者と場所を替えればどこでも使えるようなテンプレート臭がまったくないことがとても新鮮だ。仲間たちとの盛り上がりを巧みにすくいとるように書いたのは、祭りの協賛会長で、随筆家としても知られた、ときの倶知安町長松実菱三(1904-1973)だった。
松実には『堅雪のころ』(北海道評論社)、『孤亭の主』(北海道教育図書刊行会)、『朝の茶ばしら』(白楊社)と3冊の著作があるのだが、残念ながらこれらはいまほとんど入手困難で、倶知安町公民館図書室にさえない。著作のタイトルにもなった「堅雪のころ」は文藝春秋の1950年5月号に載った傑作エッセイで、春先の堅雪を主題にした羊蹄山麓賛歌だ。
名に負う豪雪地帯である倶知安盆地には、「腰切りの雪」(腰まで埋もれながらこいで進む雪)とか「泳ぐような雪」(さらに深い雪)といった言葉があるが、松実は、自分が好きなのは「堅雪」だという。堅雪とは、日中に融けかけた表面が夜間に冷え固まって凍りついた雪。春先の朝にだけ出現する、馬そりも沈まないほど固い雪原だ。その表面には細かな霜ができて、結晶のひとつひとつが朝日を浴びて広大に輝き渡る。一帯の農家は当時、待ち遠しい春に備えた堆肥や客土の運搬に、この堅雪を利用した。松実は、白銀にそびえる秀麗な羊蹄山を背景に、白い息を吐く馬そりの連なりがつくる早朝の風景は希望の象徴でもある、と書いている。
松実は、土地の人にとっては代々ありふれた日常に、とびきりの美しさを見出した。なんと豊かな感性だろう。じゃが祭りを生んだのは、土地に根ざして暮らしながら、なお他者のまなざしを合わせ持つ、松実のような人の五感とエネルギーだったのだろう。
松実菱三は、町長職にありながら精力的に時事エッセイなどに筆をふるった。これらは縁戚の山下義行さん(三女五十鈴さんの夫)によってきわめて丹念に収集・編纂され、私家版『松実菱三随筆集・歌詞・詩集』(上・下・続)として3巻にまとめられている(本稿はそれらにもとづく)。

松実菱三の人となりは、羊蹄山麓にとどまらない北海道近代史の興味深い断面につながっている。
松実家のルーツは、大和国十津川郷(現・奈良県吉野郡十津川村)。菱三の祖父の代に、十津川村は未曾有の大水害に襲われた(1889年8月)。6カ村からなる十津川郷2400戸あまりのうち、全壊・流出が420戸以上、半壊も180戸を超え、水田の半分は失われてしまった。集落の多くが熊野川の谷底の川沿いにあるために、恐ろしい地滑りに飲まれ、さらには土石で埋まった渓谷が各地で農地と家を水没させたのだ。人々は村を捨てるほかなかった。
村のリーダーたちや村出身で東京で学んでいた東武(1869-1939・のちの衆議院議員)らは、明治政府が国策として進める北海道開拓に進路を定め、奈良県知事から政府に移住を申請してもらえるように運動を進めた。政府の援助も厚かったが、これは古来勤王の地であった十津川ならではの追い風だった。
ほどなく内閣総理大臣黒田清隆から許可が出る。北海道庁が決めた彼らの入植地は、石狩国樺戸郡トック原野。現在の空知管内新十津川町だ。600戸、2489人もの大移民団は大きく3陣に分かれてやって来たのだが、道庁ではこの事業のために、石狩川沿い(ウシスベツ)に32区画を設け、浦臼や雨竜にいたる一帯に住んでいたアイヌ20数戸は強制移住させられた。
移民団がトックに入るとすでに区画割りされ、大倉組の請負で掘っ立て小屋が建てられていた。そのまわりは、太古からの深い森。一戸につき1万5千坪の原野が割りふられ、10年後の検査までに開墾できていれば、土地はそのまま自分のものになった。

この大移住団の副頭取を務めたのが、松実漏器(本名富之進)。菱三の祖父だ。若き日に戊辰戦争の緒戦(鳥羽伏見の戦い)も経験した漏器だが、移住したときには長男と次男はすでに成人していて、ふたりもそれぞれ土地の配分を受けている。菱三の父となる次男の菊治は、新十津川村役場、帝国製麻新十津川工場、同富良野工場、倶知安工場などで働いたのち、三代目の浦臼村村長となり、多度志村(現・深川市)村長、伊達日赤病院事務長などを務めた。菊治の三男が菱三だ。

