函館は横浜に次いで日本で2番目に上水道が敷設されたまちだが、本当は横浜より早くに計画されていたという。
「クロフォードというアメリカ人技士が設計して日本初の水道ができるはずでした。それが明治12年の大火で先に伸びた。その後、あらためてパーマというイギリス人技士の設計で進められたものの、大火でまた延期。3回目でようやく完成したのが明治22年です」
こう教えてくれたのは、函館で建設コンサルタント会社を経営する技術士の布村重樹さん。市民団体「函館湾岸価値創造プロジェクト」の会長を務めている。
「明治初期から大正にかけての40年で、函館は人口が4.5万人から15万人と3倍近く増えています。人口の急増にあわせ3回目は日本人の設計監督がスペックを見直して上水道を完成させました。横浜の水道はイギリス人技士の設計で明治20年に給水が始まったので、函館は日本人の手による水道の第一号といえるでしょう」
設計変更を重ねてできた函館の上水道は、非常に優れたものだった。30mほど高い場所にある水源地から9km超のパイプを引いて、ポンプを使わず自然の力だけで水を運び、函館山の中腹に設けた配水池から市街地に水を供給する仕組み。コンクリート製の配水池は、現存する最古の配水池であり、今も現役で利用されている。
「原水の水質がすごくいいので塩素の注入量が少ない。高低差を利用してエネルギーをかけずに市街地へと供給できる。函館の上水道には当時の技術者の理想が詰まっています。その恩恵を130年後の我々が享受できているわけですから、インフラの計画に欠かせないのは長期的な視点だと教えてくれます」
自らも技術士として公共事業の設計に携わる布村さんが、感慨深げにそう語る。
海に突き出た地形のせいで風が強い函館は、火事の多いまちだった。100戸以上焼失した火事は幕末から昭和初期まで100年間に50回以上。2年に1回は大きな火事が起きていた計算になる。いつなんどき火災に巻き込まれるか分からないまちで、燃えない建物はどれだけ渇望されていただろう。
火事で何度も焼失し、1915(大正4)年に日本初の鉄筋コンクリート製寺院として再建された東本願寺函館別院、1923(大正12)年建造の日本最古のコンクリート電柱、繁華街だった銀座通りに軒を並べるコンクリートの建物群など、当時は高価だったコンクリートの建造物が次々と建てられた。
それらを後押ししたのが、「近代土木の父」といわれる廣井勇である。
「廣井勇は小樽港で日本初のコンクリート防波堤を設計した技術者として知られていますが、小樽より前に手掛けたのが、函館の船入澗(ふないりま)防波堤です」と布村さん。「函館での試験がなければ、小樽の防波堤はできなかった」と強調する。
札幌農学校の教授だった廣井勇工学博士が手掛けた函館の船入澗防波堤は、コンクリートブロックの基礎に石積みを重ねた珍しい構造。1896(明治29)年に着工し、1899(明治32)年に完成している。小樽の北防波堤の着港が1897(明治30)年、完成が1908(明治41)年だから、確かに函館が数年早い。
「廣井勇は明治23年から函館でコンクリートの耐久性を高める試験を始め、配合比率を研究し、日本で初めてコンクリートの品質管理技術を確立しました。これをきっかけに日本全土のインフラ整備にコンクリートが使われるようになった。つまり、日本のコンクリート文化は函館で夜明けを迎えたのです」
その背景には、豊富な石灰石を供給する上磯の峩朗(がろう)鉱山と、1890(明治23)年に操業を開始した北海道セメント(現・太平洋セメント)工場の存在も大きかった。
「明治の末、北海道セメントは日本最大の生産量を誇っていました。このセメントがコンクリートの原料となり、日本の国土の近代化に大きく貢献したのです」
近くに鉱山があり、優れた技術者がいて、函館で花開いたコンクリート文化。布村さんの解説で、これまで知らなかった函館の一面が見えてきた。
「函館は幕末に日本初の開港都市として栄え、明治初期から近代土木技術によるインフラがいち早く整備されました。横浜などの他の開港都市は、スクラップアンドビルドで残っていません。その点、函館は市街地が郊外へ移ったため、旧市街地に古い建物が取り残されてしまった。それが結果よかったといえます」