「山麓ジャガいも祭」の開催主旨を告げる松実の一文が載った倶知安町報(1948年8月)(複写)

倶知安、雨竜と町長を歴任

松実菱三は、大移民団を率いた家の孫として、1904(明治37)年に新十津川村(現・新十津川町)に生まれた。空知農業学校で学んだが、体が弱かったので進学はかなわず、結核の療養と読書の青春時代をおくる。その後雨竜村役場や空知支庁などに勤め、1942(昭和17)年からは苫小牧、岩内、帯広で勤労動員の責任者となった。戦中の苫小牧と岩内では国民勤労動員署長。これは国家総動員法によって作られた役所で、戦時に伴う生産のための徴用(強制動員)が任務だ。中谷宇吉郎らがニセコアンヌプリ山頂に観測所を設けて航空機の着氷実験に当たったことは前回ふれたが、この人員の手配を手伝ったことで松実と中谷との交友が生まれた。中谷はその縁で『堅雪のころ』にあとがき文を寄せ、陳情に訪れた岩内の動員署でのひとコマを書いている。
「若い智的な風采の署長が應対されて『先生方がかういふつまらぬ陳情に出て來られるやうでは困ります。今後は手紙で十分です。御必要な人員は、私が責任をもって必ず間に合はせます。何卒御心配なく研究に専念してください』といふ挨拶をされた。それが松實さんだった」
一方で松実はのちに敗戦間近の状況を振り返ったエッセイで、希望のない状況にみんな嫌気が差したことを書いている。徴用をする方もされる方も、「もう精も根もつき果てたというのが現実であった」(1965年2月9日北海道新聞)。

松実は7人の子の父となったが、長女で札幌在住の山口双葉さんによれば、終戦直後に帯広勤労署(戦中の国民勤労動員署が名称を替え、のちに公共職業安定所となる)署長にあった松実の家を倶知安から町会の議長らが訪問し、町政を担ってほしいと懇請した。岩内での仕事ぶりが高く評価されていたのだった。こうして一家は倶知安に移り、1947(昭和22)年に地方自治法が制定されて首長が公選になると、最初の民選町長となる。「くっちゃんじゃが祭り」第1回の開催は、公選町長2年目の仕事。敗戦によって国のリセットを強いられた時代の新たな地域づくりのスタートだった。松実は1949(昭和24)年からは北海道町村会の副会長にもなったのだが、1958(昭和33)年12月、4期目の終盤で倶知安町長を辞任している。

後志支庁(現・後志総合振興局)や国鉄駅(函館本線と胆振線の倶知安駅)がある倶知安は組合活動も盛んで、1950年代前半には自衛隊駐屯地の誘致派と反対派の軋轢が町政を難しくしていた(1955年倶知安駐屯地開設)。山口さんは、元来文人気質で宴席も嫌った父はそんなことに嫌気がさしたのだと思う、と言う。一方で、父は理を好み、演説の名手だったので、全く知らない人の結婚式にスピーチを頼まれることもあった、と笑う。
辞任の事情には町村金五北海道知事らから砂川市長選に担ぎ出されるひと幕もあったのだが、この選挙に敗れ、1963(昭和38)年からは3期、ふるさとの隣まちである雨竜町の町長を務めた。雨竜にはもともと農業学校を卒業したとき(1923年)、蜂須賀農場から将来の支配人として来てほしい、という話があった。蜂須賀農場とは、公爵三条実美らが雨竜に立ち上げた雨龍華族組合農場が、三条の死によっていちど頓挫したのち、侯爵蜂須賀茂韶(もちあき)を不在地主として開かれた大規模農場だ。最盛期には千戸以上の小作を抱えたその規模や、激しい小作争議の史実でも知られている。雨龍華族組合農場の草創期には、町村金五の父である町村金弥が事業主任として働いていた。

倶知安町長公宅を訪ねた中谷宇吉郎と。前列右からふたりめが松実菱三で右に妻のサワエ、左に中谷。左端は鈴木五十治狩太村長(1948年ころ)(写真提供:山口双葉)