最近はさまざまなシンポジウムやフォーラムで函館のコンクリート文化が紹介されたり、NHK-BSの番組が取材に来たり、あちこちで取り上げられる機会が増えたという。この秋には女性まちおこしグループが企画した「専門家と巡るマニアックバスツアー『函館コンクリート物語』」が催行され、道外からも多くの参加者が集まった。
「上磯のセメント工場や、笹流ダム、船入澗防波堤など、地元の人もなかなか行かないような場所へ案内するんですが、皆さんとても興味を持ってくれます。僕らみたいな中高年のオヤジが内輪で楽しむ程度だと思っていたら、意外に女の人や若い人が面白がってくれる。私は技術者なんで、なるべく当時の技術者のこだわりや工夫を伝えたいと思って説明するのですが、熱心に質問される方が多くて驚かされます」
布村さんが会長を務める函館湾岸価値創造プロジェクト(通称GRHABIP/グラピップ)にも、取材の問い合わせやガイドの依頼が相次いでいるという。
GRHABIPとはGreater Hakodate Bayside Innovation Projectの頭文字を取った略称。函館湾岸の歴史的・文化的価値を「発見」し、それらを「創造的」に発展させるという意味が込められているそうだ。
「始まりは、土木学会が選奨する土木遺産に函館のコンクリート建造物が選ばれたことでした。選定委員をされていた函館高専の教授に現地を案内してもらい、勉強会をしてみると、知れば知るほど面白い。それで技術士会として土木遺産を生かしたフットパスのルートを提案するなど、活動を始めたのが10年ほど前です」
その後、観光を専門とする大学教員と布村さんが意気投合。「面白い題材だから、産学官で会を立ち上げて観光に役立てましょう」と誘われ、市や開発局にも声を掛けて2015年に誕生したのが函館湾岸価値創造プロジェクトである。
歴史、地理、建築、土木、観光、金融、教育など、さまざまなジャンルの専門家が30名ほど集まっていて、これまでに小冊子「函館湾岸コンクリート物語」を制作したほか、パネル展やモニターツアーなどを実施。コンクリート建造物を被写体にしたフォトコンテストを開催し、受賞作品を使って「コンクリートカード」をつくるなど、ボランティアで地道な活動を続けてきた。JTBや北都交通がバスツアーを企画したり、カフェの経営者がコンクリートのように固いお菓子「コンクリートラスク」を商品化するなど、取り組みも多方面に広がっている。
しかし、こうした函館ならではのコンクリート建造物は、放っておくと消えてしまう運命にあると布村さんは言う。
「旧丸井今井百貨店の建物は、地域交流まちづくりセンターとして活用されているものの、銀座通りのコンクリート建築の多くは使われていません。民間の所有だから黙っていたら朽ちてなくなってしまう。だから私たちの活動には、その価値を伝え、活用の気運を高めるという意味もあります」
古い建物を保存するにはコストがかかる。布村さんらは「うまく手をかけて活用し、収益を生み出す仕組みを作らなければならない」と考えている。
それはGRHABIPの取り組みについても同様だ。「ガイドや講演の依頼はありがたいのですが、私たちメンバーもそれぞれ本業を持っていて、全てに対応しきれません。走り出しの役目はなんとか果たせたと思うので、これからは商業ベースにのせる仕組みが必要になる」と布村さん。
プロのガイドを養成し、有料で案内すれば事業として継続ができるかもしれない。そのためにはDMOなど法人組織も必要かもしれないとメンバーで話し合っている最中だ。
歴史に埋もれていた函館のコンクリート文化にスポットライトを当て、新しい切り口の観光資源として掘り起こしてきたGRHABIP。どのような広がりをみせるのか、次の展開が楽しみだ。
函館湾岸価値創造プロジェクト(GRHABIP)
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