松実菱三とその時代

倶知安町長時代の松実菱三は、札幌で発行されていた論壇誌「北海評論」(北海評論社)を主な発表の場にしていた。『松実菱三随筆集・歌詞・詩集』(続)をひもとくと、1951(昭和26)年12月に興味深い論考がある。「北海道町村長 東京大會の記」だ。
この年の10月、地方自治権の確立や交付金の公正な配分、地方債の拡大といった要望を掲げて、両国国技館に全国の町村長と地方自治関係者が集まった。その数8千人以上。新生日本は中央集権の風潮を打破して市町村優先の原則に則り、地方分権の拡充を図らなければならないというのがその主旨だ。この年の9月にはサンフランシスコ講和条約が調印されて、敗戦国日本がようやく主権を回復する(発効は翌52年4月)。そして全国大会の翌日に開かれたのが、「北海道町村長 東京大會」だ。そこは北海道の首長170余名や北海道出身国会議員、北海道庁職員たちが、中央官庁の北海道関係者らに要望をあげる場だった。
この時代「中央」から遠い北海道は、他府県にくらべて物価は2割増しと言われていた。いわゆる北海道価格だ。さらに積雪寒冷のために燃料費や住居費、被服費もよけいにかかる。戦後復興を担う食糧や石炭の供給基地となり、日本のホープなどと持ち上げられていた北海道ではあるけれど、交通をはじめとする社会インフラが未熟すぎた。この年の夏には、運輸省・農林省・建設省の縦割り行政を横断する現業機関として、前年に設置された北海道開発庁に北海道開発局が誕生している。松実らは、北海道にはいまだ総合的な開発が必要なんだと強く訴えていた。

しかしこの論考で興味深いことはほかにある。この年の秋、来道していた鶴見祐輔とひと晩会談したという一節だ。新渡戸稲造を師にもつ元エリート官僚で戦前は衆議院議員だった鶴見は(1953年から参議院議員を一期務める)、松実に上のような北海道の課題や問題点を挙げさせた上で、「先づ北海道をあやまらしめたものは黒田清隆である」と断言する。
「彼のチョン鬟(まげ)政治が北海道を目茶々々にした。(中略)北海道への政府の投資は剰りにも少額に過ぎる。(中略)又北海道の人々は二口目には『寒地々々』というが、世界の國々で寒いのは獨り北海道ばかりでない。スヰスを見よ、デンマークを見よ。あの寒地にあつて立派に大成しているほどではないか。では何が足らぬかというと結論は政府のこれに對する認識と経済政策である」

松実はこれに満腔の賛意を表した。いまだインフラの整わないこの時代の北海道では、まずしっかりとした財政支出が不可欠で、それをもとに内発的な経済成長へとテイクオフすべきなのに、適切な投資が行われていないではないか、と。

鶴見祐輔の師である新渡戸稲造は南部出身で、のちに深く交わることになる同郷の佐藤昌介とともに札幌農学校の2期生として青春時代を札幌でおくった。新渡戸はやがて東京帝大教授や第一高等学校校長、スイスで国際連盟事務局次長を務めるが、佐藤昌介も北海道帝国大学の初代総長となり、日本の農学のパイオニアとして時代を拓く活躍をする。1928(昭和3年)には男爵を授爵したが、そのとき佐藤は、「戊辰の怨みを戊辰で晴らした」、と語ったという。
どういうことか。
つまり戊辰戦争で一敗地にまみれた盛岡藩士の長男であった佐藤は、次の戊辰の年である60年後の1928年に男爵となったことで、その雪辱を果たせたと実感したのだ。鶴見祐輔が戊辰の勝ち組エリートである黒田清隆をバッサリ斬り捨てたのも、師であり盛岡藩士の3男である新渡戸の心情を継いだものであっただろう。群馬出身の鶴見祐輔の父は、北海道の鉄道で働いていたこともあるエンジニアだった(祐輔の長男は哲学者・社会運動家の鶴見俊輔)。

松実は倶知安小学校や倶知安中学校、樺山小学校(倶知安町)をはじめたくさんの校歌の作詞も手がけている。倶知安小学校校歌の1番はこうだ。
「そよげしらかば/鳴れポプラ/羊蹄山をその窓に/みんな読んでる歌ってる/たのしい教室よい学校/かがやく歴史うけついで/学ぼう教え新しく」

ヤマナラシ(山鳴らし)の同属であるポプラが風にそよいでたくさんの葉を鳴らすさまは、夏の北海道を点描するのにぴったりのモチーフで、やはり卓抜のセンスだ。
昨年さかんに詠われた「北海道命名150年」には、いかにもテンプレートをなぞった企画だったという見方もあるだろう。僕たちは「くっちゃんじゃが祭り」を立ち上げた松実菱三たちの時代背景や心情を思うことで、そのことに思い至る。松実菱三がいま羊蹄山麓に暮らしていたら、自身と北海道の歩みの上に何を作り出すだろうか。倶知安小学校校歌1番の「学ぼう教え新しく」という一節には、いつの時代になっても、新たな学びによって地域の未来を動かしていこうという希望と決意がみなぎっている。

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